(五)
彼女が抱えている負の感情の中を身体ごとひたすら落ちていく。見渡す限りに広がるのは暗闇ばかり。果たして私は今もまだ落下し続けているのだろうか。
辺りは暗く方向感覚が失われそうで不安になり、自分の肩を抱いた。身体が下へ引っ張られる感覚があるため、変わらず落下し続けているのだと推測する。
出口が見えない負の感情の深淵。空間を形作っているのは主に怒りや悲しみといったものばかりのようだ。このままいったら、どこに行き着くのだろう。
「やめなさいっ……!」
聞き覚えのある声と甲高い何かが割れる音が耳に入ってきて、私の意識は急激に浮上した。重い瞼を開けると猫の顔がどアップで映り、靄がかかった感じだった頭の中が一気にクリアになる。
「目が覚めたようだね。紫苑、わたしが分かるかい!?」
「タマ……さん」
名前を呼ぶとタマさんは輪をかけてしゃがれ声になり、よかったと言いながら何度も私の顔に身体を擦り付けてきた。温かく柔らかい毛並みがくすぐったい。気付けば室内を満たしていた冷気は消えている。
全てが夢幻だったのかと思ったが床に横たわる身体はひどく冷たい。内側から確実に凍えていて現実であることを教えてくれた。試しに指先を動かしてみようと力を入れるも、冷たさのあまり硬直していて動かない。
あのまま覚醒しなかったら、今頃凍死していただろうと思うと恐怖が支配する。身体を起こすのは無理なので、状況把握のために視線を周囲に巡らせた。冷気が消えてから部屋の温度は元に戻りつつあるようだ。
巡らせた視界の端に白い髪が映る。雪葉さんのように透けた感じはなく実体感がある。流れるような雪にも劣らない白を持っている者なんて、一人しか思い浮かばないーーせつなさんだ。
私を背に庇うように立っている彼女はこちらを見ない。焦りが募っていく。できることなら、あんな状態の雪葉さんとは会わせたくない。悪霊になりかけた母親を見て、正体に気付かず消してしまう可能性がある。
「んぅ!」
凍えて動かなくなった身体を無理に起こした。感覚が麻痺していて全身に力が入っているのか分からない。二人の元へ行かなくてはという気持ちが、残っている力を発揮させてくれた。
「痛っ」
一歩踏み出そうとして床に倒れ込む。さすがに立ち上がって歩くまでの力は残っていないようだ。何とかもう一度身体を起こして、ハイハイしながら二人の雪女の所へ向かう。
「あんた、何をやっているんだい! 今あの二人に近づくのは命をドブに捨てるようなもんだよ、やめとくんだ!」
タマさんが近づこうとしている私を諌めた。制止の声すら振り切って、息を切らしながら手足を動かす。思うように身体も手足も動かず何度も床に倒れ込みながら、どうにか二人の間に割り込むことができた。
「はぁはぁ、待って……せつなさんっ」
「し、紫苑さんっ!?」
せつなさんの着物の裾を強く握り締めて立ち上がる。感覚は全然戻っていない上、バランスが取りにくくふらついてしまう。
「何をしているんですか、早く私達から離れてください!」
吊り上がった眉、目尻の形、普段は少し高めの声のトーンがやや低めなのも。怒った彼女は母親によく似ていた。しかし母親が怒った時は背筋を冷汗が伝いトラウマになりそうなくらいだったが、彼女からは怖さを感じない。
以上の違和感から出る答えは、彼女が本気で怒っていないということだろう。負の感情に呑まれると誰の姿も目に入らなくなるはずだ。なのに彼女は私の姿を捉えて声をかけてきた。
まだ話を聞いてもらえるチャンスがある。切らした息を無理に整えて、せつなさんを仇かと思うくらいに睨みつける。彼女は目を瞬かせた。
「貴女はそれで、いいんですか!」
いつまでも発狂者相手に背を向けるわけにもいかず、私は後ろを向いて彼女に語りかける。
「いいも何も悪霊になりかけているんですよ。完全に堕ちる前に消さなくてはならない存在です。なのに止めるなんて」
「本当に分からないんですね。半悪霊がどうしてここにいるのか」
そして目の前の半悪霊が誰なのか、彼女は気付いていない。消そうとしている存在は彼女が一番会いたくても会えなかった者であることを。だから間に割って入ったのだ。止めなければ、両者に一生消えない傷がついてしまうのが目に見えていた。
「知っているんですか、教えてください」
背中越しに彼女は問いかけてきた。あれは誰なのかと。私は苦虫を潰したような表情を浮かべて、重たい口を開く。こんな表情、彼女に見せるわけにはいかない。
