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(四)






 「今は仕事に集中したいんだ! もう俺のことは放っておいてくれ!」


 恐る恐る中を覗くと、小豆さんとお花さんが作業場へ続く入口の前で睨み合っていた。二人の足元には陶器の破片が散らばっていた。

 いつも強面の小豆さん、笑顔に溢れているお花さん。初めて見る二人の険悪な雰囲気に、息をするのを忘れそうになる。

 八坂の言う通り遅かった。早速大変なことになっていた。

 どうやら奥の作業場から出てきた小豆さんと、作業場に向かおうとした所でばったり鉢合わせてしまったらしい。

 身近な存在の彼女なら直接何も聞かずとも彼がここにいる理由など、いとも容易く分かってしまっただろう。


 「たいがいおくれやす! 小豆はん、みんながなんぼ心配したはるか知っていまっしゃろか!」

 「もちろん知っているし、心から申し訳ないとも思っているっ。でも、この手を止めたくないんだ!」

 「っ……!」


 激情に身を任せたのか、お花さんが手を振りかぶったのが見えた。

 あっと思った時には、彼女の手は小豆さんの頬を撃っていた。乾いた音が店内に響き渡った。


 「うちっ、小豆はんが糖尿病かてこと知ってはります!」


 予期せぬ彼女のカミングアウトに、小豆さんは一瞬驚いた顔をしたがすぐに納得したようだ。


 「そうか、知っていたのか。道理で倒れた時に驚かなかったわけだ」

 「自分の身体、大事にしておくれやすっ! ほんまに身体壊してしもうたら、元も子もあらしまへん! そないこと小豆はんがよお分かって……」

 「ああ、自分の身体のことだ分かっている! けど今、俺にはどうしてもこの手を止めることができない事情があるんだよ!」

 「なんで? なんで、そこまで仕事に拘るん?」


 京都弁で怒り全開のお花さんの勢いが、急に萎んだ。呟くように紡ぎ出される言葉には、次第に悲しみの色が混じっていく。


 「なんぼ、うちが心配したはるか」

 「お花……」


 相手を愛しく思うのは、小豆さんだけではない。今目の前にいるお花さんだって同じなのだ。

 俯いたお花さんの頬に涙が伝ったのを見て、私は彼女に小豆さんの病気を打ち明けた時のことを思い出した。

 あれは今年の三月、桜が咲き始めた頃のことだ。



 その日小豆さんがいない時を狙って、私と八坂は和菓子屋 あずきに来た。

 当時は彼の元をほぼ毎日といっていいくらい説得に伺っていたが、終始に渡りガン無視されていたのだ。

 目的はお花さんに彼の病名と現在の病状を明かし、治療を受けてもらえるよう説得を手伝ってもらうためである。


 「すみません。休憩中なのに、わざわざ時間を割いてくださって」


 大事な話なのでなるべく他の人に聞かれない場所がいいと伝えると、ちょうど人がいないからと休憩室の和室に通された。


 「かましまへん。さあ、座っておくれやす」

 「では、失礼いたします」


 座布団に腰を下ろすと、目の前に湯気が立ち上る湯呑みが置かれた。


 「三月なんに、まだ外はさぶいさかい。飲んで暖まっておくれやす」

 「お言葉に甘えて。いただきます」


 芳ばしい緑茶を啜ると、体の芯から暖まってきた。


 「とても美味しいです」


 じんわり感じる温かさに、自然と私達の顔が綻ぶ。綻んだ表情を見て、お花さんは嬉しそうに笑った。


 「そんで紫苑はん、八坂先生。うちに話って?」


 私と八坂はどちらともなく顔を見合わせる。少しの間、見合わせてから私が口を開いた。


 「ええ、実は今日お時間をいただいたのは、お花さんに小豆さんのことについてお話があるからです」

