(四)
雪葉さんが出て行ってしばらくしてから、せつなさんの意識が戻った。私はまず怒るよりも前に彼女の体を抱き締めた。彼女の体は雪女らしくひんやりとしていて気持ちがいい。
「意識が戻ってよかった……」
涙声になりながら、彼女の顔を見上げる。状況も分からずに突然抱き締められたせつなさんは、呆然とした顔をしていた。
腕を解いてよく見てみると顔色が良くない。それに小刻みに震えている。
「ーーて」
「どうして……」
俯いたせつなさんの表情は分からないが、呟かれた言葉は暗く重かった。
いつもの彼女ではないこと、様子がおかしいことにはすぐに気が付いた。
「せつなさん?」
そっと声をかけると彼女はニタリと笑った。
「ああ、そっか。生きているんですね。ねぇ、紫苑さん。どうして、私を助けたりなんかしたんですか!!」
彼女は吊り上がった目で私を睨みつけ、両肩を掴んだ。力が予想以上に強く白衣越しからなのにそれすら突き破り、爪が皮膚にまで食い込みそうなくらいだった。
「痛っ」
迂闊だった。こうなることくらい分かっていただろうに。
痛みから顔を顰めるも、彼女は狂ったようにどうしてと繰り返している。そして肩を掴まれたままベッドに押し倒されたかと思うと、馬乗りになり私の首に手をかけた。
「せつなさん、聞こえていますか? 放してくださいっ」
呼びかけるも私の声は届いていない。荒い息を繰り返していて自失の状態だ。人間が真っ向から向かって妖怪に叶うわけがない。誰かに助けを求めないとこちらの身も危なくなる。
声を出そうと口を開いた瞬間、手に力が込められ首元を逃れられない苦しさと圧迫感が襲ってきた。
「あ、くっ……!」
思うように呼吸ができない。頭の中が熱を持ち、視界は霞んで目の前のせつなさんの顔さえよく見えなくなる。
「私は、生きていたくなんかなかったのにっ!!」
さらに手に力が込められる。霞んだ視界でそう訴える彼女が泣いているように見えて、私はゆっくりと綺麗な頬に手を伸ばした。冷たい指先に当たる温かな雫。
ああ、やっぱり。生きたくなんかないと言いながら心は泣いているんだ。
脳裏に八坂の姿が浮かぶ。助けを呼ぶ声も出せない。念じたら通じるだろうか。でも、いくら彼でもこんな状況下だなんて知るはずがないか。
意識が遠のいていく中、誰かが慌てて入ってくる足音と私の名前を呼ぶ聞き慣れた声が聞こえた気がした。
☤*
「ーーちゃん……紫苑ちゃん!」
重い瞼を開ければ、八坂の顔が視界に入った。彼は今にも泣きそうな顔をして見つめていたが、やがて安堵したように息をついた。
「よかった、気が付いて」
「八坂先っ……げほっげほっ」
話そうとするとひどく咽せる。鼻からも口からも自由に呼吸ができるようになって、加減が分からず大量の空気を吸ってしまったらしい。
「無理に喋ろうとしなくていいよ。まだ呼吸が整っていないんだから」
咽せている私の背中を彼は優しくさすってくれている。咳き込みながら眦に涙を浮かべ、視界の端でせつなさんの姿を探した。
彼女はベッドの上で静かに寝かされていた。
「せつなさんには悪いけど、鎮静剤を打って拘束させてもらっている状態だよ。これ以上暴れられたら大変だからね」
だいぶ呼吸が整ってきたところで上体を起こした。確かに八坂の言う通り、せつなさんは鎮静剤を打たされた上に抑制帯で拘束されている。
あんなにまで荒々しかった呼吸も、今では穏やかなものに変わっていた。
「ここまでしなくてもと思うかもしれないけど、また誰かに手を出されちゃ堪ったものじゃないから」
「すみません、八坂先生。心配かけてしまって……」
掠れた声で言うと彼は眉を顰めた。
「本当だよ。無茶をするなって言ったのは紫苑ちゃん、君でしょ。こういうことは今回限りだって約束してしてね」
じゃないと僕の寿命が縮みそうだよ、と苦笑いを浮かべた。
その後、部屋を出たところで待ち構えていたタマさんにもこっぴどく叱られて私は反省することになる。しかもせつなさんに面会する時は、タマさんか八坂が付き添いでいう条件つきになった。
落ち着いてから八坂に詳しく話を聞くと、せつなさんは一時期的な錯乱状態に陥っていたようで妖気もだだ漏れだったらしい。あの場に彼が駆けつけられたのも、一概には解放されたせつなさんの妖気によるものだったのだとか。
妖気と言われてもよく分からないが、錯乱状態だった彼女を思い出し身震いした。例え本心からそのつもりがなかったとしても、感じた恐怖は本物だ。
