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ここは横町、四ツ辻診療所〜今日も個性的な妖怪患者達で一杯です〜  作者: 鮎弓千景
第二症例 伝えられなかった言葉〜遺族へのグリーフケア〜
8/20

(三)





 話し終えた後、静寂が訪れた。タマさんも雪葉さんも何か感じるものがあったのか瞳を閉じていた。

 あれからもう二年なる今でも、鮮明に蘇るシャルとの別れ。彼女が亡くなった後、ルーク達はフランスへ帰っていった。

 帰ってからしばらく喪に伏していたようだが、現在はすっかり活気を取り戻しているようで、前のように頻繁ではないがたまに連絡をくれる。


 「死からの悲しみは時が癒してくれますが、後悔はずっと残り続けると思います」


 私は瞳を伏せた。感じた後悔は、生涯忘れることはないだろう。彼女は向こうで元気にしているのだろうか。いつかまた会える日が来るのだろうか。


 「人というのはいつの時代も変わらぬのう。何かをいつも嘆いておる。じゃが、だからこそ愛おしいと思うのう」

 「そうだね。愛おしいもんだよ」


 雪葉さんの言葉にタマさんは同意した。


 「愛おしいんですか?」


 不思議に思って聞き返してみる。妖怪の中には人と関わり寄り添うものもいれば、関わらず見下すものもいると八坂から聞いたことがあったからだ。


 「わたしらの中には確かに人間を見下したり、襲おうとするのもいるがね。でもそれはほんの一部の奴らさ。人間は、わたしらに無い何かをたくさん持っている。だから愛おしく感じるんだよ」


 目を閉じたまま尻尾を揺らすタマさんは、遠い目をしていた。昔、タマさんもそんな人達に会ったことがあるのかもしれない。


 「看護師さん。死者はね、その思いだけで充分嬉しいものじゃ」


 雪葉さんは唄うように言葉を紡いだ。


 「じゃからの、大切な人達が自分のせいで苦しんだり後悔している姿を見るのが一番つらいことなのじゃ」


 儂もそんな姿はつらくて堪らんのう、と彼女は悲しそうな顔をした。シャルにとって大切な人達が家族や私であるように、彼女の大切な人は娘さんということになる。

 もしかしたら、彼女が言っていた後悔というのは。


 「雪葉さんの後悔って……」

 「うむ。生前娘に手紙をしたためたのじゃが、渡し忘れてしまってのう。儂が入院中お互いが苛立ちから何度かぶつかることもあったし、ひどいことも言ってしまったんじゃ。最後まで謝ることさえできなかった」


 やはりか。雪葉さんもまた私のように後悔をしていたのだ。最後は絶対に伝えようと思っていても、いざその瞬間が来ると言葉が口をついて出てこない。

 都会の病院で働いていた期間、そういった別れをした家族を何度も見てきたことがある。


 子供のいない老夫婦に家庭・子供持ちの妻や夫、実子と疎遠か縁を切ってしまったが故に誰も看取るものがおらず、ひっそりと生涯を終えたもの。彼らも決まって言えなかったと後悔の言葉を吐く。

 もしくはあんなことを言うつもりじゃなかったと涙を流す。


 闘病というのは患者にも家族にも忍耐力が必要なものであり、各々私生活に多大な影響を与える。普通であれば気にしない些細なことにも、敏感に反応し衝突してしまうのも長い闘病による疲れや一向に良くならない苛立ちからくるものなのだ。

