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愛さずにはいられない  作者: 松澤 康廣
忘れ時の
18/69

忘れ時の 1

 年末から実家に戻り、久しぶりに長く滞在した。

 母はいつものように、精一杯の御馳走で私を歓待した。

 

 私は年が明けるのをただ待った。

 気持ちは決まっていた。

 私は迷いを捨て、教員になることを決断した。


 三段の黒塗りの重箱に納められた、母手作りのおせちを前に、決意を母に伝えると、母は「何を言っているのよ。そのために留年したんだから、当たり前でしょ」と笑いながら言った。


 寮に戻ると、狂ったように参考書を読み漁った。

 夏、神奈川と東京の上級公務員試験を受け、その全てに合格した。

 読み漁った成果だった。

 教員試験に合格できない場合の選択肢だった。


 教員試験は神奈川だけを受けた。合格に自信があったからだ。その年の10月に2次試験の合格通知を受け、あとは採用の連絡を待つだけになった。  


 晩秋、私は寮から出て、家に戻った。

 大学は僅かに残っていた単位も取り終え、卒論を残すだけだった。

 大学に通う必要はなくなっていた。


 家に戻ったその日に、再び母は河井の話をした。

 タケオちゃん、Y市役所に決まったんだよ。まさか、市役所とはねえ。一流企業に就職するものと思っていたけどねえ。

 私も一流企業に就職するものと思っていた。

 だから、母からこの話を聞いて、私も意外に思った。


 私も希望先をY市にしていた。だから、瞬間嫌な気になった。

 しかし、気持ちはすぐに持ち直した。

 偶然、会うことは起こるかもしれない。しかし、それ以上の何かは起こらないし、起こさない……。


 12月末、配属先が決まった。Y市だった。

 翌年4月になって、Y市の北端の中学校に私は赴任した。


 就職して後、すぐに河井と顔を合わせることになった。 

 新任の教員は何回もの研修を受けなければならなかった。そして、その研修は市役所で行われることが多かった。

 私はその年、河井と市役所で三度顔を合わせた。

 初めて顔を合わせたのは1階階段横のエレベーターの前だった。

 研修は市役所の4階にある研修室で行われることが常だった。そこに行くため、エレベーターの前に立っていると、河井から声をかけられた。

 河井は私がこの市の教員になったことを知っていた。

 新人研修はここで行うことも知っていたから、いつか会えると思っていた、と河井は言った。だからだろう、私に会っても河井は驚きはしなかった。

「自分はこの敷地内にある分庁舎で働いている。暇なときに、覗いてみてよ」と河井は言った。

 儀礼的な挨拶程度に見えた。

 その後も二度市役所で河井に会った。

 全て研修の際である。

 二度とも、お互い、軽く会釈をした。

 言葉を交わすことはなかった。

 私は安堵した。



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