だからといって、彼女のグリーフケアを放棄するわけにもいかない。もし、彼女が自殺を図った原因に雪葉さんが関係しているのなら、尚更ケアしなければまた同じことをする可能性がある。
「紫苑ちゃん、せつなさんのケア継続できそうかい?」
「え?」
休憩室で問われた私は八坂を見た。彼の瞳には不安そうな色が浮かんでいる。
「正直に言うと、僕は紫苑ちゃんにせつなさんのケアを継続させるのは無理だと思っているよ」
「なっ……」
驚いて勢いよく椅子から立ち上がる。立ち上がった反動で椅子が床に倒れて、室内に大きな音が響いた。彼の口から無理だと言われたのは、ここに勤め出してから初めてだった。
「どうしてですか?」
思わず感情的になりそうなのをぐっと堪える。気に入らないことを言われたからって、すぐに感情的になってしまっては話し合いなんてできないことくらい分かっている。
「……君には、危険すぎる」
「危険でもなんでも、患者さんの命の方が大事じゃないんですか? 私にせつなさんのグリーフケアを継続させてください」
一歩も譲らない私の言葉に彼は渋い顔をしてから考え込んだが、やがてかぶりを振り賛成できないと言った。
「確かに君の言う通り、患者さんの命の方が大事だよ。でもね、せつなさんのために誰かが傷を負う必要はない。君が傷つく必要なんてないんだよ」
八坂の言葉に拳を握った。私に傷ついてほしくないから。そんなことのために患者と関わるか関わらないかなんて決められるのは、一番嫌だ。
この患者は傷つくから関わらない、あっちは傷つかないから関わる。一線を引くという行為は差別となんら変わりないじゃないか。
「先生のエゴじゃないんですか……?」
顔を俯かせて歯を食いしばる。握り締めた手の平に爪が食い込む感触があるのが分かったが、痛みは不思議と感じなかった。怒りで身体中が興奮しているからだろうか。
「私に傷ついてほしくないっていうのは、八坂先生の」
「うん、そうだよ」
途中で八坂が遮って言葉を紡いだ。顔を上げると、彼は悲しそうに笑ってーー
「それは、僕のエゴだ」
と断言した。私は下唇を噛んだ。できれば認めてほしくなかった、エゴではないと違うと言ってほしかった。
「さっきも言ったよね。人間は愛おしくて、命は儚く尊いものだって」
まるで子供に言い聞かせるように柔らかな言葉を紡いでいく。
「だからこそ、この手をすり抜けていってほしくない。失いたくないんだよ」
「そんなのっ、ただの綺麗事じゃないですか!!」
耐えきれなくなって、休憩室を飛び出した。背後から八坂の呼び止める声が聞こえていたが、私は全部無視して診療所から出た。
秋風が吹き抜ける町中を歩いてやってきたのは展望台だった。昼間でも夜でも人気がないここなら、落ち着けるとなんとなく思ったからだ。
階段を上りきって、備え付けられたベンチに腰を降ろした。カーディガンは着て来て正解だったかもしれない。
寒さの片鱗を見せ始めた風が髪を靡かせていく。頬を涙が伝った。
分かっていた。八坂が本気で心配してくれていることも、私のためにせつなさんのケアを中断させようとしていたことも。
怖い思いをした。だがもっとつらい思いをしているのは私じゃない、治療室で寝ているせつなさんだ。患者の心のケアをするのも私達の仕事なんだ。
それを少し危ない目に遭ったからといって、中断にはしたくない。胸中を悔しさが占めていく。
「どうしたらいいんだろう……」
今更ながら八坂とのやりとりが胸を苦しくさせた。
患者を優先させるのは最重要事項であることに変わりはない。でも私は分からなくなる。自分の中では患者の為にとやっていることは、必要だと思ってしているケアは果たして正しいのだろうか。
看護師の世界で何が求められるのだろう。即戦力? 率先力? 積極性? それとも知識力だろうか。私はどれも求められるものと知っているが、一番は思いやりの心ーー即ち優しさだと思っている。
優しさなくして人を看護することはできない。私はそう考える。人であろうが妖怪であろうが皆生き物だ。決して乱雑に扱っていいものではない。
命は無限じゃない、有限なのだから。
両膝を抱えてしばらく秋空の下、考え事に耽るのだった。
八坂との話の途中で診療所を飛び出してから、私達の間に気まずい空気が流れたまま五日が経った。私は時は一刻を争うと判断し、彼に黙ってタマさんを連れ出した。
正直霊体である雪葉さんに残された時間が後どれくらいあるのかは見当もつかない。だからといってここでこまねいていても、時間が解決してくれる見込みなんてない。
本人達が尻込みしているのであれば、私が動けばいいのだ。確実にケアを成立させるためには、彼女が生前娘宛に書き遺した手紙が必要不可欠である。