生きてきた二十数年という人生の中で、今最も酷なことをしようとしている。雪葉さんのことを思えば、娘にこんな姿になったと知られたくないはずだ。
せつなさんにしても、消そうとしている存在が母親だなんて知りたくないかもしれない。それでも、いやこういう状況だからこそ伝えるべきだと考えた。
「半悪霊はーー雪葉さんなんです」
「っ……」
声が震える。彼女が息を呑んだのが分かった。頭の中に伝えないという選択肢ははなからなかった。もちろん相応のリスクはある。伝えたことで逆上されて凍らされても文句は言えない。
「嘘……。これが、お母さん?」
聞こえてきた泣き出しそうな声から、彼女の確かな動揺が伝わってくる。私は目を開けて真っ直ぐ前を見つめた。
冷気は消えても重苦しい空気だけは変わらない。黒いオーラを全身に纏い、頬は蒼白く綺麗な水色の着物と白い髪は赤黒く染まっている。雪女の面影はどこにもない。
娘の彼女が母親だと分からないのも納得がいく。私もおそらく言われなければ分からなかった。半悪霊となった雪葉さんの容姿はそれほどまでにかけ離れていた。
「う"ぅ"ぅ"ぅ"」
呻き声を上げながら雪葉さんは緩慢な足取りで近づいてくる。足を踏み出す毎に床の一部が凍りついていく。負のオーラの影響なのか頭痛や吐き気までも催し始めた。
私達の手には負えないため逃げるしかないが、タマさんはともかく背後にいるせつなさんは茫然自失で自力で走ってくれるか怪しい。
「とにかく一旦逃げましょう!」
迷っていたら待ち受ける結末は一つ。身体を襲う異変に負けないよう、自分自身への鼓舞も兼ねて声を張り上げる。せつなさんの手を取って走り出そうとして振り払われ彼女を見た。
「私、逃げたくないです」
せつなさんは小さくそう呟いて私を見つめ返す。赤い瞳に先まであった動揺は跡形もない。彼女の肩口から背後が見え、雪葉さんがもうすぐそこまで近づいてきているのが分かった。
一瞬でも彼女は私から目を逸らさない。恐怖や絶望よりも、確固たる意思が彼女を奮い立たせているのだと感じた。
「分かりました」
「てっきり引き留められるかと思いました。後は任せてお二人は外にーー」
「いいえ、私も残ります」
「な、何を言っているんですか!」
「せつなさん達だけにして出ていくなんてできないですよ。もし貴女まで半狂乱になってしまったら、誰が止めるんですか?」
「あっ」
優しく微笑みながら指摘すれば、彼女は盲点だったというように口を半開きにする。事態の終息させることに躍起になるのはいいが、己の保身も考えてもらいたい。
雪葉さんの相手はせつなさんに任せて、私とタマさんは彼女から数歩離れた後方でいざの時のため待機する。
「とんだ命知らずだよ。わたしはあんたのそういうところ嫌いじゃないがね、後で八坂からネチネチ言われる様子がまざまざと浮かぶよ」
「大丈夫ですよ、無事に終わったら一緒に怒られればいいんですから」
「本当、この子は困った人間の娘だよ」
タマさんは隣で呆れたように溜息をついて命が何個あっても足りやしないよと嫌味を吐いたが、恨みがましいというよりむしろ楽しそうな雰囲気を醸し出しているのでちっとも嫌味らしくない。
「何とでも言ってください。例え超がつくほど頑固でもお調子者でも素行や性格に問題があるなしに関わらず、患者には常に笑顔で真摯に向き合うとなりたての頃に決めたんです」
“何で注意された後、すぐに患者の前で笑顔になれるの? その神経が分からないんだけど”
母親と対話を試みようとしているせつなさんの様子を見ながら、不意に昔言われた言葉を思い出し瞳を伏せた。私は患者に対して常に笑顔でいることを間違っているとは思わない。
きっと当時の先輩にも悪意はなかっただろう。ただその神経が相手は理解できなかっただけで。それでも私はどんなにつらくても悲しくても、必死に病気と闘っている患者の前では暗い顔などしたくなかった。
辞めてしまってから何年も経つ。もう当時の先輩にも会うことはないが、辞めずに一緒にいても価値観や倫理観の違いから真に分かり合えなかっただろう。
「お母さん、私の声が分かる?」
娘の懸命な呼びかけに反応したのか雪葉さんは歩みを止めた。半分は悪霊へ堕ちてしまっているが、自身の分身ともいえる娘の声に耳を傾けたのだ。
「完全には堕ちていないようだね。僅かながら自我が生きている。呼びかけ続ければ、どうにかなるかもしれないね」