 「小豆はんについて?」


 さて、なんかどしたんかいなとお花さんは何か心当たりがないかを考え込んでいる。


 「ああ、いえ。別に何かしたってわけではないんですよ。お話というのは、小豆さんの病気についてと、ちょっとした相談で」


 なにやらあらぬ方向へ勘違いしたまま本題に入りそうなので、八坂がすかさずフォローに入る。


 「病気? 小豆はんが?」


 二人で無言で頷くと、お花さんは信じられないといった顔で見つめてきた。


 「はい、糖尿病を」

 「糖尿病って……なんかん間違いではおまへん?」

 「いいえ。嘘偽りなく、事実です」


 私は否定すると、持ってきた鞄の中からペンとファイルを出した。付箋を貼ってある所から、二枚の検査の結果を取り出す。

 結果表が本人であるかを確認してから、見比べやすいように並べてテーブルの上に置いた。


 「お花さんから見て、左が昨年の血液検査の結果。そして右が去年の血液検査の結果になります」


 八坂はそう言うと、さらにペンである検査項目に○印をつける。


 「今、僕が印をつけたのはHbA1cという検査項目です。これは糖尿病の診断指標となります。数値を見てもらえれば分かると思いますが、昨年は基準値ギリギリだったのが、去年は6.5%になっています。こちらの……」


 次に新しく検査項目に△印をつける。


 「空腹時の血糖値は元々高めではあったので、糖分の摂り過ぎには注意するようお伝えはしたのですが、結果はご覧の通りです。最近は悪化の傾向が見られています」


 八坂からの病状の説明が終わったところで、私は口を開いた。


 「実は今まで治療を受けるよう説得してきましたが、耳を傾けてくれなくて。もしよければお花さんの力をお借りしたいんです」

 「そやったんどすか。ようやっと納得がいきたんや。紫苑はんがよお店に来はる理由が。うちで力になれへんなら、協力します」

 「ありがとうございます!」


 頭を下げて顔を上げれば、お花さんはひどく悲しそうに顔を歪ませていた。


 「せやけど、なんや寂しーなあ。一言くらいうちらに話しいやくれたってええんに……」


 話に一区切りついたところで、八坂はお手洗いに立った。残された私達の間に、気まずい沈黙が訪れる。

 彼女の気持ちはよく分かる。身近にいるのに何も話してくれなかったことは寂しくもあり、受け止め方によっては全く信頼されていないと受け取れてしまう。

 見兼ねた私はお花さんの隣に行くと声をかけた。


 「お花さん。きっと小豆さんは、誰にも心配をかけたくなかったんです。自分を心配することで、みなさんの仕事に支障が出るかもしれないと考えていたんだと思います」


 小豆さんの出した決断が、行動が。全てが正しいのかどうかは分からない。自分が病気であることを周囲に隠し続けることが、誰かのためになっているのかさえ、本人はもちろん誰にも分からないだろう。


 「おおきに、紫苑はん」


 やんわりと微笑んだお花さんは小さく溜息をついた後、神妙な顔でほんま、あきまへんなあと言った。


 「何が、ダメなんですか?」


 問いかけると、彼女は急にそわそわし始める。耳まで赤らんだ顔を両手で隠したかと思えば、次にはキッと睨みつけるように私を見た。

 見たこともない彼女の表情に全身が強張る。もしかしてこれは、聞かなかった方が良かっただろうか。


 「どなたはんかて言いまへん!?」

 「は、はいっ、誓って誰にも言いませんよ」


 両手を肩に置かれて激しく揺さぶられる。私はあまりの剣幕の前に黙って頷くしかない。


 「実は、う、うち……」


 “小豆はんが好きどすねん!”



