10.魔術談義
カンテラが照らす細い階段を下っていく。
小さな衣擦れの音さえも、周囲に反響して大きくなる。
隠された地下書庫は、この日も静謐さをもってイサナを迎えた。
ただし少しだけいつもと違った。
先客がいたのだ。
古い机に紙を広げ、その上にペンを走らせる若い魔術師の男。――スィーリスフィアだった。
「目録を作ったのはお前か?」
挨拶もせず、顔も上げず、手も止めず、彼は言った。
地下全体をぼんやりと照らすのは、この場所に組み込まれた魔術の灯りだが、スィーリの手元を照らすのは、魔素濃度の高い油を使ったランプだった。彼が喋るのに合わせて、ランプの周囲がゆらゆらと揺れるように見える――イサナが初めて見る現象だった。本から得た知識によれば、魔力が強く、なおかつ呪力が強いとそうなる。
何を羨んでいいのかわからないほどに、彼は才能の塊ということだ。
劣等感の疼きが苛立ちを呼んでいたが、これほどの才能を見せつけられると馬鹿らしくなってきた。
「書架に張り付けてあるやつのこと?そうだよ」
「便利だった」
「それはよかったね」
自分のために作った目録なので、礼を言われることでもない。
彼が描くのは魔術譜だった。イサナが作るものより大幅に簡素で、インクや紙にも工夫がない。これは魔術師たちが呪文省略のために使うものであり、素人は使いこなせない。下手をすれば、イサナも使えない。
「熱魔術?」
何気なく訊ねると、今までかたくなにペン先を見ていた視線がイサナをまっすぐとらえた。
「わかるのか?」
「・・・それくらいなら、そりゃあ」
きつい目つきで見られて、イサナはたじろぐ。たじろぎながらも、続ける。
「温度は使う時に任意で決められる。冬に暖を取る程度から、発火まで。応用がきくし、便利そうでいいね」
イサナが作る熱魔術の譜は、温度は固定値――野営の際の煮炊きに適した温度――で、継続時間も三時間ほどだ。少量だが紅玉と金を混ぜ、太陽光にしばらく当てたインクを使うことで、素人でも扱えるようにしている。
「理解が早いんだな」
「そりゃあ、それで食べてますから」
「魔術適正が高いと言う意味だ。純血以外では、なかなか見られない。そういえば、出身はこの街か?」
「ここからそれほど遠くないところだよ。中央グラント領のロネン」
「そうか。この一帯はエルナイの血が残っているから、先祖返りでその性質が強く出たんだろうな」
「エルナイ?・・・でもうちの家族みんな、魔力なしだよ?」
エルナイは魔術的な表現であり、一般人からは「エナ族」と呼ばれている。いわゆる〈魔術の祖〉の一つだ。混血が進み過ぎて失われた種だが、あちこちにその血筋や文化の片鱗が残っている。――たとえばこの街の名前、「サルエナ」の中にも「エナ」の音が入っている。
「エルナイはもともと、他に比べて魔力の強い種族じゃない。――まあ、たどれる親類が全員魔力なしなのにお前だけ、となると珍しいだろうが、まったくありえない話でもない。お前の・・・そうだな、半分以下くらいになると、魔力なしと判断されるだろうな。そういう血縁者がいるんじゃないのか?」
「・・・そうかもね」
イサナは実家を飛び出してきた身だ。今更血縁者を調べてみようとも思わない。
考えてみれば、この中途半端な才能こそが劣等感の出発点だ。
ほとんどの人間は、魔力など持たない。そんな一般人たちが時折見かける魔法や魔術は鮮烈で華々しい。自分にもその才能の片鱗があると知れば、当然その道に憧れる。憧れが芽生えた後に、そんなものささやかすぎて、才能とも呼べないのだと思い知らされる。
最初から、欠片すらなければよかったのだ。そうであれば他の大勢と同じように、ただの人間として、生きていけた。
「仕事に来たのか?」
「読書。まあ、仕事の内といったらそうだけど、お客さんが来ないから描いてもね」
「・・・そうか」
スィーリは軽く眉間にしわを寄せた。
そう言えば、この魔術師は「客が来ない原因」を取り除くために呼ばれたのだ。
「あなたたち、仕事を失敗したことないって聞いたけど。でも早くはないんだね」
「言い訳するつもりはないが・・・相手が魔獣か盗賊かというなら話は早かったんだ」
イサナは首を傾げた。
「じゃあ何?わかってるんでしょ?」
「正確に、誰がということはわかっていない」
「誰・・・?」
つまり、相手は人間だ。
野盗のように、十把一絡げに数えられるものではなくて。
「黒幕がこの街にいてくれれば楽だが、そうとも限らん。下手に動けば証拠を消される。まったく・・・厄介な仕事を押し付けられたもんだ」
イサナは表情を硬くした。
「黒幕って・・・誰が、何のために」
「調査中だ。流通を止めて得をする人間がこの街にいるとは思えん。街の外の人間の仕業か・・・もし内部の人間なら一時的に損をしてでも手に入れたい何かがあるような人物だな」
スィーリはペンを投げ出し、不機嫌に息を吐いた。
「まったく・・・金にならんのに面倒な」
「随分こだわるね」
「金は相手に対するわかりやすい評価だ。安く相手を使おうとする人間は、正当な評価ができない、目の曇った人間だ。そういう相手に使われていると思うと、胸糞悪い」
「胸糞悪いのに、なんで仕事受けたの?」
