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愛さずにはいられない  作者: 松澤 康廣
危険な関係
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12(1)

 私と河井の関係が狂い始めたのは、あの河井家の応接間に行ってからに違いなかった。河井に「出雲守」と初めて呼ばれた、あの日だ。


 私は河井にそう呼ばれるたびに嫌な顔をしたのだろう。でも、それは一瞬のことで、自分では気付かれることはないと思っていた。そのくらいのことで、河井に嫌われるとも思えなかった。だから、河井の変化に長く気づかなかった。

 しかし、そうはいかなかった。

 6年生になった夏には、河井が避けているのがはっきり分かった。

 こんなことがあった。

 河井が下校時に私と帰らないことが起きた。

 河井が、別の友達と帰る様になったのだ。

 毎日ではなかった。時折、起きた。


 それまで登下校はいつも一緒だった。

 河井の家にいつも私が行って、一緒に学校に行った。

 帰りもいつも一緒だった。なのに、河井は一瞬だけ私に申し訳なさそうな顔をし、必ず軽く右手をあげてバイバイと言い、その友達と帰った。

 そういう日は、私は一人で家に帰ることになった。

 私は無口になった。


 このときになって、初めて私は河井がはっきり避けていると感じた。そしてその原因を真剣に考えるようになった。

 最終的に行き着いた理由は、自分が河井に「出雲守」と呼ばれるたびに不機嫌になるから。それしか考えられなかった。自分では表面上は分からないように振舞ったつもりだったが……。しかし、そのくらいのことでという思いは強く感じた。この思いが河井との関係修復を更に遠ざけた。

 母のことも影響したのは間違いない。

 河井と一緒でも、下を向いて無言で小石を蹴って帰った記憶が鮮明に残っている。


 祖父の紹介で、母は長野の人と結婚したらしいが、私を産んですぐに離婚し、本家がそのころ所有していた裏山に6畳一間の家を建ててもらい、本家の商売を手伝ったり、和裁をしたりして、細々と収入を得、実際には本家に必要経費の大半を依存して生活した。


 母は父は死んだと言った。

 離婚したとは言わなかった。

 誰にでも父はいたから、父のことは幼い時から気になっていた。


 小学校3年生くらいだったと思う。本家でテレビを見ていた時だ。

 叔父は、お母さんは一人で頑張っているんだから、邦夫君も助けないとね、と言った。

 私は叔父に父がどんな人だったか聞いた。

 叔父はよく知らん、と答えた。お母さんに聞いてごらんと言った。そんなことは出来ないに決まっているのに……。

 それからすぐだったと思う。祖父が死んだ。それが母の離婚を知るきっかけとなった。


 祖父は台風に備えて、屋根を修理中に滑り落ちたのがもとで死んだ、と母は言った。

 ずっと寝込んでいたが、一向に治らないので、医者に診てもらった。腹を切ると、金盥(かなだらい)いっぱいの(うみ)が出た、と母は言った。


 祖父の葬儀は子供には大いに興味をそそられるものだった。

 親戚縁者が集まり、太鼓やシンバルみたいな鳴り物を鳴らしながら行列を作って、神妙に祖父の棺桶を寺まで運ぶ。境内に入ると、棺桶の周りを回り始めた。

 達夫は笑いをこらえるのに苦労していた。私は達夫を突ついて、一緒に笑った。

 墓地には穴が掘ってあり、そこに祖父は埋められた。

 父もここの何処かに埋められていると思った。


 それから暫くして、また墓地に行った。父の墓を探しに。父の名さえ知らないのに。探す当てはないのに。

 そこで、偶然住職に会った。いや偶然ではない。一人で墓地にいることを不審に思った住職が心配して声をかけたのだ。

 寺の敷地の隅にある住職の家に連れていかれて、私は詰問(きつもんを受けた。

 何をしていたのか、と住職は訊いてきた。

 父の墓を探していたと私は言った。

 お父さんは死んだのか?と住職は訊いた。

 母はそう言ったと答えた。そういう会話だった。

 住職は暫く考えてから、私の肩に両手を置いて言った。

「お父さんは死んでいない。生きている。お母さんはお父さんと訳あって、別々に暮らす道を選んだんだ。邦夫君を除いて、子供たち皆旦那さんに取られてしまった。そして、ここに戻ってきた。お母さんはどれほど辛かったか。でも、お母さんは頑張った。邦夫君のために。お母さんは一人で立派に君を育てている。お父さんのことは死んだことにしたほうがいいとお母さんは思ったんだろう。その気持ちを分からなくてはいけない。そういうわけだから、お父さんのお墓はここにも、いや、どこにも、無い」