 猫の私の丸い瞳に、涙を流しているお花さんの姿が映った。顔を両手で覆った隙間から、嗚咽が洩れて聞こえてくる。何よりも悲しい音が。

 小豆さんの病状説明をした時、彼女は私に小豆さんが好きだということを密かに打ち明けてくれた。赤らんだ顔に浮かぶ真剣な表情を見て、心から応援しようと思った。

 誰も、こんな展開を望んでなんかいない。なのに今お互いがお互いの想い人であることを知らず、二人は口論を続け、傷つけ合っている。

 想いが同じであることさえ、気付くこともなく。


 「うぅっ……うっ」


 絶えず響くお花さんの嗚咽は、彼女の悲痛の叫びのように聞こえて、強く胸が締め付けられた。

 足を踏み出したくても踏み出せなかった。正体がバレてもいいから、二人に伝えたかったのに。小さな足は微動だにしない。

 分かっているのだ。自分では、二人の間にあるすれ違いの壁は壊せないと。


 「八坂先生」


 私はすぐ後ろにいる八坂を振り返った。八坂は呼びかけにも応じず、ただじっと真剣に二人の様子を見つめていた。

 予想もしていなかった展開に動揺しているのかと思って、顔を覗き込んでみれば、なんと瞳を潤ませている。彼は医者に似合わず感動屋だった。

 特にこういうドラマでいえば御涙頂戴な場面には非常に弱く、心を打たれやすいのだ。最近はそんな彼を見ることがなかったため、すっかり忘れてしまっていた。


 「ちょっと何感動しているんですか!」

 「あ、か、感動なんかしていないよ?」

 「嘘つかないでください、思いきりしてるじゃないですかっ」


 瞳を潤ませておきながら、よくもまあ見え透いた嘘を言えたものだ。

 入口の所でコソコソと話していると、状況が変化した。泣いているお花さんを、小豆さんが抱き締めたのだ。


 「俺は。俺は、お前のことーー」

 「離しておくれやす」


 ああ惜しい、と思ってしまった。もう少しで小豆さんが想いを口にするところだったのに。


 「ええから、離しておくれやす」


 同じ言葉をもう一度言うと、お花さんは泣き腫らした顔で彼を睨みつけ、胸板を強く押して自分から引き離した。


 「聞いてくれ、お花」

 「嫌や」


 力任せに引き離されても尚、話しかけてこようとした彼を冷たい言葉で突き放す。周囲の空気が一瞬にして凍りついたのが分かった。

 見ている私達にも、肌を刺す緊張が伝わってくる。


 「うち、ろくに治療もせえへん人から話聞きとうありまへん」


 背を向けたお花さんが震えた声で紡いだ言葉は、完全な拒絶だった。


 「行こうか」

 「え、でもっ」


 放っておいていいものなのだろうか。

 心配になり振り返れば、小豆さんは俯いたまま動こうとしない。拒絶されたことを泣いて悲しんでいるように見えた。


 「紫苑ちゃん」

 「あ、待ってください!」


 後ろ髪を引かれる思いで、既に二人に背を向けている八坂の後を追った。



 「はあ……、やっぱり納得いかない」


 診察に使った器材の消毒をしながら、私は呟いた。なんだか喉元から胸元にかけて、何かがつっかえている気がする。

 いや、気がするではなくつっかえているのだ。胸の中に大きなしこりが。

 あれから私達は横町から戻って、いつも通りに診療所を開けた。それからしばらくして、ひょっこりと逃げ出した小豆さんが戻ってきた。

 おかえりなさいと言ったのはいいものの、事の発端から立ち去るまでの間の出来事全てを見ていたために、どう接すればいいのか分からなかったがとりあえず笑顔で迎えることにした。


 「心配、かけたな」


 小さな声で小豆さんは言った。何はともあれ戻ってきてくれたってことは、引き続き治療を受けるという解釈でいいのだろう。


 「いいえ、いいんですよ。こうして、ちゃんと戻ってきてくれただけで嬉しいですから」


 嬉しいというのは本音だ。お花さんに拒絶されたショックにより、横町から立ち去ってしまうんじゃないか、もう二度と戻ってこないんじゃないか。

 私にとってはそっちの方が充分怖かった。


 「中に入ってください、私も八坂先生も心配していましたよ」


 奥の病室に通すと、まもなく八坂が入ってきた。ベッドに大人しく腰掛けていた小豆さんは、彼を見るなり俯いてしまう。もしかしたら、文句を言われる覚悟で戻ってきたのかもしれない。


