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愛さずにはいられない  作者: 松澤 康廣
この素晴らしき世界
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 三人目の訪問者は、二人目の女性と同じ大学の学生だった。背が高く、どこかしら落ち着いた雰囲気のある若者だった。地味な背広を着て、地味なネクタイをしていた。その人物は河井壮夫と名乗った。樫村は自分の名刺を男に渡した。面接室で対座すると男は驚くべきことを樫村に要求した。

「志穂ちゃんを引きとりたい」


           4(1)


 インターネットで「三増(みませ)峠の戦い」を調べているうちに、三増合戦まつりの存在を知った。それほど古くから行われている祭りではないようだ。規模も大きくはない。

 期待するものがあった。

 三増合戦まつりを見たいと思った。

 行きたいと思った理由はいくつかある。祖先の忠勝が参加したかもしれない合戦であること、その合戦が地元でどう扱われているか知りたいと思ったこと、実際に武田軍の退却路を見てみたい……。


 甲陽軍艦(こうようぐんかん)()れば、信玄は座間で一泊してから相模川を越えて小田原に向かったとある。

 二万の軍は座間から当麻たいまのあたりに出、そこで一斉に相模川を渡った。壮観であったに違いない。住民は予期していただろうから、家財を持って、どこかに隠れただろう。そこで、この行軍を見たのだろうか。町は焼かれた。どんな気持ちでそれを見ただろうか。

 私は座間に出て、そこから座架依橋(ざかいばし)を渡って、三増に向かうことにした。


 自動車くるまで行くのは止めた。じっくり、行程を味わいたかったからだ。

 かといって、歩くのは辛すぎる。

 自転車で行くことにした。坂もあるだろうから、決して楽ではないことは予想されたが、地図で見る限り、それほど大変そうには見えなかった。


 自宅を出て、小田急江ノ島線に沿って北に向かい、聖セシリア女子高校を越えたあたりで左折し座間街道に入った。ここまでは比較的平坦な道だった。

 小田急線を越え、左折して行幸ぎょうこう通りに入り、座間のスポーツセンターを越えた。このまま行ったら、正面に相模川が見える筈だ。右手は座間キャンプで、そこに沿って、高台に公園があった。一休みを兼ねて、相模川を見渡すことにした。

 高台に面した看板には座間公園と書かれていた。入り口に自転車を置いて、上った。次第に視界が開けてきた。目の前は座間の市街。その向こうに相模川。水面は見えない。その奥にそびえるのが丹沢連山。木々にさえぎられ見ることは出来ないが、右手が戦国時代に既に栄えていた当麻だ。二万の軍がひしめき合って、相模川を渡る景色を想像した。


 座架依橋を抜けて、国道129号線に入る。朝8時前に出発したが、ここでもう9時を回った。

 三増合戦まつりは9時開始だ。最初はセレモニーだろうから、9時半に着ければいい。しかし、このままではその時間にも間に合いそうになかった。

 129号線から65号に入った。

 愛川町に入ると、道の両側に(のぼり)が並んだ。三増合戦まつりの幟だ。赤の幟は「三つ(うろこ)」、北条の家紋だ。黒の幟は「武田菱(たけだびし)」。

 しばらく進むと石造りの道標があった。信玄みちと書かれていた。ここが信玄が退却した道なのだ。

 いよいよ、幟の数が増えた。5m間隔に並んでいた。しかし、合戦まつりへの表示がどこにもなかった。遠路からの見学者は期待していないということか。

 三増の交差点で初めて、開催場所を知らせる表示があった。気をつけてみないと分からないし、小さな交差点だから、自動車くるまだったら見逃してしまうだろう。本当に知らせたかったら、もっと前に表示は必要だろう。やはり、遠距離からの参加者を想定していないのか。この祭りは地元の人のためだけの祭りなのか。


 三増合戦の碑がある地で、合戦まつりは行われていた。

 山に向かう傾斜地の手前に舞台があり、入り口の左右には売店用のテントが並んでいた。テントでは焼き鳥や焼き蕎麦、綿菓子などの定番もののほか、酒まんじゅうやジャムなど、地元の特産が売られていた。

