(二)
日曜日の他、毎月木曜日は診療所の休診日である。
本来なら、八坂を(本人がなんだかんだ理由をつけて引き延しにしていた)書庫の書物整理に強制参加させるのだが、この日の朝、私は唐傘と共に小豆さんを尾行していた。
せっかくの休日を書物整理に強制参加させられずに済んだ八坂も、暇だからという理由で尾行に参加している。
「それで、どうして僕達は小豆さんを尾行しているのかな?」
物陰からそっと小豆さんを観察しながら、八坂は一番疑問に思っていることを口にした。てっきり分かっていてついてきたとばかり思っていた私は、呆れた顔で見上げた。
「どうしてって……決まっているじゃないですか。小豆さんが治療拒否してまで、優先した事情を知るためですよ」
「ええと、それは尾行してまで知るべきことなのかな」
「そうだよ、紫苑姉ちゃん。何もこそこそ尾行しなくても、どういう事情か周りに聞き込みをしたら分かると思うよ」
開始して早くも、尾行の意味を見出せなくなり始めた二人に目眩を起こしかける。
「聞き込みで事情が分かるなら、こんなことしていません」
口ぶりから既に聞き込みをした後であることを悟った唐傘と八坂は、罪悪感を抱きながらも尾行を続けた。
朝の人通りの少ない横町を、小豆さんは迷いなく進んでいく。
時に路地を通り、時に入り組んだ道に入っていく。小さな背中を見失わないように私達は後をつけた。
ふと、電柱以外何もない通りで小豆さんは立ち止まった。合わせるように私達も離れた所で足を止める。
「で? さっきから、俺の後をこそこそつけているのは誰だ」
電柱の陰に隠れていた私達三人は、揃って息を呑んだ。絶対にバレないと思っていたわけではないが、尾行を始めて十分で見つかるのは早すぎる。
誰ともなく顔を見合わせた。どの顔も共通して読み取れる意図は、いかにしてこの状況を脱するのか。
「にゃー」
考えに考えた結果、私はやむを得なく猫の鳴き真似をした。本人に後をつけているのがバレている以上、決して有効とは言えない策だ。誰もがこれで誤魔化せるとは思っていない。
「うにゃあ!」
バレたからって威嚇してどうするんだ。
八坂の猫の鳴き真似を聞いて、軽くこめかみを押さえた。苦し紛れとはいえ、猫の鳴き真似をし出したのは自分だが鳴けばいいってものじゃないだろう。
「どんな猫かと思えば。なんだ、お前達か」
声がする方へ振り向けば、いつの間にか前にいたはずの小豆さんが背後にいた。完全に尾行終了だった。
どう言い訳をしようかと考えていると、小豆さんが強面には似合わないしょんぼりとした顔をしているのに気付いた。本当に猫だと思っていたらしい。
「ところで、どうしてここにいるんだ」
「えっと、外を歩いていたら小豆さんを見かけたものですから、どこに行くのかなと思いまして」
私が内心冷や汗をかいていることなど知らない小豆さんは、頬を掻くと溜息をついた。まさか最初からつけられていたとは、本人は夢にも思っていないようだ。
「声をかければ良かったのに。あんた、先生を連れてきたってことは、また俺を説得しに来たのか?」
「まさか。今日は休診日、文字通りオフです。説得なんかじゃないですよ」
「……そうか。悪いが俺は今先を急いでいるんだ、失礼する」
三人の目的が説得じゃないと分かった小豆さんは、腕時計を見ると急いで走り去ってしまった。唐傘はあまりの緊張感から解放され、体の力が抜けたのか、電柱に凭れかかっている。
「あーあ、バレちゃったね、紫苑姉ちゃん」
「うん、仕方ないよ。これ以上の尾行は無理だね」
尾行は最後までバレずにやり遂げてこそ意味を成す。途中で見つかってしまったら、最早尾行とは呼べないだろう。
話し合ったがこれからどうするかも浮かばず、結局八坂は二度寝のために自宅でもある診療所に戻り、唐傘は遊びに行ってしまった。