 「小豆さん」

 「は、い……」


 身体を強張らせている小豆さんの姿を見ると、何故か親に叱られるのを待つ子供みたいに思えて、不謹慎だがつい笑いそうになる。


 「よく、戻ってきてくれましたね」


 怒られると思っていたのに、かけられた言葉は自分の行動や言動を非難するものでも罵倒するものでもなければ、追及するものでもなかった。

 予想もしていなかった八坂の言葉に、小豆さんは驚いて顔を上げるとぽつりぽつりと全てを話し出した。

 さすがに知っていますとは言えず、私達は黙って話を聞く。やはり診療所に戻ってきたのはお花さんから拒絶されたから。

 普通は心的ダメージで逃げ出しそうなものなのに自分の話を聞いてもらい、想いを込めた菓子を渡すためには、治療を受けるしかないと彼なりに考えた結果だったらしい。


 「すみませんでした」

 「もう分かりましたから。頭を……いえ、身体を起こしてください」

 「小豆さん。この通り、僕も彼女も怒っていませんから」


 床に額をぶつけて深く土下座する彼を、私達は慌てて起き上がらせた。起こした彼の額には、床の木目の跡が赤くなってついている。


 「自分勝手すぎるな。心のどこかで、お花なら分かってくれるって、そう思っている自分がいたんだ」


 あいつの涙を見た時にやっと目が覚めたんだと、彼は瞼を閉じた。


 「俺はただ、純粋に怖かっただけなんだ。本当はちゃんと分かっていた。あいつへの想いを込めた菓子なんか、治療を受けながらでも作れるってこと。少し手を止めたくらいで、俺のあいつへの想いは何一つ変わらないってことも……。現実から病気から、目を背け続けていただけなんだ」


 瞼を開いた小豆さんの瞳と私の瞳が静かにかち合った。


 「何度も説得に来てくれていたあんたには、散々ひどいことを言ってしまった。きっと、嫌な思いだってしただろう。すまなかった」


 またもや頭を下げられて、私は戸惑いながらも気にしていないと伝えた。確かに内心、なんだこの患者はと腹が立ったりしていたのは事実である。

 しかし、今それを掘り下げる必要はどこにもない。過去は過去だ。終わったことなのだ。


 「謝るのなら私もです。私は、小豆さんの本当の気持ちを理解しようともせずに治療を受けてもらいたい一心で伺っていました。自分の気持ちを押し付けるのは看護じゃありません。それは私のエゴです」


 初めは彼の気持ちに寄り添おうとしていたのに、いつしか寄り添おうとしなくなった。治療を受けないことへの不安と焦燥に駆られ、患者の気持ちに寄り添うという基本的なことを忘れてしまっていた。

 彼が私を傷つけたと思っているのなら、私も自分のエゴを押し付け、知らぬ間に彼を傷つけていたに違いない。


 「患者さんの気持ちに寄り添い、安心して治療を受けられるようにサポートするのも看護師の仕事です。すみませんでした」

 「いや、いいんだ。それにな、あんたのお陰でもあるんだよ。治療を受けていない俺が、今お花への想いを込めた菓子を作ったところで、あいつは絶対受け取ってくれないって気付けたしな」


 だったら治療を受けて、俺の菓子を受け取らせてやるだけだ。そう言って彼は笑った。



 「小豆さん、インスリン療法中の飲酒はしないようにお願いします」

 「飲酒なら問題ない。俺は酒に弱くて、全然飲めないからな。でも、何で酒飲んだらダメなんだ?」


 手渡された資料に目を通しながら、小豆さんは聞いてきた。


 「適度な飲酒は血糖を上げてくれるのですが、過多に摂取してしまうと、逆に低血糖になってしまうことがあるんですよ。アルコールには他に薬の効力を過剰にさせてしまうことがあります。よく一般の薬でも“アルコールと一緒に摂取しないでください”と書かれているのは、そういった理由からくるんです」


