(一)
「ですから、糖尿病というのは恐ろしい病気なんです。合併症が全身に影響を及ぼしたりします。小豆さんの近頃の血糖値から危険な状態だと判断して、こうして対でお話をさせていただいているんです。すぐに治療することに同意をしていただかないと、本当に命に……って、聞いていますか、小豆さん?」
私は無視を決め込んでいる目の前の患者に苛立ちを覚えた。
小柄で強面であるが理解もあり清潔感もあり、素行もいいという好意的な印象を受ける。
人が話をしていても小豆を洗う手は何があっても止めない、仕事への熱い心意気は認めよう。
だが病気の話となれば、その印象も霞がかってしまうものだ。私は相手に聞こえないよう、心の中で小さな溜息をついた。
目の前で自分に背を向けてせっせと小豆を洗っているのは一型糖尿病患者である小豆洗い、通称小豆さん。
九月上旬、水曜日のお昼時。私は長い間通院はしているものの、なかなか治療を承諾しない小豆さんを説得するため、彼が人間に紛れて横町で営んでいるという和菓子屋に来ていた。
「あの、小豆さん」
奥の作業場で黙々と作業を続ける小豆さんの背中にこうして声をかけ続けてはいるが、ことごとく無視され続けている。
どんなに無視を装ってみても絶対に聞こえているだろうが、意思の固さにはある意味感服するものがある。
ここまで意思を曲げないとなると、多少恨まれても強引な手口で治療を受けさせるしかなくなってくる。
「小豆さん、返事してくださーい」
返ってきたのは無言という名の沈黙だった。こうも返答がないと、患者のためにやっていることがだんだん虚しく思えてくる。
やはり無視か。
もう一度心の中で静かに小さな溜息をつくと、説得するのに疲れた私は店の中を見渡した。
横町にある和菓子屋は、地元で有名であることは知っていた。それぞれ見た目の違う和菓子がずらりと表のショーケースに並べられている。
同じ小豆で作られたとは思えない艶やかな羊羹に、饅頭、定番のおはぎなど見ていて小腹が空いてくるものばかりだ。
「……どうして」
「人間のあんたは、そんなに俺に治療を受けさせたいんだ」
和菓子に見惚れていた私の耳に、心地よい低音の声が入ってきた。声をかけ続けて、早くも一時間が経とうしていた。やっと彼が答えてくれたことに安堵を覚える。
「そうですね。ただいくつか言えるのなら、私は診療所で働いている人間として、また医療従事者として小豆さんには真摯に病気と向き合って、治療を受けていただきたいと思っています」
本音は小豆さんの命が心配だからではあるが、それだけでは理由にはならない。真っ直ぐな回答を聞いた小豆さんは、初めてこちらを振り返った。
「なるほどな。あんたの気持ちは確かに届いた」
「じゃあ、治療を」
「気持ちは届いたが、治療を受けるつもりはない。俺には、どうしても今治療のために仕事を辞められない事情がある」
受けてもらえるんですねと言いかけた私の言葉を遮るように、小豆さんはきっぱりと治療拒否を言い放ったのだった。
「おかえり、紫苑ちゃん。どうだった、って聞くまでもないか。その様子だと、おおよその見当がつくけどね」
疲れて診療所に戻ると、八坂がコーヒーカップを片手に休憩室で寛いでいた。私は深く溜息をつきながら、空いている隣の椅子に腰掛ける。腰掛けた途端に疲労感が体に重くのしかかった。
「さぞかし骨が折れたでしょ」
あえて何に、とは言わない。もう一つのコーヒーカップを受け取って、口をつける前に少し冷ましながら、目尻を下げて優しく笑う彼を訝しげな瞳で見つめた。
「既にバッキバッキに折れているので、もう折れる骨なんてないです。それより、なんだかご機嫌じゃないですか、八坂先生」
私が説得でかなり心身的に疲れ果てていることは知っているだろう。なのに患者の説得は任せて、八坂自身は診療所を開ける準備をしていただけだ。これをいい気なものだと思わずになんとする。
「全く、いい気なものですね。自分で説得には行かないんですか」
「あー……もしかして、任せっきりだったことに怒ってる?」
「ええ、まあ」
一切隠すつもりもなく、私は素直に怒っていることを認めた。下手をすれば悪影響を受けそうなまでの怒りのオーラを浴びながら、八坂は黙ってコーヒーを啜る。
簡単に言えば説得は疲れる。説得する側もされる側も、最初は良くても徐々にすり減っていくのだ。すり減っていく中で消費するのが時間と労力であることを、八坂は嫌なほど知っていた。
「僕が行って、小豆さんが素直に治療を受けてくれているのなら、今頃苦労しないよ」
ぽつりと呟かれた言葉の意味を咀嚼した。
