18.〈聖域〉による介入
何も考えたくない、と思ったのは初めてかもしれなかった。
イサナは考えることが好きだった。
暇さえあれば本を読み、反芻し、新しいことに応用できないか考える。それが日常だったし、楽しみだった。
今の思考は、絡まった糸のようだ。どんなにほぐそうとも、糸の端が見当たらないから、手の付けようがない。小さな苛立ちだけが募っていく。
その状況に疲れてしまい、しばらくまどろんだ。
ぼんやりと意識が戻り始めた時に、イサナは傍に人の気配があることに気が付いた。気が付きはしたが、それがなんであるか考えることすら億劫だった。
次に、風が吹いていることに気が付いた。イサナがかつて借りていたこの部屋には小さな窓がある。しかし北向きで、建物が密集した場所だから、大した役には立っていなかった。
なぜ風が。
その疑問が、イサナの思考力をいっきに引き戻した。
「・・・・・・風が、吹いてる」
かすれた声でつぶやくと、朗らかな声が返ってきた。
「少し淀んでいたから、風を呼んだの」
女の声だった。やわらかく、落ち着きがある声音だ。
ベッドの横に、その声の持ち主が腰かけた。
「空気が淀むと傷にもよくないわ。悪い夢も見やすくなる。――今日がいいお天気でよかったわ」
イサナが首を巡らせた先に見つけたのは、赤みがかった長い金髪に、明るい琥珀色の目をした女性だった。おそらくイサナとほとんど変わらない歳だ。純朴そうな、人の良さそうな顔をしている。
「はじめまして、イサナ」
「・・・・・・あなたは?」
「私はリオアスティ。――スィーリとエレの仲間と言えばわかるかしら」
「話は、多少聞いてる。スィーリから」
仲間の一人で、風使いだといっていた。そして里人であるとも。
「あら、ろくな紹介をされてなさそうな気がするわ。もっとも、今回は里人――聖域に属する者としてここに派遣されたのだけれど」
「何か違うの?」
「多少ね」
リオアスティが「失礼」と断ってイサナの額に手を当てた。
「熱は下がってるわね」
彼女は立ち上がって、部屋の外へと声をかけた。
やがて入ってきたのは、日に焼けた肌をした細身の青年だった。柔和な顔立ちをしている。
「起き上がれますか?少し傷の具合を見せてほしいのですが」
少し低めの、やさしい声だ。
青年は先ほどまでリオアスティが座っていた椅子に腰かけると、イサナに向かって笑いかけた。
「セセストリカと申します。治癒術師の端くれです」
「治癒術師?」
イサナは軽く驚いた。
魔法や魔術を補助的に医療に使うことは一般的だ。だがそれをする医者を「治癒術師」とは呼ばない。「治癒術師」を名乗る者は、治癒術――短時間で傷をふさいだり、折れた骨をくっつけたりできる能力を持つ。風使いと同じく、有用で貴重な人材だ。
セセストリカはイサナの傷の具合を丹念に見ていく。
「ああ、処置が適切ですね。下手したらこちらの手は使えなくなっていましたよ」
「スィーリも固定の術は使えるから。そのあたりは下手を打たないと思うわ」
セセストリカに答えたのはリオアスティだ。
「ええ、それにこの街の医者も腕がいいようです。これでしたら治癒術は使わない方がいいでしょう」
セセストリカの言い分に、イサナは首を傾げた。
「治癒術は詳しくないの。何か、弊害が?」
「あります。こういった深い傷を癒すと、非常に体力を使います。そうでなくとも弱る体がさらに弱ってしまいます。治癒術って、本来傷を治すのに必要な時間や体力を前借しているんです。それに、何度も使えば、次に傷を負った時に自力で治す力が弱くなります」
「・・・・・・意外に、使い勝手が悪い」
「よく言われます。もちろん、特殊な栄養剤や浄化魔術を併用すれば、体力を補えます。でも、」
青年は柔らかな表情のまま、言葉を区切った。
「でも?」
「体に負担をかけたことに変わりはないんです。前借したうちの体力はどうにかできても、時間はどうにもできません」
「つまり、多用すれば早死にする?」
「理論上は」
イサナは素直にそれを受け入れた。治癒術は魔術の一種だ。その術式がそうだと示したのなら、正しいのだ。
「物語の中ではよく使われていますから、みなさん気軽に使うイメージがあるみたいですね」
イサナも知っている。戦記などでは頻繁に登場する術だ。――戦場であれば、怪我を治さなければ敗北に通じる。敗北はつまり、死だ。少々の時間の前借をためらう理由にはならない。
