(四)
長い黒髪にブラシを通してドライヤーで乾かしていく。鏡越しに彼の顔を覗き込んでみると、頬は膨らませていたがあからさまに嫌がるような素振りはない。
久々の入浴を終えて上機嫌な童子くんは、上がってくるや否や長い髪をどうにかしたいと訴えてきた。本来なら美容院に頼みたいところなのだが、生憎お休みで電話が繋がらなかった。
悩んだ挙句髪を結ぼうということになり、こうして病室で乾かしているところなのだ。私の前に座る童子くんはすごく小さい。
「どんな感じで結ぶんだ?」
「うーん、背中まで伸びてるので団子にしようかなと思いまして」
「分かった、あんたに任せるよ」
初めの頃会った時はかなり反抗的な態度だったが、ずいぶんと丸くなったような気がする。最も私だけが感じていることなのかもしれないが。
しっかり乾かしたところで前髪はピンで止め、後髪は首筋に髪がかからないような位置に団子を作った。
「はい、終わりましたよ。こんな具合にしてみたんですがどうですか?」
見開きの鏡で後ろを写す。童子くんは団子を軽く触ったりしながら色んな角度から見た後、納得したように頷いた。
「ん、いいんじゃない」
ぶっきらぼうに言い放つ言葉に、最早毒なんてない。小さな手に収まりやすい鏡を渡せば、気に入ったのか何度も見ている。まるで初めて髪を結ってもらったことが嬉しくて仕方ないといった様子に、優しく微笑んだ。
「なんだよ、その笑みは」
彼は黙って微笑んで見ていた私の視線に気付き、訝しんでいた。さすがに見すぎたかなと反省する。妖怪とはいえ、恥ずかしいところをずっと見られているというのはいい気持ちではないか。
「あ、ごめんなさい。喜ぶ童子くんの顔を見ているのが嬉しかったので」
「そ、そっか。ふーん」
頬を掻きながら彼は視線を逸らす。そして手にしていた鏡を置くと、咳払いをしておもむろに話を切り出した。
「いきなりで悪いんだけど、あんた最近人形か何か拾わなかった?」
受付のカウンターに置いてある人形を手にとってきた私は、病室にいる童子くんの前に置いた。置かれた人形をまじまじと見つめる蒼い瞳は、何かを見極めているみたいだ。
「ここにいたのか」
しばらく人形を見つめていた彼は意味深な言葉を呟くと、真剣な瞳でこちらを見た。一瞬でも逸らさずに見つめる瞳は、私の心を見透かそうとしているのかもしれない。
「あんた、こいつに祈らなかったか?」
「童子くんが早く目を覚ますように、心の中で祈りましたけど……って、あぁ! ダメですよ!」
言い終える前に、童子くんは慌ててベッドから飛び降りると走って病室を出て行ってしまった。一瞬何が起こったのか分からなかった私は、すぐに後を追って病室を飛び出した。
「童子くん、待って!」
は、速い! 足の長さなら断然にこちらが有利なのに、スピードは向こうの方が有利みたいだ。子供特有の身軽さというか、そういうものがあるのかどんどん引き離されていく。
「はあっ、はあっーー!」
完全に背中が見えなくなったところで足を止めた。何が楽しくて真冬の、しかもこんな昼間に汗だくになりながら追いかけっこをしなくてはならないのだ。激しい鼓動と呼吸を整えながら、彼が走っていった方向を見つめる。
あの道の先には、童子くんが住んでいる家がある。理由を何も言わずに飛び出して行ったところを見ると、緊急なのかもしれない。
「っ……、もうひと踏ん張りっ」
既に怠くなってきた足に力を込めて、再び地を蹴った。
◇
童子くんの家は診療所から南に真っ直ぐ行ったところにある。彼よりだいぶ遅れて目的地に着いた私は、すぐに玄関の扉が開いたままになっていることに気付いたのだ。
近づいて見てみると鍵をこじ開けた形跡はなく、彼が持っていた鍵で開けたのだろうということは容易に想像できた。
開け放たれた扉から中を覗いてみる。室内なのに、日が入ってこないのか仄かに薄暗い。電気も点けていないようだ。
「あのー、お邪魔します」
近所の人に不法侵入と疑われないかびくびくしながら足を踏み入れた瞬間、奥から大きな声が聞こえてきた。
突然の大声に身を強張らせたが、よく聞いてみるとそれは童子くんの声だった。大声ではあるが叫び声というより、誰かを必死に呼びかけている……?
