(三)
「事情というか、状況はよく分かった」
八坂から説明を受けた後、ベッドの上で胡座をかいていた童子くんは輸液チューブが繋がられている腕を見てから、仰向けに倒れ込んだ。
約半月程彼は眠ったままだったため、髪は肩に掛かるまで伸び、癖っ毛であることも影響しているのか様々な方向へ跳ねている。身体だけは毎日拭いていたからベタつきはそこまで気にならないはず。
「なあ」
天井をじっと見つめていた童子くんが、不意に声を掛けてきた。私は測った熱や血圧などのバイタルサインを記録用紙に記入している手を止める。
「はい、どうしましたか?」
顔を覗き込むと、微かに頬を染めた彼は私から視線だけを逸らす。頬は膨らんではいるものの、機嫌が悪そうな感じはない。
「俺が薬飲むの勝手に止めたこと、あんたも怒ってる?」
気まずそうに投げかけられた質問に目を瞬かせる。彼は彼なりに、八坂からの説明はしっかり聞いていたらしい。
薬を止めたことを私も八坂も、もちろん恵さんもこぞって責めなかった。まずは彼の意識が戻ったことを喜ぶべきだったし、何より理由も聞かずに説教を垂れるのはいかがなものかと考えたからだ。
「……やっぱり怒ってるよな」
返答がないことを肯定の意味として受け取ったのか声が沈んでいる。綺麗な蒼い瞳は伏せられ、怒られるのを待っているかのように見えた。
彼は自分のした行動がよくないってことをちゃんと分かっているんだな。
「怒らないのか?」
いくら待てどなかなか怒られないことに気付き、不満げに口を尖らせてこちらに視線を向けてきた。明らかに反省している姿を間近で見ておきながら、今更どうして怒れようか。
私がゆっくりかぶりを振れば、彼は驚いたように身を起こした。
「な、なんでだよっ。薬飲むのを勝手に止めることって、一番悪いことじゃないのかよ!」
「はい、もちろん悪いことです。でも一番かと言われれば、私は違うと思います」
「え?」
悪いことだと言われて、だけど一番ではないという私の言葉に、童子くんは意味が分からないといった顔をする。私はベッドの近くにあるパイプ椅子に腰掛けると、真っ直ぐに童子くんを見つめた。
「薬を飲むのを勝手に止めることは悪いことですよ。だけど私はそれよりももっと悪いことがあると知っているから、一番ではないと言ったんです」
「なんだ、そうなのか。じゃあ、あんたが最も悪いと思うことってなんなのさ」
早く教えろと言わんばかりに上目遣いで見つめ返してくる。療養中であることに可愛さも相重なって抱き締めたくなる衝動を抑えつつ、私は自分が一番悪いと思っていることを口にした。
「それは、病を推して無理をし続けることです」
「この現代社会、働かなければならないから病気くらいで休んでられるかって思う人はたくさんいます。だから身体が悲鳴を上げているのにも関わらず、無理をしてでも働き続ける。上げている悲鳴を、押し殺してしまうんです。そうしていくうちに、やがて取り返しのつかないところまで壊れてしまう」
脳裏に小豆さんや、身体ではないにしろ心を壊しかけたせつなさんの顔が浮かんだ。人だけではなく妖怪にも、耐えられる限界というものがある。
「限界を大きく超えても休もうとしないこと、まだ大丈夫だと自己暗示をかけて、病院にかかろうとしないこと。それらが私が一番悪いと思っていることです」
そもそも、身体が悲鳴を上げている時点でとっくに耐えられる限界は越しているだろう。早めに治療さえすれば、また元気に動けるようになるのだ。
まだいけると負荷をかけ続けるのは、私達が治療できて助けられる範囲を狭めてしまう。
「以上のことを踏まえるなら休息はちゃんと取ってもらいたいのと、できれば早期に受療してほしいってことですね」
「なるほどな。前から思ってたけど、あんたって相当変わってるよ。俺たち妖怪に対しても、怖がらずに真正面から接してくれる」