 ぶつかった時についカッとなって言ってしまった言葉ほど、後に尾を引くことになる。これは私達の普段の生活の中でもよくあることだ。

 特に、人間関係では多い。そういうところは、人間も妖怪も似ているのかもしれない。


 「だとしたら、違うのは寿命のみかな」

 「ん? 何か言ったかい、紫苑」


 ぽろりと零れた言葉を聞きつけたタマさんが、私を見上げた。


 「いえ、なんでもないですよ」

 「紫苑ちゃんは、なかなか面白い感覚の持ち主だよね」

 「わっ!」


 背後から聞こえてきた声に、私達は揃って驚いた。振り返ると寝ているはずの八坂がいつの間に縁側にいた。しかもごく自然に。


 「八坂先生! 寝ていなくていいんですか? というか、いつからいたんですか?」

 「うん。タミフル飲んだら熱も下がったし、だいぶ良くなったよ。えっとね、紫苑ちゃんが昔のことを話すところ辺りからかな」

 「ほぼ最初じゃないですか!」


 気付かなかった。てっきり八坂は熟睡しているものと思っていたため、後方は全く気にかけてなどいなかったのだ。

 病人が大人しく静養するのは当たり前だ。静かな環境下で休ませてあげるのが一番である。彼が起きてきたとしたら、理由はおそらくーー。


 「もしかして、うるさかったですか?」


 声量には細心の注意を払っていたつもりだったが、耳聡い彼のことだから寝ていられなくなったのかもしれない。


 「いや、別にうるさくなんてなかったよ。逆に安心感があったくらいだから。たまたまトイレに行こうと思って起きたら、紫苑ちゃんが話しているもんだから聞き耳を立ててしまっただけだよ」


 着流しに半纏・マスクという風貌なのに違和感すら感じないのは私の目がおかしいからか、八坂が似合いすぎているだけなのか。


 「本当、何着ても違和感ないですね」

 「ははっ、それは褒め言葉だよね。ありがとう」

 「ほらほら。病人はさっさと布団にお戻り」


 タマさんは彼の足に頭をぶつけながら、布団に追いやろうとする。


 「分かりましたよ、タマさん。病人は大人しく寝ていますから」


 八坂は困ったように笑いながら、布団に戻っていった。インフルエンザは熱が下がったからといって、すぐ外出OKということにはならない。

 集団感染を防ぐためにも、解熱してから二、三日は出てはいけないのだ。

 タミフル飲んでまだそんなに経っていないはずだが、もう解熱したところはさすが妖怪の回復力といったところか。


 「それでは、私は八坂先生の昼食を作ってきます。お二人の分も何か作りますね」

 「うむ」

 「頼んだよ。猫のわたしじゃ作れないからね」

 「分かりました」


 私は八坂に了解を得てから台所へ向かった。


 「先生、さっき泣いていたんかえ?」

 「泣いてなんかいませんよ」

 「相変わらずの感動屋だね」

 「僕泣いていませんよ」


 だからその間泣いた泣いてないの攻防戦が繰り広げられていることなど、私は知らないのだった。


    ☤*


 翌日、私は雪葉さんと共に件の手紙があるという娘さんが住んでいる自宅を訪ねた。横町内の高層マンションに娘さんは住んでいる。

 八坂もついていくと言ったが、無闇にウイルスをばら撒くのはよくないので留守番してもらっている。


 「うーん、留守かな?」


 娘さんが住む部屋に来たわけだが、インターホンを鳴らしても返答はない。確か娘さんの職業は画家だった。前に展覧会のチケットを持ってきてくれたことがある。


 「仕事場であるアトリエですかね?」

 「この時期は展覧会の予定はないと言っておったから、アトリエにもいないかもしれんのう」

 「困りましたね」

 「あら、どうかされましたか?」


 行く先も分からずに立ち止まっていると、隣の部屋の女の人がひょっこり顔を出した。


 「ここに住んでいる雪城さんに用があって来たんですけど、留守のようでして。どこに行ったかご存知ありませんか?」


 彼女はしばらく考え込んだ後、思い当たる節があったらしくあっと声を上げた。


 「雪城さん、この時間はいつも展望台に行くの」

 「展望台ですか。ありがとうございます、探してみます」


 早速向かおうとすると、彼女に呼び止められた。


 「あの、雪城さんのお友達の人よね? いいのよ、お礼なんて。同居していたお母様が亡くなられてからすっかり落ち込んでしまって。画家の仕事も思うようにいっていないみたいなの。私は彼女の絵大好きだから心配で。早く元気になってくれるといいんだけど」