一人になった私は、人の往来が多くなってきた横町を宛もないまま歩くことにする。
九月に入った途端に連日悪天候が続いていた。今日は久々の青空である。
「暑いな。少しは過ごしやすくなるかなって思ったんだけど」
この間台風が去った後、初秋らしく過ごしやすくなるのかと思いきや、やってきたのは猛烈な残暑。強く熱いお天道様の陽射しに照りつけられ、額や背中に玉のような汗が浮かぶ。
まだまだ残暑に油断はできない日が続きそうだ。脱水にならないように気をつけなければ。
「あらあ、紫苑はん?」
水分補給がてら日陰で涼んでいるところに、着物姿の見慣れた女性が通りかかった。淡い若草色の着物を着た女性は、涼んでいる私を見つけると嬉しそうに近づいてきた。
「お花さん、おはようございます」
「おはようさん」
京都から来た化狸のお花さんは、小豆さんが営んでいる和菓子屋で住み込みの菓子職人として働いている。京都弁特有の柔らかな言葉遣いとは裏腹に芯がしっかりしている人だ。
「こないなとこで、どないんどすか?」
「いえ、残暑が厳しくて。少し涼んでいたところなんです」
団扇の代わりに手で扇ぐ。全くと言っていいくらいに風は来ない。風は諦めて、スポーツドリンクを口にする。
「先日小豆さんのお店に治療するよう説得に伺ったのですが、全然手応えがなくてダメでしたよ」
「……そうどすか。小豆はん、ほんまにかたいじやから」
そう言って溜息をつくお花さんは、小豆さんが糖尿病であることを知っている数少ない協力者だ。
治療を拒否する患者を説得するに辺り、近しい者の協力者は必要不可欠なので患者本人には内緒で打ち明けてある。
また治療拒否の患者の場合、大抵は家族に治療の必要性を諭されたりしたら案外承諾してくれる場合が多い。理由としては、やはり赤の他人から言われるよりも身内から言われる言葉の方がずっと重く身に染みるそうだ。
「あー、確かに頑固ですよね。本当困ってしまって。仕事を辞められない事情があるからと、断られてしまったんです。ところでお花さんは、小豆さんの事情について何か知っていますか?」
ここで彼女に会ったのも何かの縁だろう。日頃から小豆さんと近い位置にいる彼女なら、その事情とやらが何か知っているかもしれない。
「すんまへん、うちもよお知らんのどす」
心から申し訳なさそうにお花さんは答えた。
淡い希望は砂でできたお城のように、あっさりと崩れ去ってしまった。お花さんでも知らないとなると他に小豆さんに近しい人も思い浮かばないから、いよいよダメなのか。
「ほんまにすんまへん。何や分かったら、紫苑はんにお伝えします」
「いいえ。ありがとうございます、お花さん」
「かましまへん。小豆はんに、治療を受けてもらうためどす」
にっこり笑う彼女は何だか頼もしく見えた。やがて、お天道様が雲に隠れて陽射しが遮られ、辺りが少し暗くなる。
「もう行かな」
手に持っていた巾着から携帯を取り出し、時刻を確認したお花さんは残念そうに眉を下げた。まだ話していたかったという思いが見て取れる。
「用事があったんですよね? すみません、急いでいるところを引き留めてしまったみたいで。早く行かれた方がいいですよ」
私は彼女に早く行くよう促した。用事の方が優先順位が高い。
「紫苑はん、またお店に来ておくれやす。ほな、さいなら」
「はい、また伺わせてもらいます。お気をつけて」
お花さんが去ったのをまるで皮切りに、それまで黙っていた蝉が一斉に鳴き始めた。場の空気を読んでいたように思える。残暑が深く色濃く残る横町に、蝉の合唱が木霊した。
夜、自室で寛いでいるところに窓を叩く音が聞こえた。ベッドに寝転がって雑誌を見ていた私は、音のした窓へ視線を向ける。