童子くんは胡座をかいて、長く伸びた髪を指で弄びながら続けた。
「他にも超がつく程優しいし、かと思えば厳しかったりする。誰かの気持ちに寄り添って自分のことの様に共感してくれるからな。この時代じゃ、あんたみたいな性格は絶滅危惧種さ」
まあ、そういう所があるからあんたを気に入っている奴らも結構いるんだけどなと、髪をくるくると指に巻きつけては離すを繰り返している。
「そうですかね? 私は妖怪だろうが人間だろうが、種族関係なく接するのは普通だと思いますけど」
「マジで自覚なしか」
予想外といった風に額に手を当て深く溜息をついた童子くんを見て、疑問に思う。彼の言動から察するに私の性格というのは危惧種らしいが、自分からしてみれば大して珍しくない。
「童子くん?」
「あー、うん。あんたはもうそのままでいいよ。ていうか、そっちの方が俺たちは助かる。さっきの言葉を気にして、いきなり変わられても困るし」
「わ、分かりました」
何がなんだがよく分からないが、ここは黙って頷いておくのがいいだろう。下手に機嫌を損ねて、今後の療養に響いたら堪ったもんじゃない。神経を尖らせている私とは正反対に、退屈そうに欠伸をした彼はぽつりと呟いた。
「風呂って入れんの?」
◇
僅かに開いた窓から湯気が出ているのを見ながら、私は竃に薪を入れて燃やした。パチパチと音を立てて火力を増す炎を確認して、中にいるであろう人物に声をかけた。
「童子くん、お湯加減どうですかー?」
「ちょうどいい」
間を空けずに聞こえた返事にひとまず薪入れは中断して、浴室へ向かう。たった数分の間、竃の側にいただけなのに額には汗が浮かんだ。
本人の希望で入浴したいと八坂に伝えたところ、あっさり許可が出たので、離れの浴室を使わせてもらうことになった。
今時竃でお湯を炊くなんて、滅多にない経験だな。
「失礼します。童子くん、一人で大丈夫ーー」
「うわああああ!」
浴室のドアを開けると同時に絶叫が響き渡った。彼は、これ以上は爆発するんじゃないかというくらいに顔を赤くして湯船にダイブする。
あまりの素早さに、本当に心臓を患っているのかと疑いたくなるくらいには。
「な、な、何しにきたんだよっ」
探るような瞳でこちらを見つめている童子くんは、ダイブで跳ねたお湯で濡れた長い髪のせいか、男の子というより今は女の子のように見える。
「いえ。ずっと寝たきりで身体が鈍っているでしょうし、怠さも抜けないでしょう。童子くんさえよければ身体を洗ってあげようかと思いまして」
「か、身体洗うって!?」
彼はますます顔を赤くさせた。その反応に私は首を傾げる。看護師が患者の入浴を手伝うのは入浴後の処置があるし当たり前のことで、だから何故彼がそこまで過剰に反応するのかが分からなかった。
「手伝いは」
「いい!」
「でも、何かあったら……」
「だからいいって!! これくらい一人でできる!」
「そ、そうですか。じゃあ、ドアの向こうにいますから、何かあったら声をかけてくださいね」
凄い剣幕に大人しく引き下がり、ドアを閉めたところでふと気付いた。あんなに怒るということは、私が童子くんのことを子供扱いしたからか。
そりゃあ、怒るよね。見た目は子供でも中身は大人の男なんだから。
「なあ、まだそこにいるのか?」
ドアに背を預けた姿勢で立っていた私は、呼びかけられた声に反応した。
「いますよ」
「あのさ、俺が眠っている間に弟が来たって言ってただろ」
「はい」
「意外だな。あいつ、動けたのか」
弟が来てくれたということへの嬉しさや感謝の言葉はなく、代わりに耳が捉えたのは驚きを交えた言葉だった。わらべくんはどこか身体でも悪くしていたのだろうかと、その反応から勝手に推測する。
