危険な関係 1(1)
「新事実を掴んだので、それを伝えたい」と電話で河井に伝えると、河井はすぐに会いたいと言った。
その日の午後二時に約束をし、時間が来るまでもう一度私は話す内容を整理した。
河井家の、玄関へと続く石畳沿いには一本の柿の巨木があり、その枝々には、青春を謳歌する若者がごとく、華やかに黄熟した平らかな実が数多つき、その重さに耐えかねて、枝先を大きく垂らしていた。腕を伸ばせば、取ることが出来る実もいくつかあった。
河井に言って、少しもらって帰ろうかなどと呑気に考えた。
久しぶりに気分は爽快だった。
書斎で、再び私は河井と向き合った。
前回の訪問から二ヶ月近くが経過していた。
河井はすぐに話し始めた。
意外な話をした。
「三島由紀夫を知っているよね。大学に入学した年の、確か秋に三島は割腹自殺した。覚えている?」
あの時私は、大学卒業後、出版社に就職した鈴木雅俊と一緒だった。
鈴木は「やっぱりな」と言った。そして、声を潜めて小声で続けた。
「マスコミがどう報道するか、楽しみだな。三島をノーベル賞候補と持ち上げてきた連中が……」
河井の長い話が始まった。
「その日から、三島氏が三島と呼び捨てになった。変な感じだった。三島自体は少しも変わっていない。彼にとっては必然の行動だ。なのに、マスコミは180度態度を変えた。別にそれを批判しているわけではないんだよ。犯罪者になったのだから、普通のことだ。でもね、一人の人間として、どうなんだろうね。今まで、三島氏と呼んで、少なくとも敬意をこめて呼んでいた自分が突然、今呼び捨てにしている。そういう自分にそう簡単に変われるものかね。豹変した自分に違和感や罪を感じないのかね。最近、こんなことばかり考える」
鈴木とどこか通じる主張だった。
こう考える者が身近に二人もいるということは、あながち少数意見でもないかもしれない、と私は思った。
河井は私に何かを期待しているようには見えなかった。自分自身に語りかけているように見えた。
河井はぽつりと言った。
「つくづく死の威力を感じる」
「死の威力?」
私は同じ言葉を返した。
河井は自らに語り掛けるように、俯きながら更に話し続けた。
「三島由紀夫は罪を悔いて自死したわけではない。自死を自分への罰だと考えて割腹したわけでもない。それなのに多くの人は三島由紀夫の死を以て、その罪さえも償ったと思っているかのような反応をした。死の威力とはそういうことだ。死すれば全て終わる。三島は確信していた。生きる道を選べば、理解されるはずもない無意味な、限りなく長く続くだろう弁明が待っている。好意的だった人々の離反、攻撃。これも見たくないことだろう。そういえば、高名な政治家も事件後、直ぐに批判に転じた。だから、三島は「死」を選んだ。死すれば全て終わる。死の威力を確信して、そしてその通りになった。実に馬鹿げていると思わないか。「死」を以てさえ、罪は消えないのに……。罪や罰の視点で考えれば、自死など、ただの逃げだ。自死を罪を悔いての自らに課した懺悔の罰、そう考えて自死したと思われたら、自死者にとって、これほどの屈辱はない」
話が後半に入ると、河井は私に鋭い視線を向けてきた。私に同意か、あるいはただ感想か、どちらにしても、何らかの言葉を求めているに違いなかった。
どう文脈を追っていったらいいのか。言いたいことは分かるが……。
死を以て罪が消えることなどない。しかし、罪は消えないが、罰として認められる。だから、死を選ぶ者がいる。死の威力とはそういうことだろう。それを考えれば生きることの方が苦しいのかもしれない。生きたとして、誰もそれを良しと認めない。認めないばかりか、真実を知れば「死を選ばなかった故の」苛烈な鞭が待っている。罪を悔いて生きる。罪を抱えて生きる。心の奥深く封印して生きる……。どう生きようと決して認められはしない。何を言おうと、言えば全て言い訳になる。だから、罪人は沈黙し、敢えてまるで忘れたかのように生きる……。
しかし、河井にとって、このことがどういう意味を持っているのだろうか。皆目検討がつかなかった。およそ、「罪」も「罰」も、そして「死」も河井には無縁としか思えなかった。
「調べたことを話すね」と言って、私は話題を変えた。
話を逸らされたと河井が感じれば、河井がまた、元に戻すだろう。それは起こると思ったが、それでも話題を変えたかった。
私はこの二か月ほどで得た新事実を話した。
河井は私の話を瞑目して聞いていた。私の話が終わっても、瞑目を解かなかった。
私は目の前のテーブルの上の紅茶を啜り、のどの渇きを癒した。
私は河井が話すのを待った。
瞑目を止め、河井も紅茶を飲んだ。
そして、漸く口を開いた。
「ちょっと、読んでもらいたいものがある」と河井は言って立ち上がった。
河井は机の引き出しから、クリアファイルを取り出した。
そのファイルは、扱い次第で今にも零れ落ちるのではと危惧するほど、A4サイズの大量の用紙で分厚く膨れていた。
河井はクリアファイルから、十数枚の用紙を抜いた。そして、大事そうにそれをテーブルの私の前に置いた。
表紙には「あらざらむ」とだけ書かれていた。
「書き出しだけでも、今読んでくれないか」と河井は言った。
私は「あらざらむ」と書かれた表紙を捲った。
書き出しは次のようなものだった。
後に幸田村と名付けられたこの村は太古の昔から、人が住んでは去り、住んでは去りを繰り返した。東西を分断する、村のほぼ中央を流れる幸田川がたびたび氾濫するからだ。
その廃墟の村に、再び人が移り住んだのは、永正元年(1504年)のことだった。
その者は河井肥前守と名乗った。出身は不明である。
その3年後、太田三郎は2番目の移住者としてこの村に足を踏み入れた。
渡された原稿を半分ほど読み終わると私は原稿をテーブルに置いた。
「三郎とは太田家系譜に登場する初代の忠良のことですね」と私は言った。
「そうだ」と河井は言った。
「この原稿の主人公は忠良のようですが、でも、なぜ、河井ではなく太田の家の者が主人公なのです?」と私は、テーブルの原稿に眼を落しながら、腑に落ちないという表情を浮かべて質問した。
「河井が主人公でないのは、客観性を持たせるためだ。河井だと、私情が入る」と河井は言った。
分からない理由ではなかったが、太田を通して河井を見ることで失うことも多いのではと思うところもあった。理由は別にあるのではと思わないわけにはいかなかった。
「どれだけ時間がかかってもいいが、読み終わったら、ぜひ感想を聞かせてほしい。そのときまで、こちらからは連絡しない。君から連絡をくれないか」と河井は固い表情をして言った。
何が書かれているかは想像は出来た。ただ、細部がどう書かれているかは気になった。一気に読むだろうことは確信できた。
「分かった。そう時間はかからないと思う。枚数は多いけど、読むのが楽しみだから」と言って、私は立ち上がった。
拍子抜けするほど早く話は終わった。
まるで、河井が私を呼び出したような中身だったな、と私は思い、思わず苦笑した。




