03
夏とはいえ、国の北部にあるオービニエ領の夜は冷える。
温めたミルクを飲みながらイリスは本を読んでいた。
窓の外からは虫の声が聞こえる。
その鳴き声を聞くとはなしに聞いていた耳に、コン、と窓に何かが当たる音が聞こえた。
「…お兄様かしら」
母屋に行く事のできないイリスに、殿下の護衛を務めているためなかなか会えないクリストファーは魔法で手紙を送ってきていた。
今夜も同じように兄から手紙が届いたのかと窓辺に近づく。
カーテンを引き開けて———イリスは目を見開いた。
窓の向こうに立っていたのは昼間会った少年だった。
イリスと目を合わせると、笑みを浮かべて窓をコンコンと軽く叩く。
開けろと言っているのだと気づいてイリスは戸惑った。
兄には接触するなと言われているが…かといって王子を無視する訳にもいかない。
だが子供同士とはいえ、こんな時間に部屋に入れてしまっていいのだろうか…
迷っていたが、窓の向こうの顔が機嫌悪くなってきたような気がして仕方なくイリスは窓の鍵を開けた。
「君の兄は酷い男だな」
部屋に入るなりレナルドは言い放った。
「はい?」
「君の名前すら教えてくれない」
「…イリスと申します」
そう答えて、スカートを摘むと礼を取った。
「イリスか」
その名前を口の中で小さく呟いて、レナルドは室内を見渡した。
淡い色調でまとめられた室内に少女はよく馴染んでいて、レナルドが母屋に滞在している間だけの仮初めの部屋のようには見えない。
「…イリスはここに住んでいるのか?」
「はい」
「何故屋敷ではなくこんな所に?」
昼間、母屋を抜け出して敷地内を散策中に見つけた、木々の中に隠れるようにある小さな家。
作業用の小屋かと思ったが、それにしては小綺麗な建物で、不思議に思いぐるりと巡ると小さな庭の中に少女がいたのだ。
「ここは私の家です」
イリスは答えた。
「君の?」
「元々母が療養の為に使っていましたが、亡き後は私が貰いました」
自分を見つめてそう言うイリスを、レナルドはじっと見つめ返した。
この建物に感じた違和感は綺麗さだけではない。
周囲に丹念に施された「それ」と、今の言葉とクリストファーの過剰なまでの妹への態度にある可能性を感じたが…目の前のイリスは…
「私は健康ですわ」
レナルドの思考が読めたのか、イリスは微笑んで病気でここに隔離されている訳ではないと暗に伝えた。
「ならばどうしてわざわざこんな所に…」
「殿下のように妹に近づく者がいるからですよ」
レナルドの背後で男の声が響いた。
「クリストファー…」
「屋敷の外には出ないようにと言った筈ですが」
開け放したままだった窓から入ってきたのか、腕を組んで仁王立ちしたクリストファーが立っていた。
「…よくここに居るのが分かったな」
「また抜け出されると困るので殿下に印を付けておいたんですよ」
「印?」
「追跡魔法用のね。———まさか妹の元へ夜這いに来るとは思いませんでしたが」
「お前が紹介しないからだろう」
「何故紹介する必要があるんです?」
さも不思議だというようにクリストファーはそう言って顎を上げた。
「殿下と妹が関わる必要はないでしょう。さっさと戻りますよ」
「…お前は僕の事を嫌っているな」
「嫌いではないですよ、妹に関わらなければ」
「お兄様…」
にべもないクリストファーの態度にイリスはため息をつくと、レナルドに向いた。
「申し訳ありません。兄は私の事になるとどうしても過保護になってしまうので…」
「そのようだな」
立場も気にせず露骨に不快な表情を向けるクリストファーにレナルドは苦笑した。
「だがこれだけ可愛い妹なのだ、仕方ない」
「…え」
レナルドの言葉に頬が赤くなったイリスを、咄嗟にクリストファーは自身の背後に隠した。
「———それにしても過保護すぎるようだな。こんな木々の中に隠すように、結界を張り巡らせた小さな家に押し込めて」
この家に近づいた時に気づいた違和感。
それは魔法による結界が幾重にも張り巡らされていたのだ。
王宮にだってこれほどの結界がある場所はなかなかない。
妹を守るにしても大袈裟過ぎるし、そもそも少女を一人、こんな隔離された場所に住まわせる理由が分からない。
「これには別の理由がありますので」
「別の理由とは」
「殿下には関係ない事です」
クリストファーから聞き出すのは無理だ。
そう判断してレナルドは視線をその背後へと送った。
「イリスは何歳なの?」
「妹の名前を勝手に呼ばないで貰えますか」
「お兄様」
窘めるように声を上げると、イリスは兄の背中から顔を覗かせた。
「十歳になります」
「僕と同じ歳だね。…イリスはこの家から出られないの?」
「昼間なら…」
「じゃあ昼間は屋敷の方にこられるの?」
「殿下」
「イリスが話し相手になってくれるなら屋敷の中で大人しくするよ」
睨みつけるクリストファーを睨み返してレナルドは言った。
「妹と殿下が話すような事はありません。話し相手なら私や連れてきた者たちがいるではないですか」
「嫌だね、イリスがいい」
睨み合ったまま、長い沈黙が続いた。
やがて耐えきれなくなったイリスがそっとクリストファーの上着の裾を引いた。
「お兄様…私の勉強の時間に殿下に同席してもらうのはどうかしら」
「———とりあえずそれで妥協するよ」
「…仕方ありませんね」
ようやく笑みを浮かべたレナルドと対照的に、クリストファーは渋い顔でそう言った。