静かな時間の中、彼が身動ぎするたびに水音が聞こえた。
「俺を問い質さないんだな」
「え、何をですか?」
「分かってるくせに。どんな理由で薬を止めて偽装なんてしたのか、どうして弟がいることを話さなかったのかとかさ。あんただって俺に聞きたいこと、たくさんあるだろ」
「それこそ、俺が目を覚ました時にでも根掘り葉掘り聞けばよかったんじゃないの。なのにあんたも優男達も、そうしなかった。俺はすごく怒られることを覚悟してたっていうのに……なんか拍子抜けって感じだしさ」
私は瞳を伏せた。彼の言いたいことは的を得ている。私だけじゃなくて、八坂も恵さんも今すぐにでも根掘り葉掘り聞きたいことが多くあるのだ。
でも、しなかった。今この瞬間、彼がこうして自ら話し出すまで。
彼の言う通り、起きた時に根掘り葉掘り聞くべきだったのだろうか。それが本当に正しい選択なのか。
誰もが分からなかったのだ。問い質していいものなのか、理由を話し出すのを待つべきなのか。分からなかったから、私達は後者を選んだ。
結果、この選択は彼の覚悟を水の泡にさせてしまっただけのようだった。
「俺が薬飲むのを止めたのは、貰った薬をある夫婦に渡していたからなんだ」
「夫婦にですか」
「うん。まだ子供のいない若い夫婦でさ、暇つぶしに散歩して見つけた家に住んでた。多分、引っ越してきたんだろ。この町の家屋っていうのは趣あるから、あの夫婦も気に入ってた」
昔話を彷彿とさせるような語り口だ。口調から察するところによると、もうその夫婦はこの町にはいないのだろう。
「最初はなんだ新しい人間か、くらいにしか思っていなかった。でもだんだん妙に気になってきてさ、しばらく様子を見ようと厄介になってたんだ」
「やがて夫婦の間に子供が二人生まれた。男の子の双子で、小さくて可愛くて正に子宝って感じ。とても幸せそうだったよ。年老いちゃいるけど、俺も現役だなって思ったけどな。だけどある日、旦那が心臓を患っていたことが分かった」
ここまで話した童子くんは、ふぅ……と息をついた。私はこの話の続きがどうなったのか分かってしまった。自分と同じ心臓を患っていた人を見て、どういった行動に出たのか。
「それで童子くんは、自分の薬を旦那さんに渡したんですね」
「そ。意図的に人間には俺の姿が見えないようにしていたから、夜中にこっそり机の上に置いてな」
毎朝薬が置いてあることに驚く夫婦の顔がこれまた面白かったんだよ、と当時を思い出したらしく笑っているようだった。
瞼を閉じその時の場面を思い浮かべた。きっとすごく驚いたに違いない。微笑ましく思っていると、聞こえていた笑い声が止んだ。
「だけどいくら幸福を呼ぶ座敷童子でも、病気には敵わなかった。俺は自分の無力さを心底恨んだし、憎んだりしたよ。しばらくして家族は引っ越していった。悲しみを負った後ろ姿は今でも忘れられない」
薬をあげたツケか、その後すぐ俺もぶっ倒れちまったわけだけど。彼は自嘲を含んだ声色で言った。
ひどく悲しみを抑えたような響きを残す声色が、心を揺さぶる。痛い程、彼の気持ちが言葉の端々から感じ取れた。
「泣いてるのか?」
「泣いてませんよ」
「あんた、嘘が下手くそだな。思いっきり声が泣いてる」
「なっ……!」
「でも俺はそんなあんたのこと嫌いじゃないし、むしろそうやって泣いてくれることで、心が落ち着いて楽になる」
反論しようとした私の言葉を遮るように、彼は続けた。“嫌いじゃない”というフレーズは、不思議と私の中に染み込んだ。てっきり嫌われているものと思っていただけに、嬉しさから口元に笑みが浮かぶ。
「今の話、八坂先生に伝えても?」
「いいよ。ていうか、俺としてはそっちの方が助かるわ。同じ話をするのは面倒だし」
ドアの向こうから、浴室のガラス戸を開ける音が聞こえてきた。




