9.暗雲
最初は、街を歩いた時にひそひそされる程度だった。
それと同時に、酒場にいるときあからさまに顔を顰められるようになった。迷惑はかけられないので、店主にはしばらく休ませてほしいと頼む。ニニが引き留めてくれたが、客も少なくなった今、イサナがとどまる理由はない。
四日経った頃、八百屋で物を売ってもらえなくなっていた。
一週間経った頃、洗濯屋がもう仕事を引き受けられないと言って来た。
譜の材料の仕入れ先である商人たちが、しばらく街に来ていない。同じように、イサナの譜を求める者たちも確実に減っていた。
「大丈夫?なんか、街の雰囲気悪いよね」
店に来た馴染みの冒険者が顔を顰めながらそう話題に出した。
「原因、わかってませんからね」
「わかんないのに、なんでそんなに怯えるかなぁ」
格安で雑用じみた仕事まで引き受けるこの冒険者は、実は名の知れた剣士である。小隊を出そうかと言う魔獣に対して、一人で向っていって、無傷で帰って来たという伝説まである。ならば筋骨隆々の大男かと言えばそうでもなく、冒険者としては凡庸な見た目をしていた。
伝説級の実力者からすれば、未知の脅威も楽しい冒険になるのかもしれない。
「心配なら、みんなイサナの上位結界買えばいいのにねぇ」
「上位結界はちょっと高いですけどねぇ」
上位結界は、簡易結界よりも性能が良い。ある傭兵に、あまりに普及すれば、戦が変わるとまで言われた。それ以来、あまり大々的には扱っていない。労力以上の値段にしているのは普及させないためだ。
この冒険者はイサナが商売を始めた頃からの馴染みであり、色んな情報を優先的に寄越してくれるので上位結界も提供している。
「目くらましの譜とか作れるの?ほら、移動するときに周囲から隠れていれば、色んな脅威から逃れられるよね?」
「小規模な隊商なら街から街程度の距離を隠せると思います。量産は難しいし、悪用されそうで怖いですけど」
「でも、イサナ。今だけ限定で売るっていうのもありだと思うよ?あさってまでにいくつか作ってくれない?俺、周囲の街で転売してくるから」
冒険者はにこりと笑う。
それは有効な気もするが、しかしイサナの自作自演が疑われる噂がある今、追い打ちをかけてしまう可能性がある。
冒険者は親切で申し出たのだろうが、丁重に断った。
「そっか。仕方ないね。ところでさぁ、」
冒険者は荷物の中から一冊の本を出してカウンターに置いた。
革の装丁に、金で文字が刻まれている。
「魔術書!」
イサナが思わず素ではしゃいだ次の瞬間――
「いぇーい!師匠からパクってきちゃったー!」
「え!ダメじゃないですかっ!」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
冒険者はへらへら笑いながらイサナの喜びに水を差した。
「パクったっていうか、くれなきゃ次回生け捕りにした魔獣プレゼントしちゃうって駄々こねたら折れてくれたよん。魔獣も選べばかわいいのに、どうして拒否するのか不思議なんだけど」
二十代後半の男性の「かわいい」基準は、どうやら十代女子とずれているらしいことをイサナは知った。
彼の師匠とは、魔術師らしい。その弟子である彼も、そこそこ魔術が使える。ついでに言えば、魔法の方が得意で、さらに得意なのが剣だったらしい。魔獣相手に一人で向っていけるのも、魔術や魔法の補助があるからだ。
魔術師を名乗るレベルではないと言うが、これまで何度か、基本的な魔術知識についてアドヴァイスをもらっている。
「ま、とにかくこれあげる。これ読んで、またいい譜を作ってね。これはプレゼントでもあるけど、出資でもある。遠慮なく受け取って」
「えっと・・・ありがとうございます、お師匠様にもよろしくお伝えください」
多少、「いいのかなぁ」と思ってしまうが、万難を排してでも手に入れたいのが魔術書だ。目をつむることにする。
「そういえば、スィーリとエレが来てるらしいね」
魔術書を受け取り、頼まれた譜をまとめていると、冒険者はそんなことを言い出した。
「スィーリ?・・・ああ、調査に来てるっていうシグナの。お知り合いなんですか?」
「あの子たち、この業界では有名だよ。ぼったくり、って」
「・・・・・・」
「それに仕事、失敗したことないんだ。もとはスィーリ一人だったけど、そのころから失敗してない。本職魔術師から見ると、シグナとしても異様な強さらしいよ。あの歳で知識も豊富だし、知り合っておくとイサナにプラスだと思うけど」
「あー・・・一応、知り合いはしましたが・・・なんというか、とっつきにくい人ですね」
本職の魔術師が苦手ですとは言えないので、ぼかして言う。