窓の外には一匹の狸がいた。普通の狸よりやや大きめだ。必死に小さな手で窓を叩いている。鬼気迫る様子から只事ではないと感じた私は、窓辺に近づくと鍵を開けた。
再び窓を叩こうとして勢いのまま中に転がり込んでくる。目を回しながらも少しふらついて、話しかけてきた。
「し、紫苑はん、うちどす。お花どす」
「お花さん!? 一体どうしたんですか、こんな時間に!」
狸ことお花さんは、今にも泣きそうな顔で言った。
「は、早う来ておくれやす! 小豆はんがっ……小豆はんがっ」
最後まで言われなくてもお花さんの慌て様を見て、どういう事態が起こったのか分かってしまった。小豆さんの身に何かあったのだ。
急いで携帯と貴重品を手にして自室を飛び出す。
夜にも関わらず騒がしい足音を立てる私に、居間から両親が顔を出した。
どこに行くのかと聞く両親に目もくれず、靴を履きながら私は職場から緊急の呼び出しとだけ答えて外に出た。
「それで何があったんですか?」
車で夜道を走りながら、隣の座席に座っている狸姿のお花さんに事情を聞いた。
夕方用事を済ましてお店に戻ると、小豆さんは作業場でいつも通り小豆を洗っていたらしい。
お花さんは今度季節の変わり目に出す新しい和菓子を試作するために、厨房に入ったそうだ。
しかしいい和菓子が思い浮かばず、小豆さんを誘ってお茶にしようと作業場に向かった。そこで意識を失って床に倒れている小豆さんを発見した。
事の重大さにパニックになった彼女は、とりあえず私に知らせようとここまで走ってきたそうだ。
「あ、もしもし。八坂先生、紫苑です。夜分遅くにすみません」
携帯で八坂に連絡を取る。運転しながらなので、簡単に今聞いた状況だけを知らせた。
『じゃあ、今現場に向かっている最中ってことだね』
「はい、そうです。まだ実際の状態を見ていないので、何とも言えませんが」
『分かった。僕の方が近いから、必要な道具を持ってすぐ向かうよ。紫苑ちゃんはそのまま診療所に向かって』
「分かりました」
通話を終えて、お花さんに診療所へ向かうことを伝えた。一緒に向かうと言ったお花さんには、小豆さんの側についてもらいたいと伝えて途中で別れる。
診療所に着くと、持っていたスペアキーで鍵を開けた。
なだれ込むようにして入り、全ての部屋の電気を点ける。十中八九緊急入院になるであろうと奥にある仮眠室の隣部屋にベッドを用意した。
ベッドを用意したところで、小豆さんが運び込まれてきた。私は密かに拳を握った。
「脱水を起こしていたから、緊急でラインを確保して輸液投与開始。発見時の血糖値はHI。紫苑ちゃん、採血をしてくれるかな」
指示を受けて採血を採る。採血結果は血中のケトン体が高値で、小豆さんの病名は糖尿病性ケトアシドーシスと診断された。
「速効性のインスリンを注入したよ。救命の方が遥かに大事だから。血糖測定はお願いしてもいいかな?」
「……はい」
拳を握り込んでいる姿を見た八坂は、あんまり握り込んだらダメだよと優しく私の手を取った。拳を開かせれば強く握り込んだせいで爪が掌に食い込み、傷口から出血している。
「紫苑ちゃんのせいじゃないよ。治療を受けなかった小豆さんに非がある。だから、自分を責めないで」
傷口を消毒しながら、八坂は私の顔を覗き込んだ。私の今にも泣き出しそうな瞳と目が合った。
「先に病室に行っているからね」
八坂は私の頭に手を置いてから出て行く。頭に置かれた手が温かく感じた。
病室に入るとドアの近くにお花さんがいた。彼女は狸から人に変化していて、その表情は心なしか落ち込んでいる。
話を聞くと八坂から注意されたそうだ。別に注意といっても彼女を怒ることも責めることもなく、人が倒れたらその場を離れないですぐに連絡してください、とだけだったらしい。