車にタマさんと共に乗り込み、雪葉さん探しに出かける。
「紫苑、どこを探すんだね?」
助手席に大人しく座っているタマさんが、外の景色を見ながら聞いてくる。雪葉さんの捜索という重要な名目ではあるが、こうしてタマさんと外に出るのは初めてだ。
「宛があるわけではないので、とりあえず雪葉さんが一番行きそうな場所を探すことにします」
この場合は二人が一緒に住んでいた所くらいしかない。選んだ理由としては単純に思い出がたくさん詰まっているだろうから。一か八かハンドルをマンションがある方向へ切った。
二度も訪れたことがあるお馴染みのマンションが見えてきた時、突然助手席に座っていたタマさんが髭をそよがせ始めた。
「この気配、雪葉だね」
私には分からないものを感じ取ったらしく、目を細めて姿の見えない何かを凝視している。そんなタマさんを横目で見ながら、近くの駐車場に車を停めた。
助手席のドアを開けてタマさんが綺麗な跳躍で降りてきたところで、ある問題に気が付いた。
「どうやってタマさんを連れていこう……?」
「普通に行けばいいんじゃないのかい」
「いや、それはどうかと。そもそも普通のマンションはペット不可のところが多いんです。エントランスを潜ったところで住人さんと鉢合わせてしまったら、大変なことになりますよ」
キャリーバックを持ってくるべきだったか。だがそれだとペットがいますと自己主張しているものだ。悩んで頭を抱えている私を、タマさんは奇異な瞳で見つめている。明らかに何を言っているんだと言いたげな感じだ。
「わたしは猫又で妖怪だよ。臆せず堂々と正面から行けばいいのさ」
「え?」
聞き返そうと足下を見るも猫の姿は消えていた。ハッとして視線を上げる。瞳はタマさんが開いていた正面入口から中に入って行ってしまうのを捉えた。
「ちょっと待ってください!」
自然な足取りで入っていくものだから、数瞬反応が遅れた私は一大事と言わんばかりに慌てて後を追った。
エントランスに入ると、ちょうどセキュリティーの自動ドアが開いていて住人が奥のエレベーターに乗ろうとしているところだった。
「すみません、乗りますっ」
駆け込むと、ちゃっかりタマさんはエレベーターの中に鎮座している。しかし住人は目を向けないどころか猫すらいることに気付いていない。
目的の階に着いた私達はせつなさんの部屋に向かう。
「ほら、堂々と行けばいいって言ったじゃないか」
「いきなり入っていくものですから、びっくりしましたよ。堂々と行きすぎです。行きはよくても帰りは分かりませんよ」
「何、大丈夫さ。猫又は姿を消すことだって可能だからね。あんた以外には見えないのさ」
横を歩くタマさんは自信たっぷりに言ってきた。猫又は唯一実体があるため焦りはしたが、どうやらいらぬ心配をしていたらしい。
「それならそうと初めから言ってくださいよ。どれだけ私が気を揉んだと思っているんですか」
恨めしげに呟けば、タマさんは笑いを零した。猫があからさまに笑うところを間近で見た。
「悪かったね。てっきりわたしは知っているものだと思っていたからさ」
「いいえ、知りませんでした。八坂先生からは実体があるとだけ聞いていましたので」
帰ったら八坂を問い詰めねばなるまいと思いつつ、雪城と書かれたプレートを掲げた部屋に着いた。微かにここだけ温度差が違う気がする。
「紫苑、気を付けな。中からすごい妖気を感じるよ」
どうにか機嫌を直してもらおうと足に身体を擦り付けていたタマさんが、硬い口調で注意を促した。
足りない荷物を代わりに取ってくると適当な理由をつけてせつなさんから借りた鍵でドアを開けると、流れ出てきた冷気が頬を撫でた。これ以上外に流れ出させないためにも、開けた隙間から体を滑り込ませる。
室内の気温がぐんと下がったこの感じは前にも体験したことがある。診療所で自殺を図って運び込まれてきたせつなさんを見て、怒りを露わにした雪葉さんがもたらしたもの。
あの時と違うのは室内のどこも凍っていないことだろう。心臓の鼓動が高鳴るのを全身で感じながら、タマさんを腕に抱いて廊下を進む。
一歩進めば進む程、気温はぐんぐん下がっていくのを感じた。冷気は奥の扉から漏れ出ているようだ。
そっとノブを掴むと手に伝わるのは氷を素手で触っているような冷たい感触。ずっと触っていたら芯まで凍りついてしまいそうになる。
「せ、雪葉さん、入りますよ?」