 「きっと元気になりますよ」

 「ふふっ、そうね。じゃあ気を付けて」

 「はい」


 横町の展望台は町から少し外れたところにある。元々昔その場所に町があったのだが、時代によって廃れ跡地に横町ができた。

 当時は残っていた展望台を中心に開拓するはずだったのだが、予算の関係上山一つを切り崩すのは難しく仕方なく町外れにあるままになった。


 「あ、いた」


 展望台の整備された階段を上ると開けた場所に出る。そこに雪葉さんに似た容姿の人がいた。いや似てはいるが、体型は彼女よりやや劣る。

 一歩踏み出すとこちらに振り向いた。


 「こんにちは、せつなさん」

 「紫苑さん……。ええ、こんにちは」


 雪葉さんの娘ーーせつなさんは、私を見て幼さが残る顔立ちで微かに笑ってくれた。以前に会った時よりやつれたような気がする。


 「紫苑さんがこんなところに来るなんて珍しいですね」


 隣には雪葉さんがいるが一度も視線を外さない。実の娘である彼女には、母親の姿が見えていないようだ。


 「せつなさんに用があってご自宅に伺ったのですがいらっしゃらなかったので。どうしようかと思っていたら、隣の住人の方がせつなさんはいつもこの時間帯は展望台にいるからと教えてくださったんです」

 「間宮さんが……?」


 とても心配していましたよ、と伝えると彼女は弱々しく笑った。


 「ダメですね、私。母が亡くなってから何も手につかなくなっちゃって……。あんなにも私が描いた絵を大好きだと言ってくれる人にまで心配をかけている。母が見ていたら絶対に怒られています」


 赤い瞳を細めながら懐かしそうに呟く姿は、どこか寂しげだった。そんな娘の姿に雪葉さんは眉尻を下げてつらそうにした。


 雪女は妖怪の中でも子供への戒めとして代々語り継がれている。残酷な面もあれば母性的な面もあり、いまいちイメージが掴みにくい妖怪だと私は思う。

 昔はそれこそ男を惑わし生きた心臓を喰らっていたようだが、人間と関わっていく中で内にある獰猛さや残酷さはなくなり親しみやすくなった。


 「ははっ、確かに怒っていそうですよね」

 「紫苑さんもそう思います?」

 「ええ。でも、それ以前にせつなさんが元気がない姿は一番見たくないと思いますよ」


 霊体の雪葉さんの気持ちを代弁すること。私ができるグリーフケアはこれが精一杯だ。彼女は一瞬驚いた顔をした後、視線を落とした。


 「母は……昔から何にでもぶつかっていく人でした。人間との関係を築くのだって、強気で関わっていっていましたし」

 「そんな感じの人だなっていうのは分かりますよ。せつなさん覚えていますか? 雪葉さんと診療所で初めて会った時、なんて言ったのか」


 問い掛けると彼女は思い出したように笑った。


 「はい、覚えていますよ。“お主の肉は柔らかそうじゃのう”でしたよね」

 「そうです。私、あれがあまりにも強烈な印象で残っていました」

 「あの時は母がすみません……」


 苦笑いで言えば、彼女は恥ずかしそうに身を縮こまらせて謝ってきた。


 「いいえ、いいんですよ。忘れられない出会い方になりましたから。あ、それからこれも覚えていますか?」


 本人がいる前で申し訳ないが、しばらく思い出話をさせてもらおう。私達はまるで故人を偲ぶように、思い出話に耽ったのだった。



 せつなさんと思い出話を話して分かったのは、彼女も何かしらの後悔を感じているということだ。

 思い出話に花を咲かせた上で聞き出すチャンスを窺っていたのだが、見事に勘付かれたのかはたまた話したくないだけなのか、いざ切り出そうとすると決まって彼女は次の話題を振ってくる。

