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私は何を言うべきか考えた。河井は黙って私の返答を待っていたからだ。
「私は何も覚えていない。だから、気にしなければならないことは何も無い。私がその頃で覚えているのは、君の家は出雲守で我が家は肥前守でともに幸田村の草分け、と言われたことだけだ」
河井は少しだけ笑顔になった。
「ずっといつか言わなければと思っていた。これで少し楽になった。いや、楽になってはいけないかな」河井は紅茶に手を伸ばした。
私も紅茶を手に取った。場が少し柔らかくなった。
「社会科副読本の件で君に連絡した時、私のことを強いと君は言ったね。何が?と訊いたら全てと君は言った。その話題はそれで終わったけど、私ほど弱い人間はいない、それが実際だった。父から受けたトラウマと君の存在、そこから逃げるのが私の生きる唯一の方法だった。剣道に夢中になったのも逃げる方策だった。強くなれたような気がして、君に会って確かめたりしたものだ。そう思うこと自体、弱さの証明だとも知らずに。会うたびに自分の醜さを思い知らされたものだ。心底美しくいきたいと思った。それなりに納得いく生き方ができるようになった、強いなどといわれるようになったのは、本当に強くなったからではなく、弱い人間だからこその手だてを手に入れられたからだった。弱い人間が強くなるには身近に自縄できる手立てを手にするしかないと思った。そして、その通り前を向くしかないようにできた」
自分の弱さを心底理解できた者しか強くなれない。だから、君は強い、と確信を持って言えたが、私は何も言わなかった。河井はいかなる返答も拒否しているように見えた。
「本題に入る前に、どうしても謝りたかった。子供だったからという理由で、ないものにしたくなかった」
私は、今日会う目的は副読本のことだと河井が言ったことを思い出した。私は今度はどんな話になるのだろうと、続く河井の言葉に関心を持った。
「あの副読本で、君にどうしても太田家系譜のことを書いてほしかった。君は資料的価値がないからと言ったが、僕は資料的価値などどうでもいい。価値そのものは資料にはあると思っている」
河井は続けた。
「太田家系譜は資料的価値はないと大学の先生は一刀両断だったけど、あの頃の資料としては価値は無いと言っているだけだ。資料に価値は無いとは言ってない。私が言いたいのは、太田家の祖先があの資料を残したことの意味だ。社会的、歴史的価値は無いと言えたとしても、太田家にとってはそれは価値以外の何ものでもない。そのことを尊重するべきだと思う。だから、系譜を残した祖先の本当の意味を君は知るべきなんだ。このままでは先祖の名誉は守れない。系譜を残した先祖の気持ちをないがしろにすることはできないことだと思う」
河井の言葉は力を増した。
「実はそう思うようになったのにはきっかけがあった。見てほしいものがある。ここに太田家系譜が出てくる」 そう言うと、河井は立ち上がり、デスクの上に置かれていた白い大封筒を持った。封筒は封を切られていて、そこから十枚は超えるだろうと思える便箋を取り出した。
「これは父が市史の監修を行った大学の先生に送った手紙だ。その先生は手紙への回答と一緒に、父の手紙を送り返してきた。実は過去の話に興味を持ったのはこの手紙を読んでからだ。ちょっと、父の手紙を読んでくれ」
そう言って、河井は便箋を手渡した。そこには、次のことが書かれていた。
謹啓