こんな時まで怒らない医者なんて、聞いたことがあるだろうか。
お花さんの話を聞いて呆れたように八坂を見る。彼はカルテに記入していて、こちらの視線には気付いていなかった。
十五分後に血糖測定を行った。血糖値は350mg/dl。発見した時の血糖値がHI(ハイ=測定不能)だったことを考えると、少しは回復が見られているのだろう。
「ここは……」
意識が戻った小豆さんは辺りを見渡し、腕に繋がっている輸液チューブを不思議そうに見つめていた。お花さんは目を覚ました小豆さんを見て、言葉ではなく大粒の涙を零した。
「診療所ですよ、小豆さん。ご気分はいかがですか?」
「だいぶ良くなった」
「そうですか、良かったです。ご自分が倒れた時のことを覚えていますか?」
「……少しだけなら。小豆を洗っていたら、急に意識が遠のいたんだ。後は覚えていない」
「実は、小豆さんは一型糖尿病の患者さんに見られる糖尿病性ケトアシドーシスを起こされて、意識を失ってしまったんです」
「糖尿病性……?」
聞き慣れない病名に小豆さんは首を傾げる。
「僕から説明しましょう。糖尿病性ケトアシドーシスというのは高血糖状態により、ケトン体といわれる物質が血液中で急激に増える状態のことです。血液はph七.三〜七.四五で弱アルカリ性なんですが、ケトン体が増加した結果、酸性に傾いてしまい脱水や嘔吐などといった異常をもたらします」
ここで一旦一区切りしてから、八坂は真剣な表情で続けた。
「お花さんが見つけてすぐに僕達に知らせてくれなければ、本当に危ないところだったんですよ」
ベッドに仰向けになったまま、彼はそうかと呟いた。
「お花、見つけてくれてありがとう」
小豆さんからのお礼の言葉を聞いて、お花さんは顔をくしゃくしゃにさせたままかぶりを振った。私は彼に水分摂取をさせてから休ませた。
その後の一時間後、三時間後の血糖値は問題はなく、翌朝には無事に点滴も終了になったのだが念のため経過入院をすることになった。
「高血糖による昏睡というのは、放っておいたら命を落としてしまう可能性があるんです。今すぐにでも治療を受けていただますよ、小豆さん」
「でも、俺は」
「小豆はん! かたいじなんも、たいがいおくれやす!」
仕事を休まなければならないことへの不満と、治療を受けたくないと涙目で訴えてくる小豆さんを私とお花さんで一喝した。
この際、本人の同意がどうのこうのと言っていられない。放っておけば、同じことを繰り返してしまう。次また倒れた時、もし側に誰もいなかったらそれこそ命を落としかねない。
申し訳ないけど、これも小豆さんのためだ。
強制的に小豆さんは治療を受けることになった。
【診断指標について】
糖尿病の診断指標は主に採血結果です。
一、空腹時血糖値≧126mg/dl
二、75gOGTT(糖負荷試験)二時間値≧200mg/dl
三、随時血糖値≧200mg/dl
以上の血糖値の一~三のいずれか。もしくは、
HbA1c≧6.5%
であれば、糖尿病型と診断されます。
他にも、尿検査の項目に糖尿という項目があります。(+)ではないか確認してみてください。
健康診断では、空腹時の血糖値やHbA1cなどの数値に注目してみるのもいいと思います。
【治療は何を行うの?】
合併症を予防することを基本に、食事療法、運動療法、薬物療法を行います。
食事療法では摂取エネルギー量について、アルコール摂取や糖質摂取の制限、外食や間食には注意するよう指導します。
薬物療法では、一型であれば皮下注射によるインスリン療法。二型であれば食事療法と運動療法を行い、それでもコントロール不良なら経口血糖降下薬を使用します。
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