 結局タイミングもチャンスも掴めないまま、あれよという間に日数だけが経ってしまった。


 「今日で二日ですか。なんで話してくれないんでしょう?」

 「まあまあ、そんなに焦らなくてもいいんじゃないかなあ。無理に聞き出そうとすれば尚更話してくれないよ。本人から話し出すのを気長に待った方がいいんじゃない」


 診療所を再開して二日目の夜、休憩室で進展しない状況に頭を抱えていた私をインフルエンザから全快した八坂は、間延びした言葉で慰めてくれた。

 雪葉さんはあっさり何が後悔なのかを話してくれたっていうのに、娘のせつなさんはいまだに黙秘を貫いている。

 苦労して逮捕したのにその犯人が黙秘を貫いていて供述が取れず、事件の状況が進展しないことに悩んでいる刑事の気持ちが今なら分かるかもしれない。


 「あんまり悩んでいるとハゲちゃうよ?」

 「ハゲませんよ!」


 ムッとして言い返せば、八坂は声を上げて笑う。すっかりいつもの調子である。

 もう少し高熱でダウンしてくれていれば良かったものの。全く相変わらずお気楽医師なことだ。

 なかなか進まない展開に業を煮やしたのか、雪葉さんは事が進むまでは姿を消している。賢明な判断だろう。あのまま進まない状況下にいても、焦りや苛立ちが勝ってくるだけだ。


 「グリーフケアって、こんなに難しいものでしたっけ?」


 私が問い掛けると八坂はかぶりを振った。本来ここまで難しいものではないのだが、黙秘という存在がややこしくしてしまっている。


 「はぁ……」


 溜息をついて額を机につけると頭の上に何かが乗った感触がした。手を頭に伸ばせば、指先に何かが当たったので掴む。


 「プレゼント?」


 どうしてこんなものが私の頭の上に乗っているのだろう。今日は患者の誰かの誕生日だったか?

 不思議に思って首を傾げていると、八坂が期待の籠った眼差しでこちらを見ていることに気が付いた。


 「……あの、これ。八坂先生が?」

 「そうだよ」


 だって今日は紫苑ちゃんの誕生日でしょとつけ加えられて初めて、今日十月十八日は自分の誕生日であることを思い出した。

 前に八坂が誕生日を聞いてきたことがあったが、なるほどこういうことか。呆然と手にしたプレゼントを見つめる。


 「え、もしかして忘れていたのかな」


 黙って頷く。グリーフケア騒動の真っ只中でそれどころじゃなかったというか、すっかり忘れていた。

 正直二十歳を過ぎれば誕生日を祝われるのはあまりいい気なものではないが、心の籠ったプレゼントと気持ちは充分嬉しい。


 「嬉しくなかった?」

 「いえ、すごく嬉しいです」


 綺麗に包装されたプレゼントを抱いて笑うと、珍しく彼が顔を赤くさせて俯いてしまった。乙女かと思ってしまったことは内緒だ。


 「仮眠とってきますね」

 「うん、いってらっしゃい」


 仮眠室に入って、早速プレゼントを見てみることにした。中には綺麗なピンク色のブランケットが入っていた。私は仮眠をとる時、いつもカーディガンを体に掛けて寝ている。

 何があるか分からないから仮眠室の鍵は掛けていないし、棚には資料が僅かだが閉まってある。

 当然用がある場合起こさないように出入りすることもあるから、どんな状況で寝ているのかも寝顔も見られるわけで。

 彼が知るチャンスなんていっぱいある。これからどんどん寒くなってくるから、彼なりの気遣いが込められているのだろう。


 「ありがとうございます……」


 私は貰ったブランケットを軽く抱き締めて呟いた。ブランケットからは優しい香りがして、今日からいい夢が見られそうだ。

 ソファーに横になり、ブランケットを掛けて私は仮眠をとった。その裏で何が起こっているのかさえ、知る由もなく。


    ☤*


 誕生日の翌日、せつなさんと会う予定になっていた私はいつもの展望台で彼女を待っていた。


 「遅いな、せつなさん……」


 腕時計で時間を確認しながら呟いた。彼女との待ち合わせの午前十一時を過ぎて、あれから一時間が経っている。

 画家の仕事というのは急に入ってきたりすることもあるらしく、もしかすると仕事が入って来れなくなったのかもしれない。

 それなら連絡の一つでもくれるはずだが、携帯に彼女からの着信履歴はない。このままここで待っていても時間が過ぎるだけだと考えた私は、彼女の自宅マンションへ向かうことにした。