 注意点の多くは薬の箱の裏に書いてあったり、中にある説明書に記載されているが、実際そこまで読む人はいない。中には知らずに一緒に摂取して、薬が効きすぎたと文句を言ってくる人もいる。


 「なるほどな」

 「漠然とでいいので、頭の片隅に置いておいてくださいね。次に低血糖時の対応についてですがーー」


 彼が治療を受け始めて二週間が経った。

 幸いだったのは、あれだけ長く高血糖が持続していたのにも関わらず、腎症などの重度の合併症は併発していなかったことだ。

 初めの一週間は私がインスリンを投与していたが、彼から直々に自分で打てるようになりたいと言われた。

 正しい投与方法と私生活における注意点や低血糖時の対応について資料を渡し、今はこうして見守りつつ、一刻も早く私生活を難なく送れるように生活指導をしているのだ。


 「低血糖というのは、いつくるのか分からないものです。なので、常に飴や砂糖菓子などといったものを持ち歩くようにしてください。冷や汗が出たら、低血糖と疑って糖分を摂取してくださいね。では最後に、インスリン療法の実践に移りたいところなんですが」


 私は彼の顔をじっと見つめる。一つだけ気がかりなことがあった。

 資料から顔を上げた彼は、私の視線に気付いて首を傾げた。


 「ん、なんだ?」

 「いえ、その。お店の方は大丈夫ですか?」


 お花さんとのあんな場面を見てしまってから、彼女のこともそうだがお店のことも気にかかっていた。口論になったくらいで、お店自体を休みにするはずはないと思うが。


 「ああ、大丈夫だ。俺がいなくても回るようにしているからな。菓子職人はお花の他にもいるし、皆の腕は確かだから店のことは心配していない」


 彼の言葉から、お店にいる店員達に対する強い信用が垣間見えた。


 「なあ、これはこんな感じでいいのか」

 「はい。ダイヤルも打つ単位数のところに、バッチリ合わさってます。後は針をセットして」


 アルコール綿で刺す部位を消毒する。そのまま刺しちゃってくださいと伝えると、小豆さんは固まってしまった。


 「確か、皮膚を摘むんだったな」


 目標は、明確かつ簡潔的に【愛の告白と手作りお菓子でお花さんをゲットするために、目指せ! 社会復帰!】であるわけだが。


 「すみません、小豆さん。強く摘みすぎです」

 「あっ、つい力が入ってしまった」

 「力んでしまうのは分かりますが、余計な力は抜いてくださいね。本当軽く摘むくらいでいいですから」


 自立のために手は出せない。本人も私からの手助けは良しとしないだろう。


 「忘れるところだった、消毒だよな」


 いくら不手際でも我慢だ。自分で注射を打つなんて初めてなのだから仕方ない。血糖測定は出来たのだから、インスリン注射だって回数を重ねれば、すぐ出来るようになる。


 「よし、刺すぞ」


 小豆さんが恐る恐るペン型のインスリン注射器を手に取る。手が震えているような気がするが、目の錯覚だと信じたい。

 私達医療従事者がする時はあらかじめ手順を踏んでいるからいいが、患者さんが自分でしようとしている時はこうも緊張するのか。

 そわそわしている私を余所に、ゆっくりと針先が摘んだ皮膚に刺さった。


 「刺した後は、どうするんだ」

 「後はカチッて音が鳴らなくなるまで、上のボタンを押してください」


 手が震えながらもボタンを押し続けて、カチッという音が聞こえなくなった。音が聞こえなくなった時は投与し終わった合図である。


 「ダイヤルは零になっていますね。抜いていいですよ」


 使った針を処分しながら、最後に刺した所は消毒してくださいねとアルコール綿を渡した。消毒をしながら小豆さんが人心地ついたように息を吐いたのを見て、私もやっと緊張から解放された。