突然お手紙を差し上げる失礼をお許しください。私はY市幸田地区在住の一市民です。
幸田地区は戦国時代に活躍した幸田九人衆が知られていて、私はそこに登場する河井肥前守の子孫です。
昨年、先生が監修に携わった「Y市市史 第一巻 通史 古代 中世」が刊行されました。そこに今まで知られていた歴史的資料に加え、新たに「太田家系譜」が掲載されました。太田家もまた幸田九人衆です。その系譜を見て、私は新たな発見をしました。発見というより推測というべきかもしれませんが。
私はこの「発見」を「姥山伝説と太田家系譜についての一考察」と題して、何らかの形で公表すべきとも考えています。
そこで、先生にお願いがあります。この一考察が公表に値するものかご判断を仰ぎたいのです。長い文章になりますので、ここでは、考察に至る動機と、一考察の主旨を記します。何とぞ、ご判断をよろしくお願いいたします。
1 姥山伝説への疑問
私が抱いた姥山伝説への疑問を記したいと思いますが、先ず、最初に姥山伝説について、今一度確認したいと思います。
(1)姥山伝説
鷹狩りに向かう途中か、その帰りだったのでしょう。
中原街道を西へと向かう途上、滝山街道と交差する辺りで、徳川家康は、この地に亡霊が出るという話を聞くことになります。Y市のY霊苑内に建立された姥供養之碑には、慶長元年(1596年)のことと記されています。
家康が天正18年(1590年)8月朔日に駿府から江戸に移って6年が経過しています。
荒廃していた江戸城も、住まいとして、城として、それなりの姿に変わり、漸く落ち着いた日々を取り戻し始めたころでしょうか。家康を悩ませていたのは膠着状態に陥っている朝鮮情勢とそれを知らずに朝鮮支配、更に中国支配の夢を抱き続ける秀吉のことだったのでしょうか。
家康の長い人生の中で、比較的平穏な、確かに、鷹狩りに心行くまで興じられる時期だったかと思います。
家康に亡霊の話をした人物が誰なのか、どの様な人物なのか記録は残っていません。家康の近臣なのか、その地の武士なのか。
いずれにしても、亡霊に苦しむ村人を哀れに思って、いずれかの者が家康に進言したのでしょう。
この亡霊は女で、村人を恐れさせるに十分な、理由のある女でした。
概略はこうです。
亡霊となった女の夫は修験者でした。
夫は家を空けることが大半で、常に諸方を歩き回り、ついには家に帰らなくなりました。
女は夫を諦めきれず、探しめぐった末に、悲しみのあまり発狂しました。そして、村民に危害を加え始めました。
困り果てた村民はついには殺害を決意し、永禄12年(1569年)花見の宴に女を誘い出し、毒殺しました。
しかし、悲劇はおさまりませんでした。女は亡霊となり、夜ごと街道にあらわれ、今も村民を脅かしている……。
家康はこの話に心が動きました。
話を信じたわけではないでしょう。何しろ「亡霊話」なのですから。
しかし、村民が今も苦しんでいることと、女があまりにも哀れであることは家康にとって看過しがたいことだった……。
家康は歌を手向けました。
相模なる幸田が原の山姥はいついつまでも夫や待つらむ
すると、亡霊は消え、村民は喜んだ……。
(2)姥山伝説への疑問
結局、この村を苦しめた亡霊問題は家康の「功」によって大団円で終わるのですが、どうも腑に落ちません。
夫を探しあぐねて、女は狂ったとありますが、探し疲れて狂うことはあるのでしょうか。あったとしても、夫が家に帰らないことと村民は無関係です。なぜ女は村民に危害を加えたのでしょう。本当に村民に危害を加えたのでしょうか?