「廃れたと言われてるけど、悪いことじゃないんだ」
「ええ。むしろ喜ばしい話なんです」
イサナたちの世代はもちろん、親もその親も戦争を経験していない。あるとすれば小競り合いか、人間以外――魔獣などを相手にした戦闘だ。身近であっても、規模は大きくない。治癒術のような高度な技術を求めるよりも、怪我をしない配慮をした方が手っ取り早いのだろう。例えば、イサナの作る簡易結界の譜のような。
セセストリカがじっと見つめてくることにイサナは気づいて、首を傾げた。
「何か?」
「いえ。ただ、――治癒術に興味がおありのようだったので」
「・・・・・・」
無意識のことだった。興味を持って、術式の詳細を知りたいと思った。
治癒術は、魔術の一種だと本で読んだことがあるものの、特殊な才能を必要とするためか、詳しい説明はなかった。――だから、その知識を得られるものなら、チャンスを逃したくないと思った。
「治癒術は〈時〉の性質を扱えなければできません」
「知ってる。系統としては、予言や卜占と同じでしょ」
「はい。古き魔術の祖〈四海の縁者〉の血脈に宿るものです」
魔術の祖とは、魔術の礎を作った四つの種族のこと。〈四海の縁者〉はずっと昔に滅んでいて、今ではその血の片鱗を見せる者が時折生まれるだけだ。この青年もそうなのだろう。
「血に頼る術であるために、普通の魔術師はあまり興味を持ちませんから」
「・・・・・・」
イサナは言葉に詰まった。
イサナが考えていたことは、魔術譜で再現できないかどうか、だ。
血に頼る魔術とは言え、術式さえ明らかになれば、代わりになる式を探すことができる。そうすれば、魔術譜にまで落とし込むことはできるだろう。採算がとれるかどうかは別として。
眠る前は、もう考えたくないと思っていたのに、考えている。
――「今回の隊商の失踪事件の原因はお前だ」
スィーリの声がふとよみがえって、体温が下がる。
(考えるな)
考えてはいけない。
最悪の答えに辿り着く。
(考えるな)
その先に待つ恐ろしい答えを、イサナは察している。
だから考えてはいけない。
ふと目に入った両手は血の気が失せて真っ白だった。
「どうしましたか。気分が悪くなったのなら――」
青年の声が遠くに聞こえる。
耳鳴りがしている。
貫かれるような痛みが胸に走った。
呻いて、両手で顔を覆う。
そのとき、凛とした声が耳鳴りを祓った。
「――安寧の風に請願す」
一陣の風が部屋を通り抜けた。
同時にもやもやと湧き上がった不安を和らげていく。完全にではない。だが、耐えがたい苦痛ではなくなった。
肩で息をしている自分に気が付く。
「セセストリカ、席をはずして」
「――リオ、しかし」
「またエリューが何か言ったかしら。――私は、聖域の方針に逆らう気はないわ」
「・・・・・・エリューの言うことは気にしなくていい。私は君を疑ってなんかない。そのことではなくて、」
「心配ならダイナを寄越して。女性の寝室に殿方が長居をするものではないわ」
「・・・・・・わかった」
ぼんやりと聞こえた会話は、イサナには理解できなかった。
ただ、セセストリカが部屋を出て行き、リオアスティがベッドの傍の椅子に再び腰かけた。
「騒がしくしてごめんなさい。こちらの事情も少々ややこしいの」
「・・・・・・いえ、」
冷たかった手の先にはまだ温度が戻らない。だがしかし、イサナは落ち着きを取り戻していた。
「さっきのあれは、あなたの、術?」
「術というほどのものじゃないわ。風を呼んだだけ。ここは、地形的に風が吹きにくいはずなのに、清浄な空気だわ。風を呼びやすい。あなたの傷にもきっといいでしょうね」
それはおそらく浄化魔術のせいだ。家主に許可をとって、この建物全体の壁や床、天井に浄化魔術を描いている。小さな魔術譜に術を落とし込むことは特技の一つであるが、同じくらい、建物等を使った立体的な魔術をイサナは好んでいた。
イサナはそれを言う代わりに尋ねた。
「さっきの、セセストリカも里人?」
先ほどの、頭の芯がしびれるような不安から背を向けるように、イサナは別のことに興味をむける。
「ええ。正確には準里人。半分門下生――まだ学徒の身分。後々は正式な里人になることが決まってるわ」
里は、自治組織であると同時に巨大な教育機関でもある。その教育課程にある者は、門下生と呼ばれる。