その口ぶりから、彼はもうとうの昔に小豆さんへの説得を試みたのだということを理解した。
同時に医師が直接試みてもダメだったのを、どうにかするのは難しすぎる問題なのではないだろうか。
「ごめんね、紫苑ちゃん」
本当に申し訳なさそうに謝ってくる八坂の眉尻は、私が見て滑稽だとも間抜けだとも思えるほど、大きく下がっていた。心の底から申し訳ないと思っている証拠だ。
次第に笑えてくる八坂の間抜けな顔を見て、こんなことで怒りを抑えられない自分がなんだか小さく思えた。
「いえ。私も、大人げなく怒りを全面に出してしまいました。すみません」
「ううん、いいんだよ。任せっきりだった僕にも責任はあるからね」
全く他人に甘すぎる医師だ。
たまにくらい本気で怒っても、誰も文句は言わない。むしろ怒った方がいい時だってあるのだ。あんな風に笑顔で受け止められたら、つけ上がる者達が出てきてしまう。
「八坂先生が謝る必要はないですよ。それから先生はもう少し怒るべきです。他人にも、患者さんにも。優しいだけじゃダメですよ。コーヒーありがとうございました……着替えてきますね」
「ははっ、参ったな。紫苑ちゃんの言葉は、いつも正しすぎて耳が痛いよ」
「でしたら。直す努力をしてください」
荷物を手に休憩室を出ていく私を、八坂は困ったように笑いながら見送った。
残暑が続く夜の待合室には、疎らだが診察や会計待ちの患者がいる。夕方からの患者通院ラッシュを乗り切り、今から朝方にかけての時間帯は割とゆったり出来るのだ。
「はあ……」
そんな中、待合室いっぱいに響くほど盛大な溜息をつくものがいた。普段とは違う雰囲気に、何事かと不思議がる患者達。患者達の視線を一身に浴びながら、私はお昼時のことを思い出していた。
治療を受けるつもりはない。きっぱりと治療拒否を言い放った小豆さん。彼がそこまで治療を拒否する事情とは、一体何なのだろう。
「タマや、お会計お願いね」
「ああ、お会計ね。本日の診察代は八百円だよ」
「はい、八百円」
「あいよ。ちょうどだね」
しゃがれ声のタマさんは猫又でありながら、驚くことに診療所唯一の会計士だ。いつもカウンターに置かれた籠の上で丸くなっている。実際、診療所が建っている頃から勤めているベテランであることには違いない。
器用に肉球のついている前足で小銭を落とすことなく掴むタマさんは、本当に猫又なのかと疑ってしまうほどだ。
「奪衣婆さん、今日はどうでしたか?」
タマさんがレジに入金しているのを横目で見ながら、奪衣婆に聞いた。奪衣婆は腰痛で診療所に通っている老妖怪の一人だ。時には他愛ない話をしたり、また時には相談に乗ってもらったりしている。
「いつも通りさ。八坂の坊やの腕は確かだし、ここに来ると痛みが取れるからね。ただ妖怪も歳には敵わんよ」
肩を竦めながら奪衣婆は言った。タフである妖怪でも、やってくる老いには勝てない。語り継がれる歴史上の大妖怪にも老いは存在する。
もちろん、それだけで死に至るわけではない。寿命や病気で命を落とすこともある。唯一違うところといえば、人間よりも寿命と老いがくるのがずっと遅いということだろう。
「ふふっ、そうですね。歳には敵いません。これ今月分の薬と湿布です。説明はいりませんでしたよね?」
「いらないよ、薬の内容は毎回変わらないからね。それより……」
カウンター越しから手渡された薬と湿布の袋を大事そうに抱えながら、奪衣婆は私を見つめた。
「何かあったのかい? 普段より笑顔が引き攣っているよ」
「そんなことないですよ」
「いんや、引き攣っている。若い輩は騙せても、私のような年寄りの目は誤魔化せん。騙そうなんて百年も早いよ」
「う……」
妖怪に言われる程、引き攣っているのだろうか。
思わず私は両手で頬を触る。あれほど鏡の前で不自然じゃないか確かめたのに、一発で見抜かれてしまった。
彼女の言う通り無理に口角を上げているせいか、若干左頬に引き攣りがある。しかし、微々たるもので気付く者などいないだろうと思っていた。
「何か悩み事かい」
奪衣婆の視線に耐えきれなくなり、逃げるように籠の中にいるタマさんへ視線を向ける。タマさんは毛繕いをした後、二つに分かれた尾を揺れ動かしながらじっとこちらを見つめてきた。その顔は興味津々である。
両者からの無言の圧力に耐えきれず誤魔化すのを諦めた私は、昼間あった小豆さんとの一件について掻い摘んで話した。
もちろん職種上守秘義務のため、個人情報となる名前や病名は伏せてある。
「説得に行ったのですが、治療を受けるつもりはないって断られてしまいました。どんな事情なのかも気になりますし、どうしたら治療を受けてもらえるのかも分からない。はっきり言ってお手上げ状態なんです」
