09
『今日は保護者付きか』
珍しく、部屋に入るなりユーピテルが声を掛けてきた。
「はい、あの…」
『潮臭い』
ユーピテルはイリスの言葉を遮った。
「え?」
『オーケアノスの末裔と接触したであろう。風に気をつけよと言ったであろう』
「風…潮…」
イリスは先日のユーピテルからの言葉を思い出した。
「あれは王太子殿下の事?」
あの刺激のある臭い、あれが潮の香りだったのか。
海を見た事のないイリスにとってその香りは未知の香りだったが…そういえば海は独特の匂いを持っていると、バーナードから聞いた事がある。
「イリス?何の話をしている」
「あ…ええと…」
訝しげなクリストファーに、イリスは先日のユーピテルの言葉を伝えた。
「———何故それを教えなかった」
クリストファーはその瞳に不快な色を滲ませた。
「…よく意味が分からなかったんだもの」
「お前が分からなくても、神の言葉には必ず意味がある。巫女であるお前がそれを分からないでどうする」
「ごめんなさい…」
『ふ、兄の方はしっかりしておるな』
楽しげなユーピテルの声が聞こえた。
「あ、あの…その事とも関係があるのですが。お聞きしたい事があるのです」
イリスはヘンリクとの事を説明した。
『オーケアノスの娘か。それは誠だ』
話を聞き終えてユーピテルは答えた。
「その方が虹色の瞳だったというのも本当ですか」
『お主らは知らぬか。虹色の瞳を持つのは神と人間の間に生まれた証だ』
「え…?」
ユーピテルの言葉にイリスは目を瞬かせた。
はるか昔。
神と人間の関係は、今よりもっと近かったという。
神の声が聞こえる者も多く、美しい娘や青年が神に見初められる事も珍しくはなかったという。
そして神と人間の間に生まれた子供は、皆虹色の瞳を持っていた。
人間の身体に神の力を宿した彼らは、貴重な存在として王侯貴族達が保護し、自分達の中にその血を取り込もうとしたという。
初代サルマント王と海神オーケアノスの娘が結婚したのは、サルマント王国がオーケアノスに忠誠を誓い、彼を守護神と崇める事への返礼として娘を与えたからだ。
以来、サルマント王家は神の血を継ぐ一族として繁栄していく。
『だが時が経つにつれて神と人の距離は遠くなり、交わる事もなくなっていったのだ』
人間の中に流れた神の血も薄まり、虹色の瞳を持つ者もやがて絶えてしまった。
「ならば…なぜシエルの巫女は虹の瞳を継いでいたのですか」
イリスから話を伝え聞いて、クリストファーが尋ねた。
『巫女は元々、私の娘達だからな』
イリスはクリストファーと顔を見合わせた。
「……巫女が仕える女神ジュノーはユーピテル様の奥様では?」
神と人間の間に生まれる者が虹の瞳を持つならば、巫女達の母親は女神ではないはずだ。
『ジュノーが望んだのだ。あれの言葉を人間に伝える虹の娘が欲しいとな。娘達の母親を選んだのもジュノー自身だ』
イリスはユーピテルの言葉を反芻した。
それは…つまり…?
『人間には分からぬだろうな、神の夫婦関係は』
ふっと息を吐いてユーピテルは言った。
『しかしオーケアノスの末裔に目を付けられたのは厄介だな。あれは代々強い加護を受けて我の力が及びにくい。———巫女よ、欠片を出せ』
「欠片?…これの事でしょうか」
イリスは服の下に入れていたペンダントを取り出した。
それは以前、夢の中で訪れた女神ジュノーの神殿から持ち帰った、女神像の欠片だった。
それを父に頼みペンダントに加工してもらい、お守りとして肌身離さず身につけているのだ。
取り出した欠片が光を帯びた。
「これは…?」
『我の力を込めた。万が一の時に使うと良い』
そう言うと欠片の光は消えていった。
『ああ、ついでに兄の方にも力をやろう』
次の瞬間、クリストファーが強い光に包まれた。
「お兄様!」
「…今のは」
『これでお主も我の声が聞こえるであろう』
クリストファーはハッとした顔で周囲を見渡した。
『お主も我の血を引く者。女神の声は聞こえぬが、こうすれば我とならば言葉を交わす事が出来る』
「———ありがとうございます」
クリストファーは膝を折ると頭を下げた。