「んー・・・まあ、確かにスィーリは態度がでかいけど、悪い子じゃないよ?ぼったくりって言うのも別に、いつもぼったくってるわけじゃないんだよ。金持ち相手に、弱み握ってふっかけるんだ。ほら、金持ちって恨まれて呪われるとかありがちじゃん。そういうやつね。だから、あんな性格でも同業者からはけっこう好かれてるよ」
「好かれてるって、その金を寄付でもしてるんです?」
「ううんー、それはしてないみたい。単純に、胸がすくって意味でね。・・・にしても、生活が派手な様子はないし、儲けた分は何に使ってるんだろうねぇ?」
正義の味方を気取っているわけではないらしい。これで慈善家だったら胡散臭くて絶対に近寄らないところだった。
「じゃあ、そろそろ行くね。発つ前にまた寄るよ」
「はい、お待ちしてます」
伝説級の冒険者は、その片鱗を見せぬままにこやかに手を振って店を出ていった。
イサナの店に来る者たちは、ほとんどが流れの人間だ。だからイサナの悪い噂を聞いてもそれを鵜呑みにせず、以前と同じように接してくれる。
先ほどの冒険者はいいタイミングで訪れてくれた。彼のように名の知れた実力者は、流れの者と言っても街の人々から信頼されている。それが懇意にする店となれば、評判は保たれるはずだ。
もらったばかりの魔術書を開いてみる。
魔術における、音と式の対応
口頭魔術と記述魔術に関する基本的な内容である。呪文という形で魔術を組み立てることが苦手なイサナにとって、どれだけ役に立つのかわからない。だが、あの冒険者が持って来てくれたと言うことは譜術に関してヒントになるような内容なのだろうと推測できた。
(音に反応する魔術とか、面白いかも。唱えた呪文をそのまま紙に吸い取らして、図式変換、・・・それだと効果まで写せるのかな。だとしたら、相手の魔術を完全に無効化する手段にできるかも)
新しいアイディアを膨らませつつ、読み始める。
読めば読むほど新しい知識が増えていくが、まだまだ勉強不足であるとも思い知らされる。わからない単語や、見たことのない魔術式が出てくるたびに頭が痛くなる。それを知るために、また別の本を読む。
どうせ夜は暇なので、また地下書庫に行こうと考えた。
ドアベルが鳴ったので、イサナは顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
反射で迎えたが、入って来たのは地元の人間だった。
この店舗を買ったときに相手をしてくれた、地区の世話役である。法律上、土地は国からの借り物なので、それを管理する彼のことは大家といっても支障ない。
「あら・・・ご無沙汰しております」
客ではなさそうだが、一応いつも通りの笑顔で対応する。
「順調かい」
「ほどほど、ですね」
「やはり、響いてるかね。商人の足が遠のいてるのが」
「そうですね」
嫌な予感がする。
予想できたことではあったが、それでもその場に立たされると息苦しさに似たものを感じる。
「今日は、何かお買い求めですか?」
「い、いや・・・・・・」
「では、この地区で何か問題でも?」
「何か・・・そうだな。この店のことが、問題になっている」
「・・・・・・法に反するようなことをした覚えはございませんが、一体どのように?」
笑顔を保てなくなった。出来るだけ冷たく響かないように努め、訊ねる。
「・・・噂を聞いているだろう、あんたも」
「おかしな流言がどうかしましたか」
やれやれ、と世話役は首を横に振る。
「なあ、あんた、一人で店をやっていくにはちょっと早かったんじゃないのか?」
「はい?」
「まだ若いんだから、どっかで勉強するなり、見習いとして働くなり、人生経験積んでおくべきなんじゃないのかい?若いうちは何でもできると思って、先走ってしまいがちなのはわからんでもない。だがね、やっぱりあんたみたいな娘が一人でやっていくのは厳しいんだ。それはよくわかるよ」
世話役は親切顔で助言をしていた。
内容を何も知らぬ他人が聞けば、人生の先輩からの親切な言葉だ。
あっけにとられて、イサナはとっさに言葉が出てこなかった。
「・・・なにが、よくおわかりなんですか?」
イサナは本気で、この男の言っている意味が分からなかった。
世話役の男は困ったような表情になる。
「つまりね、一人前に、まっとうに商売ができない人間に、ここは貸せないよ」
あくまで、聞き分けのない若者を諭すような言い方だった。
イサナは男を睥睨した。苛立って、相手をするのが面倒になっていた。
「お引き取り下さい。商売の邪魔です」
イサナの冷たい態度に、男は少々気分を害した様子を見せたが、「ちゃんと考えてみなさい」とあくまで自分が正しいことを言っているていを崩さず、店を出ていった。
静かになった店内で、イサナは茫然とした。
この感情は、嫌と言うほど覚えがある。
理不尽に晒された時の、例えようのないもどかしさ。