「ふぅむ、よっぽどな事情なんだろうね」
話を聞いたタマさんは、目を細めて呟いた。
「そうでしょうけど。でも私としては、やっぱり治療を受けてもらいたいんです。命あっての物種じゃないですか」
取り返しのつかないところまで悪化してしまえば、それこそ仕事どころじゃなくなるかもしれない。私には昼間の小豆さんが、何だか自分のことを蔑ろにしているように見えて仕方なかった。
「まあ、確かに命あっての物種だけどね。その患者にとって仕事というのは、切っても切り離せない特別なものなんだろう」
仕事一筋で生きてきた者にとってはねと、タマさんは言う。
「紫苑や。あんたの気持ちは分かるさ。だけどね、命が心配だからって一方的に押し付けちゃいけないよ。大事なのは相手の意思を尊重し、気持ちに寄り添うことじゃないのかい」
奪衣婆のその言葉を聞いてはっとした。今まで何度か説得を試みたが、一度でも彼の意思を尊重したことがあっただろうか。
ただ毎日食前に測ってもらっている血糖値と血液検査を見て、早急に治療を受けてもらうことばかりにかまけてしまっていた。
患者の意思を尊重し気持ちに寄り添いつつ、なおかつスムーズに治療を受けられるようにサポートし支えるのもまた看護師の仕事だ。
小豆さんが今は治療を受けるつもりがないのなら、事情が済んでから受けられるようにサポートすればいいだけの話。
いつの間にか患者の意思を尊重するのではなく、なんとしてでも治療を受けさせようと躍起になっていた。
「タマさん、奪衣婆さん、ありがとうございます。お陰でもやもやしていたものが、すっきりしました」
「お礼なんてとんでもない。しがない年寄りの戯言だからね。さあて、わたしゃそろそろ帰るよ。あんたも頑張んなさい」
「はい、頑張ります! お大事に」
奪衣婆が診療所を後にしたと同時に、待合室には患者の姿がなくなった。
話し込んでいる間にも診察待ちの患者は次々と呼ばれ、診察及び会計が済んでいた。
ふと籠の中を見ると、タマさんは気持ち良さそうに眠っている。その柔らかい灰色の毛並みを、お礼の意味も込めて優しく撫でた。
『第二回 東雲 紫苑の医療講座』
皆さん、こんにちは。東雲 紫苑です。
「小豆洗いの糖尿病」いかがでしたか? 成人病(今は生活習慣病と呼ばれています)の一つ、糖尿病というのは合併症もかなり恐ろしい病気です。
これまで健康診断の結果が大丈夫だった人でも、ある日突然発症する可能性があります。
もしこの先健康診断で引っかかって、精査(精密検査)を薦められたら、これくらい何ともない、大丈夫だとは思わず、速やかに医療機関に受診するようにしてください。
大切なのは、早期発見・早期治療です。
今回の講座は糖尿病について盛り沢山となっておりますので、どうぞお立ち寄りください。
【糖尿病って、どんな病気?】
糖尿病について、お話する前に。
皆さんは、血糖値を下げるホルモンがいくつあるのか分かりますか? 多くの人なら、こう考えるかもしれません。
血糖値を上げるホルモンがたくさんあるのなら、下げるホルモンだってたくさんあるのでは?
そう考える方は少なくありませんが実は数多くある血糖値を上げるホルモンに対して、下げるホルモンというのは作中で出てきた「インスリン」ただ一つのみなのです。
では何故、糖尿病にかかるのでしょうか。
インスリンは膵臓にあるランゲルハンス島のβ細胞から分泌されています。食事やストレスなどといった時に血液中に分泌され、上がった血糖値を下げるのがインスリンの役割です。
しかし先にもお話した通り、下げるホルモンはインスリンのみなのですぐに分泌量が低下してしまいます。結果、血糖値が下げられない状態に陥り高血糖の状態が続いてしまう、これが糖尿病です。
つまり、答えはインスリンが正常に作用しなくなる、です。
さて、ここから本題に入ります。糖尿病には、
一、β細胞の障害によりインスリンの分泌が障害されて起こる一型糖尿病
二、インスリンの分泌低下とインスリン依存性が関与し、インスリンの作用不足で起こる二型糖尿病
の二つの病型があり一型は比較的若い方に多く、二型は四十代以上に多い糖尿病です。
作中の小豆さんは年齢25歳なので、一型糖尿病と診断されました。
症状は口渇、多飲、多尿、全身倦怠感、体重減少です。
さらに病状が進んだ場合、一型では糖尿病性ケトアシドーシス、二型では高浸透圧性高血糖症候群を起こし、命を落とすこともあります。
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