 「いない」


 マンションのエントランスで部屋番号を押して呼び出してみるが、返事はない。会うことを忘れて出かけているのだろうか。

 だったら尚更連絡をくれるはず。せつなさんは一体どこに行ってしまったのか。途方に暮れているところに携帯が鳴った。画面には八坂の名前が表示されている。


 「はい、東雲です」

 『あ、紫苑ちゃん? よかった、繋がって』


 電話口から安堵した八坂の声が聞こえてきた。余程焦っているのか、何かをしている音が耳に入ってくる。


 「八坂先生、どうしたんですか?」

 『いや、呑気に状況を説明している場合じゃなーーわっ!』


 ワゴン車の音と金属製のものを落とした音が聞こえた。恐らくワゴンを退かした拍子に、滅菌したガーゼを入れているカストが落ちたのだろう。


 「大丈夫ですか?」

 『ああ、うん。大丈夫だよ。それより紫苑ちゃん、今すぐ診療所に来れるかい。せつなさんが倒れて運ばれてきたんだ』

 「分かりました、すぐ向かいます!」


 通話を切って私は車に乗り込んだ。ハンドルを操作しながら、頭の中はせつなさんが倒れたという報せでいっぱいになる。

 一昨日まで元気だった彼女が何故倒れたのか。やつれていたことと関係がなければいいのだが。



 「八坂先生、せつなさんはっ!?」


 診療所に着くと、すぐに裏口から入り着替えてから治療室に向かった。治療室のドアを開けて中に入ると、ベッドに寝かされている彼女を見つけた。


 「待っていたよ。大丈夫、命に別状はないから安心して」

 「よかったぁ……」


 心の底から安堵して座り込む。そんな私に八坂は優しく笑いかけてくれた。ふと彼女が寝ているベッドの傍らに雪葉さんがいることに気付いた。


 「彼女が、せつなさんが倒れたと僕に知らせてくれたんだよ」

 「雪葉さんが?」


 佇んでいる雪葉さんを見る。姿を消したままだったのは、てっきり業を煮やしたからだと思っていたが実は娘の様子を見に行っていたのか。だから異変にも真っ先に気付いてくれたんだ。

 お礼を言うために近づこうとすると、八坂に肩を掴まれて止められた。今は近づかない方がいいと言われて見れば、彼女の表情は険しかった。


 「このっ……大バカ娘が!」


 寝ているせつなさんを見て、雪葉さんは拳を握り締める。室内の空気がぐんと下がったのを肌で感じた。怒っているのだ、彼女は。


 「でも、なんで怒っているんですか?」


 小声で八坂に話しかける。彼は憤怒を露わにしている雪葉さんの方を横目で見ながら、せつなさんが自殺を図ったことを教えてくれた。


 「自殺だなんて。なんでそんなこと……」

 「僕にも分からないんだ。本人はまだ目を覚まさないから聞けないし、雪葉さんに聞きたくてもあんなに怒っていたら聞きようがないでしょ」


 ただ今は雪葉さんの怒りが収まるのと、せつなさんが回復するのを待つしかないよと彼は言って口角を下げる。小声で会話をしている間にも室内の気温は下がり続け、寒さから私は思わず両腕をさすった。