 「難しいもんなんだな、自分で打つのって」

 「そうですね。皆さん、最初は同じ感じなんです。過度に緊張して慌ててしまったり、刺すのを躊躇してしまったりするんです。回数を重ねていくうちに、スムーズに打てるようになりますよ」

 「早く慣れたいもんだな」


 焦りは禁物ですよと声をかけつつ私は、彼の社会復帰は遠い道程になりそうだと思っていた。



 「先生の治療のお陰だ。世話になった」

 「いいえ、お礼なんてとんでもないです。僕はただ側で見守っていただけですよ。小豆さんが頑張った結果です」


 治療を受け始めて一ヶ月後。秋の匂いが日増しに強くなってきた十月初旬。

 朝日が昇り始めた診療所の入口には、礼儀正しく頭を下げる小豆さんの姿があった。彼の懸命な努力の甲斐あって、めでたくこの日退院となったのだ。


 「小豆さん。私が指導したことはもちろんですが、次の通院日忘れないでくださいね?」

 「分かっているさ。忘れたりなんかしたら、またあんたが怖い面でお店に乗り込んできそうだしな」

 「怖い面って……。そ、そんなに怖いですか?」


 患者に面と面で向かって怖いと言われて、私の眉尻と口角が下がった。


 「冗談だ」


 悲しそうな表情を浮かべている私を見て、綺麗に洗っておいたお店の作業着に荷物の入った肩掛け鞄を軽々と肩に掛けながら、彼はしたり顔を浮かべる。


 「あっ、騙したんですか! ひどいですっ」

 「まあまあ、紫苑ちゃん。それでは小豆さん、通院日に会えるのを待っていますから。気をつけて帰ってください」


 危うく諍いが生じそうになったのを八坂が割って入り、あっさり帰宅を促した。多少のことは目を瞑れということなのだろう。


 「そうだな、ここで立ち話している場合じゃない。あいつが待っている店に帰るとするか。じゃあな、八坂先生、東雲さん」

 「お、お気をつけて!」


 初めて名前を呼んでくれたことに喜びを感じながら慌てて私が頭を下げたのを見た小豆さんは、片手を上げて別れの挨拶をすると背を向けて歩いて行ってしまった。


 「患者さんが元気になって帰る姿を見るだけでも嬉しいですけど。八坂先生は、やっぱりずるいです」


 だんだん遠く小さくなっていく小豆さんの背中を目を細めて見つめながら、私は頬を膨らませた。


 「え、え? どうして?」

 「大して何もしていなくても、医師というだけで患者さんや家族に感謝されるじゃないですか」


 患者に付きっきりでそれこそ二十四時間に渡って接しているのは看護師なのに、感謝されるのはいつも医師だ。


 「私達看護師だって、頑張っているのに……。なんか理不尽ですよね」


 別に見返りを求めているわけではないが、何もお礼の言葉がないというのは寂しい気持ちではある。


 「なんか、ごめんね?」


 八坂が申し訳なさそうに謝ってきた。他の医師にはないこういう所があるから、憎もうにもなかなか憎めない。


 「いいですよ。今更ですから」


 膨らませた頬を戻して笑ってみせると八坂は安堵した表情を浮かべ、


 「例え患者さんに感謝されなくても、僕は違うよ。いつも頑張ってくれている紫苑ちゃんに感謝しているからね」


 聞いているこちらが恥ずかしくなるような言葉を、さらりと言ってのけた。


 「あ、あんまり嬉しくないですけど。ありがとうございます」


 身長差のせいか上目遣いになるのを分かっていながら今の言葉が不服であると睨み返したが、彼はどういたしましてと笑って受け答えるだけだった。

 優しい笑顔程、胸を鷲掴みにするものはない。いっそのこと医師を辞めてホストにでも転職してしまえば、たちまち人気者になることだろう。


 「悔しいけど、でも嬉しい」


 かけられた言葉そのものには何の罪もないのだろうが、彼に至っては無自覚であることが罪の様さえしてくるから不思議だ。