 住職は我が家にとっては特別な存在だった。だから、私に声をかけたのだ。


 住職はよく我が家に来た。毎日のように昼3時ころに来て、お茶を飲んで帰った。

 小学生の頃は、住職が持参した葬式饅頭が魅力だった。 

 母は餡を取り出し、汁粉を作ってくれた。

 そのころ、住職が来るのが楽しみだった。

 住職を避けるようになったのは高学年になってからで、いろいろなことが理解できるようになったからだ。


 祖父の通夜の晩に事件が起きた。

 本家の庭で達夫と遊んでいた。明るい夜だった。

 突然、住職が僧衣を持ち上げ、廊下を飛び越えて、走り去っていった。下駄も履かずに。そのあと、本家の叔父が出てきた。

「弱みに付け込みやがって……。姉ちゃんに二度と手を出すな。シキマ坊主が……」と叫んだ。叔父は酔っていたのだろう。真っ赤な顔をしていた。

 この事件をずっと覚えていたのではない。

 思い出すようになったのは、叔父の言った言葉の意味が分かるようになった5年生の終わりごろからだ。手を出すなというのは、住職と母との関係を言っている……。

 何度も母と住職の噂が耳に入った。

 母と住職の関係が叔父の言うような関係だったかは知らない。しかし、そういう噂が流れるのは当然だった。

 母は頻繁に寺に出入りした。食事や洗濯をするためだ。住職の奥さんは病弱だから、仕方がないのよ。住職に頼まれたし、お金になるからね、と母は私に説明した。私は黙って、頷いた。それ以来、住職のことは我が家では「解決済み」となった。

 しかし、噂が消えることはなかった。

 私にとって母は負担になった。


 私の無口が河井壮夫を遠ざける結果になった。

 母と壮夫。

 幼い私には大きすぎる負担だった。


 二人の距離は中学入学後程なく急速に拡大した。

 彼は剣道部に入り、私はどの部にも入らなかった。

 彼は帰宅が遅くなり、休日も部活で忙しかった。

 だから、疎遠になったとも言えるが、それだけが原因ではなかった。

 小学校は2クラスで、なぜかいつも一緒のクラスだった。

 中学校は近隣の小学校3校が一緒になり、クラスも一学年5クラスになった。

 クラスも変わった。そして、彼には新しい友達がたくさん出来た。私は彼に必要な人間ではなくなっていた。

 私はずっと「出雲守」と呼ばれるのが嫌だと感じたことが亀裂を生んだ原因と思っていたが、離れる時間が続くことで本当の原因が少しずつ見えてきた。その底に流れているものこそが本当の原因だと気づいた。

 私は彼に強い劣等感を抱いていた。それが彼から離れた、本当の理由だ。

 恵まれた彼の境遇。自分との違い。私はそれに強い劣等感を抱いているのだ。

 ずっと、そうだったのだと思う。幼くて気づかなかっただけだ。

 中学生になって、私は自分を少し分析できるようになった。

 彼が発する、嫌な言葉は「出雲守」だけではなかった。「二つの家は同格だ」と言われることも気に入らなかった。そのたびに私の劣等感は増幅していたのだ。

 彼の豪奢ごうしゃな家と6畳一間の離婚した母と二人きりの貧乏我が家がどうして同格なのか。

 同格は家の大きさや家庭環境と関係ない、草分けであることが同格の意味だと分かっていても、同格という言葉が私の中で一人歩きし、劣等感を増幅させた。

 祖父の死後、祖父の残した遺産で建てた、自分の部屋がある(三畳の小さな部屋だったが)家に移っても、私の心は変わらなかった。明らかに彼を避けていた。

 それを悟られないように私は懸命に振舞ったつもりだったが、うまくいかなかったのだろう。彼はそんな私の心をどこかで知ったのだ。

 悲しい結末だった。理由が分かると、私は更に彼を避けるようになった。

 それが一層の劣等感を生んだ。

 それでも、彼との関係が完全に途絶えたわけではない。定期試験前、部活が休みの時に、河井に誘われて、あの応接間に行くこともあった。一緒にY駅近くの映画館に、流行の映画を見に行くこともあった。

 河井はなぜ私を誘うのだろう、といつも思った。

 別れるとき、必ず河井は言った。また、遊ぼうな。

 完全に切れてしまうことに、河井も抵抗があるということか。若しそれが事実ならそれは私も同じだった。


 高校に入ると、河井と会うことは全くなくなった。

 乗車駅は同じだが乗る時間は違う。駅で会うことはなかった。

 帰宅時間に会うこともなかった。

 偶然からさえも見放されていた。

 私は神奈川県でも有数の進学校に進んだ。

 河井は横浜にある有名私大の附属校に進んだ。

 それでも全く会うことが無くなる理由にはならないはずだった。

 これまで、いつも会うときは河井から電話がかかることがきっかけだった。全く会わなくなったのは、河井からの電話が途絶えたからだ。

 私の心は複雑だった。


 高校を卒業すると私は現役で東京の大学に入った。河井はそのまま系列の有名私大に入学した。

 私には浪人は選択肢にはなかった。経済状態がそれを許さなかった。

 私が大学に合格すると、住職が大学4年分の学費をお祝いとしてくれた。合格が決まって、間もなくのことだ。

 母はお礼を言いなさいと言った。

 眼は合わさなかった。

 下を向いて、「有難うございます」と小声で礼を言った。

 住職はいつものように我が家の居間でお茶を飲んでいた。


「何も寮に入ることないじゃない。無駄にお金もかかるし」

 自宅から通える範囲の大学に入ったのに、私は家を出る決断をした。

「大学ぐらいしかない。一人になれるのは。このくらいさせてよ」と私は怒鳴った。

 母と離れたかった。それだけだった。


 父を忘れることができたのは高校2年の時だ。

 私は郵便受けに入っている黒枠の葉書を見つけた。

 小学校の高学年頃から、学校から帰宅するといつも私が郵便受けから葉書を取るのが日課だった。時々朝刊も取った。

 黒枠の葉書の人物。

 この人物が父ではないかと思った。

 住所は長野県松本市になっていた。


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