 広場には茣蓙が敷き詰められ、そこにたくさんの見物客が座って舞台に眼を向けていた。後ろの方には瓶箱が並んでいて、そこにも見物客が座っていた。


 舞台には北条の侍大将か信玄と思われる武将が床机(しょうぎ)に座り、その左右に袴をはいた女性が立っていた。舞台の前には鉄砲隊が並び、今まさに、鉄砲隊の隊長の発声で発砲するところだった。

 入り口付近に受付があって、そこでパンフレットを(もら)った。

 パンフレットを開くと、そこには、「三増古戦場」という歌の歌詞が載っていた。


 戦雲迫る 桶尻(おけじり)

 風林火山 ひらめきし

 鶴翼陣(かくよくじん)の 老松も

 矢玉に朽ちて 風渡る

 あ~ 三増山岳 古戦場


 砲声連山に こだまして

 閃光白刃(せんこうしらは)に 血の飛沫(ひまつ

 中津の清流 朱に染め

 無情の涙 浮きしずむ

 あ~ 三増山岳 古戦場


 あかねの空に 行く(かり)

 白き下弦の 月が追ふ

 流れる星に (しの)ぶれば

 永禄戦士 影ゆれる

 あ~ 三増山岳 古戦場


 裏表紙には「高峰健児(たかみねけんじ)(応援歌)」の歌詞が載っている。ここに来る時に、高峰小学校があった。そこの応援歌か?


 永禄の昔 信玄が

 三増峠を 叱咤しったせし

 ここ高峰の 校庭に

 昔をしのぶ 健児あり


 今は昭和の 大御代に

 相武の二州を 風びせし

 月桂冠を かちえたる 

 健児のいさお いや高し


 人の長い列があった。

 その先で無料の陣中鍋が配られていた。

 私も並び、それを頂いて、瓶箱のいすに座った。

 私の座った瓶箱の一つおいた先の瓶箱に武者がいた。恰幅のいい、中年の男性だった。

 武者は高齢の女性数名と話していた。

「浅利っていう人は北条の人?」高齢の女性が言った。

 武者の胸の下あたりに名札がかかっていた。

「いえ、武田の武将です。武田24人衆の一人で、この合戦で鉄砲に撃たれて亡くなったんです。そんな立派な武将を私が演じていいのでしょうかと思うんですが……」武者の表情は満更(まんざら)でもなさそうだった。

 私は、間をおかず

「浅利さんをやるんですか?」と訊いた。

 突然、横から問われて、驚いた様子で、武者はこちらを振り向いた。

 武者はこくりと頷いた。そして、少し笑顔になった。

 周囲を見回すと、結構、武将が瓶箱に座って、歓談していた。

 武者の中には、南米系と思われる若者もいた。

「愛川町は神奈川で最も外国人の比率が高い町」ということは知っていた。授業でも扱った記憶がある。この町は工業団地が多く、そこで多くの外国人が働いている。この町では祭りに参加するくらい外国人は同化しているのだ。

 鉄砲隊の演舞は終わりに近づいていた。一斉射撃が終わると、周囲から歓声が起こった。鉄砲隊は皆満足そうに観衆に手を振り、舞台の前から去った。そして、鉄砲隊の指導者に代わり司会のアナウンスが始まった。

「信玄様の退場です」

 床机に座っていた信玄が立ち上がり、そして、付き従っていた者たちとともに舞台を降りた。

 違和感を感じた。主役が信玄なのだ。ここは相模ではないのか。

 陣中鍋は明らかに甲州名物ほうとうだった。平べったい細長の麺。味噌仕立て。

 パンフレットの二つの歌。歌詞に登場するのも武田だ。

「風林火山のひらめきし」

 これが三増古戦場の出だしの歌詞だ。そして、高峰健児の出だしは

「永禄の昔 信玄が

 三増峠を (しった)せし」

 最後まで読んでも北条の姿は出てこなかった。

 浅利を演じる武者は

「あちらの方に浅利明神という神社があるんですよ。この町では神様なんです」嬉しそうに三増峠の方角を指差しながら、言った。

 私は言った。

「このお祭りは初めてなんですが、武田側が中心に思えるんですが……。でも、武田は敵なんですよね?」

 浅利に扮した武者がどう反応するか試した。が、その問いに答えたのは通りかかった後ろの男性だった。


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