 相手にかける言葉も向ける笑顔も、優しいからと言えばそうなのだが。それでも誰かに感謝されるのは嬉しい。


 「何か言ったかな?」


 思わず漏れた本音を耳聡く聞きつけた八坂が、私の顔を覗き込んだ。


 「なんでもないです!」


 ほんのり赤く染まった頬を見られまいと、私はそっぽを向いた。いつも意地を張ってしまうが、こういう時素直になれればどんなにいいのだろう。


 「さあ、戻って診療所を閉めましょう」


 頭にハテナマークを浮かべている八坂の後ろに回り込んで背中をグイグイ押しながら、診療所の中に入っていった。



 後日、私達の元に一通の葉書が届く。そこには綺麗な赤い薔薇のお菓子と、笑顔でお揃いのリングを嵌めて写っている小豆さんとお花さんの姿があった。

 お互いが両想いであったことを知った、なんとも幸せそうな笑顔だ。

 文面には、愛の告白と共に薔薇のお菓子が差し出されたこと、さらに薔薇の真ん中にはリングが乗っけてあったことが書かれていた。

 実にインパクトのある演出だっただろう。サプライズされたお花さんの驚く表情が目に浮かび、私達は揃って笑い合ったのだった。




 【糖尿病の合併症って?】


 糖尿病の合併症は、

 一、糖尿病性神経障害

 二、糖尿病性網膜症

 三、糖尿病性腎症

 この三つとなります。比較的、神経障害→腎症→網膜症といった順番で出現します。

 神経障害になった場合、感覚がやられてしまいます。痛覚がやられてしまえば、怪我をしても気づきません。

 気づかない場合、当然手当てもしないので悪化します。さらに高血糖により血行も障害されますので組織・細胞が壊死し、再生不可となるのです。

 最終的にアンプタ(切断)を施術することになります。


 合併症の中で一番ダメージが大きいのは腎臓です。今回は、後に特別な治療が必要となる腎症をピックアップします。

 例えるなら心臓はポンプ、肺はボンベという様に体の臓器は水道やガスなどといったライフラインに当たります。

 腎臓の主な役割は、体液の調節・血圧を調節・血液を造るホルモンの分泌・強い骨を作るためにカルシウムを吸収する。

 皆さんが一番知っているのは体の中に溜まった老廃物(毒素)を尿素として体外に排泄し、必要なものは再吸収すること。それから綺麗になった血液を体内に戻す濾過機能だと思います。フィルターみたいなものですね。

 不思議なことに人間の体は濾過と排泄機能がなければ、どんどん老廃物が体に溜まっていく構造になっているので病気により腎臓がやられてしまうのは、所謂死活問題なのです。


 糖尿病性腎症は、腎臓にある濾過機能を担っている糸球体と呼ばれる場所が高血糖による血管障害でその機能が破綻して起こる合併症です。

 時間の経過とともに蛋白尿、高血圧症、浮腫、腎不全を引き起こします。

 治療は、食事のタンパク制限と血圧・血糖のコントロールを行います。腎不全まで達してしまった場合は、特別な療法を導入することになります。

 腎不全の患者は腎臓が正常に働かない機能不全に陥っていて、体中に毒素が溜まっています。溜まったまま放置しておくと、死に至ります。この状態を改善するために導入されるのが透析です。


 透析というのはシャントと呼ばれる血管を作り、人工腎臓みたいな機械で血液を吸い上げます。中で綺麗に濾過した後、血液をまた体内へ戻します。こうした一連の動作を約四時間患者は寝たきりで終わるのを待ちます。

 一度導入した場合、透析治療は生涯に渡りしていかなければならない大事な治療となりますので、間違っても自己判断で中断しないようにしてください。




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