「学徒?見た目より若いのかな、私と同じくらいかと思ったけど」
「見た目通りよ。十八だったかしら。でもそうね、世間だとこの年まで学生だなんて、普通じゃないわね。里なら二十歳過ぎた門下生も珍しくないわ。そのまま一生、学問に身を捧げる人もいる。もっとも、彼は学問に身を捧げるわけじゃない。神獣に家臣として仕えるのよ」
「神獣・・・・・・」
「私たちは自分たちの身分を、神獣の家臣と言っているわ。世界の守護者、二筋の風、一対の聖なる獣――彼らに仕え、彼らの意思を実現させるのが私たちの役目」
――昔々、この世界は神獣である鳥と竜が支配していた。人間は少しずつ彼らから支配権を勝ち取っていった。そのせいで鳥と竜はこの世界から次第に去っていった。
ところが、鳥と竜がいなくなると、風が吹かなくなる。それを知っていた一部の人間は、去ろうとする鳥と竜に乞う。どうかこの地にとどまってほしい、と。聞き届けたのは、一羽の鳥と、一頭の竜だった。以後この鳥と竜を、人々は〈守護者〉と呼び、感謝をささげるようになる。
古い古い神話である。
どれほどが真実なのか、それとも全くの創作なのかわからない。
だが、神獣たちと人間の間に生まれたのが、〈魔術の祖〉であると言われている。シグナ族もそのひとつで、スィーリも自身の血脈を「神獣から与えられた血」と呼んだ。
また、今現在この世界に存在する〈世界律を知る者〉――いわゆる魔法魔術を扱う才能のある者は、〈魔術の祖〉と、その混血である。すなわち、イサナにも「神獣の血」の片鱗がある。
「聖域って、――一体、何?」
「さっき説明した通りだわ。神獣たちが意思を伝え、私たち家臣が実現させる。そうね、大げさな言い方をすれば、世界を守っている」
「・・・・・・」
「神獣は、この世界の風そのもの。彼らがいなくては、風が廻らない。淀めば穢れが生まれる。穢れが溜まれば世界は死に向かう。そして神獣は血を厭うのよ。大地が血に染まるような戦は大嫌い。だから争いの芽を摘み、神獣が世界中を廻る手助けをする。――それが私たち、聖域の民。神獣の家臣。一般に言う、里人ね」
イサナは理解を放棄した。言葉の意味は分かる。だが、彼女の語るものの真髄はわからなかった。強いて言うならば、聖職者や、占い師たちと同じ匂いがする。自分とは違う景色を見ているのだ。
自分が理解できないものが、すぐそばにある。
薄気味悪さすら感じた。
「今回の事件も、争いの芽だと?」
「いいえ。ただの小金稼ぎよ」
「・・・・・・」
聖職者に似ている、と思った次の瞬間に、予想外の返答だった。
小金とは、なんとも俗っぽい話である。
「里の運営ってお金がかかるのよ。教育機関のほうまで合わせると、本当に、一国の予算と変わらないわ。だから依頼を受けて、里人や門下生を派遣して、対価をもらうの。今回もその一つ。こんな言い方、巻き込まれた側からは腹立たしく聞こえるかもしれないけれど」
「それは、別に・・・・・・」
「でも、思っていた以上に大事で、厄介だったのは確かよ。だから追加人員として私たちが来た。――スィーリは少し気に食わないみたいだけど」
「どうして?」
「一度は自分に仕事を任せておきながら、後から里人が出しゃばってくるのは嫌なんでしょうね。なんでも自分が仕切りたい人だから」
「・・・・・・」
イサナは微かに疑念を抱く。
スィーリは確かに人に使われることを好まないだろうが、必要とあらば割り切るタイプだろう。我を貫いて利を失うような愚かさは見当たらなかった。
「――私たちの仕事のことで、お話をしていいかしら」
イサナが思考を深くするより先に、リオアスティが居住まいを正して切り出した。
イサナは憂鬱を隠さず、しかしうなずいた。
「ありがとう。――このたび、この街の周囲で起きた隊商の消失事件は、人為的なものです」
スィーリも言っていた。人が策略をもって成したことである、と。
「我々聖域はこの解決を依頼され、引き受けました。そして調査した結果、あなたが巻き込まれた被害者の一人であると、判明しました。我々の調査が遅れたために、あなたが傷を負うことになった。これについては、お詫びのしようもありません」
リオアスティが頭を下げる。
ぞわり、と不快感が背を這った。
彼女の行動に、ではない。彼女の言葉から透けて見えた、物事の大きさや複雑さに、だ。