「わらべっ、しっかりしろ! おい!」
わらべというフレーズが聞こえると同時に靴を脱ぎ捨て、声が聞こえてくる奥の部屋へ急いだ。焦った声から嫌な予感がひしひしと伝わってくる。
奥の座敷に辿り着いた私が見たのは、畳に倒れているわらべくんと揺さぶって呼びかけ続けている童子くんの姿。
「わらべくんっ」
駆け寄って意識の有無と首元に手を当て脈があるか、自発的な呼吸があるかを迅速に確かめる。確認している間、童子くんは呼びかけることを止めてじっとしていた。
よかった、微かにだけど意識はまだある。脈も問題ない。呼吸も大丈夫そう。ホッとして手を離すと、待ってましたとばかりに童子くんが聞いてきた。
「生きてるんだよな?」
眉尻は下がり、両目は零れ落ちそうなくらいに涙を溜めて、唇をキュッと噛み締めている。身体を小刻みに震わせているところから、早く大丈夫であることを伝えないと今にも泣き出しそうだ。
普段は絶対に見ることはないであろう姿に、頭の中で場違いな考えが浮かびかけて振り払った。
「まだ微かに意識があります。すぐに診療所に運びましょう」
「助かるのか?」
「はい、早急に治療をすれば助かりますよ」
言い終えた後、私は服のポケットから黒い長方形の紙を取り出すと真っ二つに破いた。破かれた紙は跡形もなく消え失せて、場には静寂が訪れる。
この黒い紙は以前鴉天狗からもらったもので、緊急時に破くとすぐに呼び寄せることができる。要するに鴉は現代でいう救急車なのだ。
数分も経たずに鴉天狗が到着し、わらべくんは診療所に運び込まれた。
治療室に運び込まれたわらべくんは、時折苦しそうに表情を歪め胸部を押さえるようにして呻いていた。胸痛が起こったとしたのなら、消化器や骨などの異常も考えられるが、最も可能性としてあげられるのは心臓か肺の病気だ。
わらべくんが押さえているのは、私達の目線から見て胸部中央からやや右側の位置。ここはちょうど心臓の位置でもある。原因は心臓か?
「ダメよ、童子くん。ここは東雲ちゃんと先生に任せて」
「嫌だ、離せよっ」
振り返れば室内に侵入してこようとしている童子くんと、阻止しようと抱き上げている恵さんの姿があった。
童子くんは短い手足を必死にバタつかせて、強引にでも抜け出そうとしている。対して、恵さんはますます手がつけられなくなっているようだ。
「くそっ、力強いな。おい、あんた! わらべの服の中に薬がある。あいつ、狭心症なんだ!」
拘束から抜け出せないと分かって諦めたのか、ドアの隙間から私に向かって叫んできた。どうか弟を助けてくれと縋る蒼い瞳が、完全にドアが閉まるまでこちらを覗いていた。
「薬ってこれみたいだね」
八坂が着物の内側から、薬の入ったケースを取り出していた。中を覗くと銀色の包みが見える。狭心症の治療薬、ニトログリセリンだ。
空きガラがあるところから、既に服用済みであることが分かる。
「ニトロですね、まあ……ありがちな薬といいますか」
「狭心症患者によく出される薬だからねえ。これは心カテした方がいいかな」
心臓カテーテル検査の略語ーー心カテというフレーズを聞いた私は近くの病院に連絡を取るため、部屋に備え付けられた電話の受話器を手にした。
「八坂先生、いつも通り横町総合病院でいいですか?」
私の言葉に八坂が大きく頷いた時、
「はい。こちら横町総合病院、総合受付でございます」
受話器の向こうから受付担当の女性と思われる柔らかい声が聞こえてきたため、検査医に取り次いでもらうことにした。