村民は毒殺した。理由もなく、村人を襲ったのだとしたら、仕方がなかったとも思います。しかし、だとしたら、女が亡霊になることはありえません。亡霊は亡霊自身がなるのではなく、何らかの、後ろめたさを感じる、命を奪った側が作り出すものだからです。
女は村人側になんら落ち度が無いにもかかわらず、村人に危害を加えました。
だとしたら、村人側が後ろめたさを感じる筈もなく女を亡霊にする根拠とはなりません。
では、なぜ女は亡霊になったのでしょうか。
逆から考えると、真相はこう見えてきます。
村人は女を亡霊にした。村人に後ろめたいことがあったからです。村人の罪の意識がそうさせたのです。
だとしたら、村人は自らの利益のために女を毒殺したのではないか。そうであれば、それは奥深く隠蔽しなければならない。
そこで、殺さざるを得ない話を作り上げた。
そして、出来上がったのが、家康が聞かされた亡霊話。そう、私は思っています。
(注1)街道名として被せられた「中原」とは、駿府への往来や鷹狩りの際に宿舎として家康が使用した平塚の中原御殿を指し、中原街道は、そこと江戸とを結ぶ街道です。今も東京と神奈川を結ぶ基幹道路の一つとして機能しています。
(注2)滝山街道は中原街道と比べると格段に知名度は低いですが、戦国時代には、特に相模から関東全域に勢力を広げていた小田原北条氏にとっては、小田原北条氏の戦略上重要な拠点となる二つの城、八王子の滝山城と鎌倉の玉縄城とを結ぶ道ですから、その重要度は中原街道を遥かに凌駕していました。
2 姥座像と太田家系譜 -姥山伝説に関する一考察―
小生は父から T寺に安置されている「姥座像」を大切にするよう何度も言われました。「姥座像」は祖先が亡霊になった女の鎮魂供養のために安置したものです。そのことに以前から私は疑問を持っていました。昔ならともかく、今は「姥座像」の存在を知っている者はほとんどいませんし、伝説そのものさえ広く知られているとは思えません。なのに、なぜ、河井の家だけが後生大事にこれを守り続けなくてはいけないのか。
やはり、伝説には裏があると思いました。
しかし、それが何かを知る術がなく、ただそう思って暮らしてきたにすぎませんでしたが、今回公開された「太田家系譜」でその実相が少し分かってきました。「一考察」ということで書いていきますので、以下、お読みいただけましたら嬉しい限りです。
太田家系譜に「伊都」という女子が記載されています。私はこの女子こそ姥山伝説の「いと」ではないかと思っています。伊都は幸田村の草分けの一人である太田家の娘だ。その娘が村人の手で殺されたとすると、これはもう大事件です。その伊都を別の人間、小林の妻に変えたのも頷けます。
太田家系譜で「伊都」は次のように記載されています。
忠勝 出雲守 永禄六年甲斐国兵乱出
慶長五年子九月十四日、濃州青野合戦打死、五拾六歳
女子 伊都
「いと」と「伊都」が同一人物であると思う理由は3つあります。
(1)太田家系譜では女子は「伊都」を除いて全て女子としか記載
されていない。しかし「伊都」だけは名前が書かれている。そ
こに必ず意味があるのだろうと想像できること。
(2)姥山伝説のいとの生きた時代と太田家の「伊都」が生きた時
代が重なるということ。
(3)太田家系譜が書かれたと思われる時代と姥座像が造られた時
代が重なるということ。
特に(3)が重要だと思います。
姥座像を造って村が「いと」を伝説にしたわけですが、太田家の人は納得がいかなかったのではないか。そこで真実を残そうと思って系譜を残したのではないかと思うのです。
「伊都」は何らかの理由で村人に殺された。村人が話し合って殺人に及んだわけですから「相応の理由」はあったのだと思います。それは今となっては分かりませんが、姥山伝説にまでするわけですから、村人が後に後悔することになる「理由」だったのだと思います。真実は残さなかったわけですから、よほど後ろめたい理由だったのだと想像できます。そこで、供養することになった。しかし、殺された親族である太田家は「村」が決めたことだから公に反対は出来なかったが、真実とは違うわけですから素直にそれを受け入れられなかったのだと思います。そこで、ひそかに系譜に残した。だから、この系譜は「相模風土記」にも載らなかったのだと思います。
まとまったら、「一考察」として公開も考えています。公開する際には、いとの殺害に至る理由についても言及しようと思うのですが、今回はそれは割愛して、太田家系譜の疑問点、その主旨だけ書かせていただきました。公開は可能でしょうか。ご判断を重ねてお願いします。
謹白