 「このままじゃまずいかな。紫苑ちゃん、君は外に出ていて。僕が何とかするよ」


 自らが羽織っていた白衣を私の肩にかけて、部屋の外に押し出した。


 「先生!?」


 通路に出された私が再び部屋に戻ろうとすると、開いたドアの隙間を埋めるように八坂が立ち塞がる。通してほしいと訴えるも、彼はかぶりを振り通してはくれない。


 「ダメだよ、人間の命は儚く尊いものなんだから。君がここで自分の命を盾にしてまで説得する必要はないよ」

 「でもっ……!」

 「大丈夫だよ。妖怪には妖怪で立ち向かう方がいいからね」


 そうして彼はいつもの優しい笑顔を見せて、目の前でドアを閉めたのだった。


 八坂がドアを閉めてからどれくらい経ったのだろう。私は羽織った彼の白衣の襟元を強く握り締めた。

 あれから二人とも出てこない。耳をドアに当ててみるも声すら聞こえてこないので、中で何が起こっているのか気になって仕方ない。

 どうか二人とも無事で。そう祈らずにはいられない。必死になって祈っているところにタマさんがやってきた。


 「どうしたんだい、そんなところに突っ立って。むむ。何だい、この身も凍るような冷気は」


 事情を説明するとタマさんは目を細めた。タマさんがここに来たのは離れの縁側で昼寝をしていたところ、凄まじい妖気を感じたからだそう。


 「雪葉は怒ると、加減を知らずに妖気を全開にするからね。でも八坂がいるなら大丈夫さ」


 まただ。八坂もタマさんも簡単に大丈夫だと言う。妖怪である彼らには相手の力量が分かるからこその言葉なのだろうが、私は人間だ。

 彼らの実力なんて分かるわけがなく、だからこそ心配で仕方ない。もし彼に何かあったらと余計なことを考えてしまい、眦に涙が浮かぶ。

 涙を堪えているとドアが開いた。そしてドアの向こうから八坂が顔を覗かせた。どこにも外傷はないみたいだ。


 「っ……!」

 「おっと、紫苑ちゃんどうしたの?」


 出てきた八坂に抱きつく。彼は少しよろめきながらも抱き留めてくれる。私の耳に安定した心臓の鼓動が聞こえてきた。

 よかった、生きている。


 「な、なんて無茶をするんですか!!」


 目尻を吊り上げて彼を睨みつける。彼は笑いながら私の頭を撫でた。撫でられながら零れてくる涙を拭う。


 「ごめんね。言ったでしょ? 大丈夫だって」

 「そうですけど。私は人間ですよ、八坂先生の実力なんて分かりませんっ」


 胸板を拳で叩きながら抗議する。痛いと言いながらも、八坂は笑っていた。


 「ところで、雪葉さんは?」

 「彼女なら正気を取り戻したよ。頭を冷やしてくるって、窓から外に出て行った」


 部屋を覗き込むとあれだけの冷気は綺麗さっぱり消えていて、雪葉さんの姿はどこにも見当たらなかった。ベッドには変わらずせつなさんが寝ている。


 「やれやれ。あんまり紫苑に心配かけるんじゃないよ」

 「タマさん、すみません」

 「全く、今日は診療所開けられないね」


 私の足元から顔を覗かせ部屋の中を見たタマさんは、そう言った。


 「開けられないんですか?」

 「あれだけの妖気だったんだ。今日一日はどの妖怪も近づかんよ」


 タマさんは鼻を鳴らして断言した。八坂も同じ意見なのか、せつなさん中心にすると決断を出した。無事に何事もなく済んだから良かったものの、私は出て行った雪葉さんが気がかりで仕方ないのだった。




 【早期胃癌と進行癌について】


 粘膜内または粘膜下層に限局しているものを早期胃癌といい、粘膜下層をこえたものは進行癌といいます。早期については予後は非常に良好で、五年生存率は八割〜九割以上です。進行は転移の有無などで早期に比べると劣ります。

 進行胃癌にはステージと呼ばれる四段階の進行度の分類があり、ステージが進めば進むほど予後が不良になっていきます。



 【転移について】


 転移には、腹膜播種とリンパ行性、血行性があります。播種(はしゅ)というのは一箇所にまとまって転移するのではなく、まるで種を蒔いた時のようにバラバラに転移することをいいます。

 腹膜に播種した場合、がん性の腹膜炎や腹水、腸閉塞を起こしたりします。

 リンパ行性転移というのは、がん細胞がリンパ菅に侵入して徐々に遠隔へと広がっていきます。

 血行性転移は全身の血中にがん細胞が入り、肺・骨・脳・腎臓・皮膚などに転移します。また静脈からがん細胞が入り、肝転移を起こします。



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