「この事件の全容について、詳しく申し上げることは出来ません。その理由も、詳しくは語れません。ですが、――これだけは、はっきりと言えます。あなたは単に、巻き込まれたにすぎません」
はじめのうちは目を伏せていたイサナだが、やがてはっきりと相手を見た。
琥珀色の双眸が、真摯にイサナを見つめていた。
「あなたの技術を欲する者がいます。あなたを陥れ、あなたの身柄を手に入れ、その技術を、知識を、己が物にするために、このたびの事件は起こされました」
「それは、私のせいだとは言えない?」
ぎりぎりと胸が締め付けられる。
――「今回の隊商の失踪事件の原因はお前だ」
スィーリはそう言った。
今にも頭が真っ白になりそうだが、イサナは踏みとどまった。イサナの傍には風が吹き続け、湧き上がる不安をさらっていく。
「あなたは狙われる立場であり、被害者です」
「でも人が、・・・・・・たぶん、人が死んでる」
占いの結果は絶対ではないが、大きく外れたりもしない。
「そうです。彼らも被害者です。けれど、あなたは、決して、加害者ではない」
「・・・・・・そう」
リオアスティは力強く断言した。
イサナは努めて息を整えた。言葉の上では、確かにリオアスティが正しかった。その正しさだけに頼って、イサナは続きを聞く。
「一つ、今回の事件について我々が明かせることがあるとすれば、――これはまさしく、我々が処理すべきことである、ということです」
「依頼を受けたから、ではなく?」
「はい。あなたの身柄を手に入れようとする何者かの企み、――すなわち、魔術師に隷属を強いる行為は、神獣がきつく禁じています。神獣の名代として、我々はその者を、突き止めて、・・・・・・止めなければなりません」
「なぜ聖域が、そういった取り締まりを?」
「神獣の意思です。神獣はかつて、か弱い人間たちを憐れんで、魔術を与えました。ゆえに、魔術や魔法で誰かが不幸になることを、神獣は喜びません」
相変わらず、認識の齟齬はある。
だがイサナはうなずいた。
「わかった。私は何も知ることが出来ないけれど、あなたたちがすべて解決する。それはもともとあなたたちの仕事だから、ってことだね」
「そうです」
そこでリオアスティは、少し表情を曇らせた。
「我々の仕事であると言った手前、これを切り出すのは非常に心苦しいのですが――、少々お力を貸していただきたい」
「力?」
「占術を組み込んだ、構造魔術をお使いになると聞きました」
「ああ、あれ・・・・・・」
とりあえず組み上げた、イサナからすれば大雑把でおざなりな術である。
「今回来ている里人の中に魔術師もおりますが、スィーリから話を聞いたとき、耳を疑っていました。それだけ、あなたの技術は他にないものです。狙われる理由がよくわかりました」
「別に、あんなの・・・・・・」
「強制ではありません。ですが、その技術をお貸し下されば、我々としても仕事がたやすい」
「・・・・・・」
イサナは返事をためらった。
自分の持つ知識や技術が原因となって、誰かが死んだと聞かされたのだ。知った直後に、あっけらかんとそれらをひけらかすほど、無神経に出来ていない。
リオアスティは食い下がらなかった。代わりに、ふっと表情を緩め、肩の力を抜いた。
「ここからは、個人的にお話していいかしら」
「個人的?」
「そう。スィーリとエレの仲間として。――あなたの魔術譜を初めて目にしたとき、スィーリはすごくうれしそうだったの。あまり表情の変わらない人だけど、感情的なのよ。ご機嫌で、歌でも歌い出しそうなほどだった。私は魔術師じゃないから、詳しいことは理解できない。でも、スィーリが好きだと言うあなたの魔術を、ぜひ間近で見てみたいわ」
なんの裏もないお願い、であった。客商売を長らくしているイサナは、人を見る目には自信がある。このリオアスティは信頼に足る人物だ。だが、危ういほどに純粋だとも思った。
「・・・・・・確約は、まだできないけど、できるだけ」
イサナは喘ぐように答えた。
聖域がどんなところか未だ掴めないが、一国家並の予算を必要とする組織だという。そんな組織は、彼女のような純粋さだけでは決して成り立たないことはわかる。
この組織に関わる以上、見極めねばならなかった。
期待に、まっすぐ応えることができない。それほどに疑り深く育った自分が、とても卑しいものに思えた。