ゆっくりと扉を開ければ、そこはリビングだった。淡いクリーム色の壁紙と飾られた小物、壁にかけられたコルクボードに貼られたたくさんの写真、テーブルと二脚の椅子に大画面のテレビ、キッチンの戸棚の中には色違いのマグカップが入っているのが見える。
亡くなってから今も濃く残る、雪葉さんがここにいたという証の数々に胸を痛ませた。捨てられないのだろう。どれも思い出が詰まった物ばかりだから。
室内を見渡していた私は、突っ立っている雪葉さんを見つけた。
「いつまでも帰ってこないので、探しましたよ」
声をかけるも彼女は無言で入ってきた私達に目もくれない。佇む後ろ姿が寂しく見えて、なるべく刺激しないように近づいた。
「雪葉さん?」
顔を覗き込むも動揺を隠せない表情のまま、僅かに瞬きをしただけで口を開く気配はない。何を見つめているのだろう。一点に向けている視線を追ってテーブルの上に封筒から出された手紙が置かれていると気付いた時、なんとなく察してしまった。
「まさか……せつなさん、読んでしまった?」
思わぬ展開に愕然とする。せつなさんが自殺を図ってしまった原因が、よりによって雪葉さんが遺した手紙だったとは。
胸に抱いていたタマさんは瞳を閉じたまま黙っていた。こんな悲しい事実、出来れば知りたくなかっただろう。
「儂は、とんだ大馬鹿者じゃのう」
小さく呟かれた言葉が静かな室内に響いた。私は呟きに何も返すことが出来ず、場に沈黙が訪れる。
例え誰かが違うと答えたとしても、大した気休めにならないからだ。時に優しい言葉は人や彼らを追い詰めてしまう凶器になり得る。
「のう、そうは思わないかえ?」
長い沈黙の中、雪葉さんが振り返る。整った綺麗な顔に自嘲の笑いを浮かべている。なんともないはずなのに、ふと背筋を得体の知れない感覚がなぞっていった。
「雪葉さーー」
「のう、そうは思わないかえ?」
もう一度同じ質問を繰り返す彼女の表情は変わらないが、その奥の赤い瞳が色を濃くさせたのを見逃さなかった。ずんと空気が重くなり、頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響く。
恐怖から後ずさるも間合いを詰められていく。彼女の身体からドロリとした負の感情が漏れ出て、ますます部屋の空気を重くさせた。
「まずい、悪霊になりかけている。わたしの手には負えないね。紫苑、ひとまず部屋から出るんだ!」
鬼気迫ったタマさんの声で我に返った私は、脱兎の如く部屋の扉に向かって駆ける。ノブに手を伸ばそうとした瞬間、扉は驚くべき早さで氷に覆われた。
「ドアがっ……」
退路が絶たれたのは一目瞭然だった。背後からは雪葉さんが迫ってきている。逃げようにも外へと通じる窓も氷に覆われていて、非力な私ではどうこうすることはできない。
「うっ」
パニックになって立ち尽くしていると、さらに部屋の空気が重くなった。上から見えない圧力で押し潰され、無様にも床に這いつくばる。
「紫苑!」
強い圧力で遠退く意識の中、耳元で呼び掛けるタマさんの声が聞こえた。せつなさんと雪葉さんが言葉を通わすことが出来たなら、どれほどよかったのだろう。せめて、今だけでも姿が見えたらいいのに。
負の感情の深淵は音もなく私を飲み込んだのだった。
【症状について】
胃癌には特有の自覚症状はなく、早期の場合は無症状であることが多いです。一般的には、心窩部痛・腹部膨満感・胸やけ・吐き気・嘔吐・食欲不振などで、病気の進行とともに背部痛や体重減少・貧血などがあられます。
【治療と合併症について】
早期胃癌で長径が二センチ以下のものは、内視鏡的粘膜切除術(EMR)が行われます。この方法は入院期間が短くて済みますが、開腹手術を行わずに病巣を切除するので出血や穿孔などの合併症をきたす可能性があります。
内視鏡的治療が困難な場合は、腹腔鏡下手術を行います。これらの治療法は比較的患者への負担が少なくて済みます。
内科的な治療では、基本的に化学療法が主体となります。
術後は出血・縫合不全・通過障害・イレウスなどにはもちろん、胃切除をした場合は晩期で起こるダンピング症候群にも注意が必要です。
ダンピング症候群には、食後三十分前後で起こる早期症状と食後二〜三時間で起こる晩期症状があります。
早期……全身倦怠感、めまい、頻脈、発汗、動悸、
腹部膨満感、腹痛、吐き気、嘔吐、下痢など
食事の摂取方法に注意すると軽快することが多いです。
晩期……胃の貯留機能の低下によっておこり、一過性の高血糖・低血糖が原因です。全身倦怠感、めまい、心悸亢進、発汗、吐き気など
安静を保ち、血糖を補うために糖類を摂取させます。