「俺とエレは違うが、仲間の一人が正式な里人で・・・あいつを里から借り受けているということになってるんだ、建前上。それの対価と言えば対価だな。別にあいつの対価と思えば構わんが、魔術師のスィーリスフィアがこの程度の値段で仕事を受けたと言う実績を作るのが嫌なんだ。今後値切られる材料になりかねん」
「仲間の一人って、あの黒髪の人じゃないんだ?」
「ああ。もう一人いて、今はシスコンの兄貴に呼び戻されている。それでエレと二人で仕事をするしかないんだが、――里人がいないのに里からの仕事をしているこの状況の理不尽さと言ったらないな」
スィーリは目頭を指で押さえながら言う。眼精疲労は術譜製作につきものだ。イサナも悩まされている。
「疲れ目?浄化魔術の譜、使う?」
「欲しいところだが、安売りするな。エレにも言ってただろう」
「だれもタダとは言ってない。宣伝には一番いい譜だからついつい言う癖がついてるだけだよ」
「俺は素人が使えるような魔術譜が普及すれば必ず弊害が起きると思っている。売るなら、もっと高くしろ。そうしたって、何の後ろ盾もない個人がやってタダで済む商売じゃない」
「・・・・・・一応私だってそれは考えてるよ。攻撃系の術譜は売ってないし、上位結界も基本的には作らない。結界解除も、幻惑術も、そう」
「家族を盾にとられて、お前が己に制作を禁じている譜を作れと言われたらどうする」
「・・・・・・」
「そうでなかったとしても、魔術師は、常に知識の飢えと渇きに苛まれる生き物だ。描くために最高の環境を整えてやるから来い、その代りに人を殺せる譜を作れと言われたら?お前はその欲求に抗えるのか。知識を浴びれば浴びるほどに、俺たちは飢えるんだぞ。今は大丈夫だと言えても、将来はわからない」
知識に飢え渇く。
その言葉に、ぞわりと恐怖が背を這った。
鼓動が早くなり、不快感がじわじわと湧き上がる。
嫌な感覚に耐えながら、イサナは無言で浄化魔術の譜をスィーリへと差し出した。彼は平坦な声で礼を言って受け取った。
しかし彼はそれを使わず、眺めている。
「・・・紙が違うのか。インクにも同じ式が見えるから、――水だな」
「そう。いわゆる聖水を使ってる」
「いい構成だ。無駄がない」
「ありがと」
「他の譜も見せてもらっていいか。無理にとは言わんが」
「売りに出してる程度のものであればいいけど。代わりに、あなたのを見せて」
「俺のは簡単すぎて参考になるとも思えんが」
「いいよ。私、他人が作った譜ってあんまり見たことないから」
「そうか。――見るなら、あっちに椅子があったぞ。持ってきたらどうだ」
スィーリは書架の陰にある椅子を示す。
もとはこのアンティークの机に向かい合うように二つ配置されていたのだが、イサナがあちら側で本を読むときのために動かしたのだ。
見るからに重そうで、実際も重い。――そして何より問題なのは、この男には運ぶ気がない、ということ。
男がやってくれて当然、とは思っていないが、ペンと本しか持たないイサナよりは力がありそうなのに、少々恨めしい。
イサナとスィーリは広い机のあちらとこちらに座り、互いの魔術譜を手に取った。
スィーリの譜は、イサナのものと比べれば確かに単純だった。譜術の黎明期に作られ、今もスタンダードとなっている基本の式をもとに、彼が使いやすいように少し改変している。しかし柔軟で汎用性がある。使用者が魔術師だからこその作りだ。最初、商人経由で渡された彼作の譜と違って、イサナはすべて一目で理解できた。
「簡易結界と、結界解除と、熱魔術。これだけ?」
「熱魔術があれば爆発させられるし、暖を取るのにも使える。仲間の一人が風使いだから探索系の術も必要ない」
「ふうん。これだと魔力食いすぎて私にはちょっと不便だなぁ」
「そこは何とも言えんな。シグナには縁遠い悩みだ」
ぽつり、ぽつりと思い出したように会話が起こり、しばらく静かになる。それを何度か繰り返したころ、イサナの持参したカンテラが淡く明滅した。
「もう帰らないと。いい時間になったみたい」
「そうか。――仕事が特にないなら、俺の使う譜を作ってくれ。対価は充分に払う」
「あなたのって、こういうやつ?」
イサナはスィーリが描いた簡素な譜をひらひら振って見せる。普通の紙に、普通のインクで術式を描くだけの簡単なお仕事である。
「そうだ。しばらく面倒事が続きそうで、自分で描けるか怪しい。お前なら、サンプルさえあれば同じものが作れるだろう?」
「そりゃ、作れるよ。式描くだけだし。・・・難しいのは、・・・鍵言葉に反応しやすいように、開く式使ってるくらいかな?」
「問題なさそうだな。一枚当たり銀貨一枚でいいか?」
「何枚?」
「作れるだけ作ってくれていい。熱魔術は使用頻度が高いから、優先的に」
「わかった。好きな時に取りに来て」
「頼む」
思わぬいい仕事が入った。
普段売っている譜よりもはるかに手間のかからないものなのに、それと同程度の値段である。
暗い階段を駆け上りながら、イサナは交わした会話を振り返る。
魔術的で、刺激的で、劣等感が入り込む隙間などなかった。
(魔術師と喋るのも、悪くない)
外は冷えていたが、それも悪くないと思えた。