雪葉さんの反応を見たタマさんは目を細めた。動物特有の勘なのか、はたまた妖怪であるが故に考え出して呟かれた言葉なのか。
「雪葉さん、負の感情に負けないで目を覚まして! ちゃんと目の前の方を見てください!」
おそらく彼女の自我に訴えかけられるのは今しかない。好機を逃さんばかりに、喉が痛んでも構わず声を大にして叫んだ。
「渡すつもりだった手紙を読まれて自殺に追い込んでしまったかもしれないからって、塞ぎ込まないでくださいよ。それで全部貴女の伝えたいことは伝えられたと思っているなら大間違いです!」
大声を出しすぎて次第に語尾が掠れてくる。枯れたっていい。声が彼女に届くなら、この際言ってやろう。命がけで渾身の想いをぶつけてやろうじゃないか。
「伝えたい想いの半分しか伝わっていないはずです。なのに殻に閉じこもり、せつなさんから逃げるんですか? 誇り高き雪女である貴女らしくないです! 伝えられなかった後悔を嘆いていたのは誰ですか。他ならぬ雪葉さんじゃないですか。貴女は伝えるために降りてきたんでしょう? 自分の想いから、全てから目を背けるなんてやめてください。何のために声が、言葉があるんですか!!」
後半一気に捲したてるようにして最後まで言い切った私は、盛大に咳き込んだ。酸素を取り込む度に、口の中に血の味が広がったような気がした。
放心状態だったせつなさんが駆け寄って背中をさすってくれる。定期的に優しくさすってくれる手の動きは高揚した気分を徐々に落ち着かせてくれた。
限界まで絞り出した想いは彼女に伝わったのだろうか。閉じてしまった心に、少しは響かせることができたのだろうか。考え始めると彼女の反応を窺うのが怖くなってくる。
「情けない話ですが、紫苑さんの言葉は心に響きました。言葉だって、立派な想いを伝える手段ですものね。とてもかっこよかったです」
介抱してくれていた手が背中から離れ、感じていた感触がなくなる。着物の擦れる音が聞こえて顔を上げれば、彼女は密着できそうな距離まで母親に近づいていた。
注意を促そうとするも掠れ切った声では、真面な声量は出せない。呻いている間にも彼女は歩みを止めず、大胆なことに母親を抱き締めたのだ。黒のオーラが二人を包もうとする。
早く離れなければ飲み込まれてしまう。状況悪化だなんて望みたくもない結果だ。だが彼女は意地でも離れなかった。さらにキツく抱きついているのが分かる。
「私は貴女の言葉から勇気をもらいました。伝えると決めたのにあと一歩で躊躇っていた背中を押してくれたんです。だから、今度は私が想いをぶつける番なんです!」
身を挺してまで声を張り上げる彼女の勇気と誠意は、止めようと出かかっていた私の言葉を押し留めた。
「面白い。見届けてやろうじゃないか」
一連のやりとりを黙って見ていたタマさんの一言に、異議を唱えようと口を開く。しかしそれは叶わなかった。
「ついさっきせつなに任せるって決めただろう。まさか、今更になって止めようとか考えているんじゃないだろうね」
「うっ……そ、それは。決めたことですし」
「だったらわたしらにできるのは見守ることだけ。なに大丈夫さ、雪女は見た目よりも案外肝が据わっている奴らだからね。霊体ならいざ知らず、簡単には取り込まれたりしないよ」
身近な親しみのある妖怪に言われてしまっては、ぐうの音も出ないのが本心だ。心に深く響かせられるのは赤の他人の言葉ではなく、何物にも変え難い愛しい我が子の言葉である。
「……ここで見守っていますから。頑張ってください」
何もできない歯痒さをひた隠しながら、激励の言葉と今作れる精一杯の笑顔を彼女に贈った。
悪霊騒動からどれだけの時間が経ったのだろう。八坂はもうとっくの昔に、私達がいないことには気付いているだろう。部屋に飾られた時計を見ながら、場違いなことを考える。
診療所が開く時間は過ぎている。彼一人で切り盛りできているだろうか。想いをぶつけることを決心したせつなさんの後ろ姿を見つめたまま、両手を胸の前で握り込む。
「ごめんなさい。私、本当に馬鹿なことをしたよね。情けない話だけど、お母さんが亡くなってから何も手につかなくなっちゃったの。大好きだった画家の仕事も、冷所巡りも……。しなくちゃって分かっているのに身体は動かなくて、気付いたら絵の腕が落ちていたの」
拳を握り込んだ彼女はどんな表情をしているのかは分からない。胸中には色んな感情が渦巻いているだろう。すぐ側にいることができたら、あの小さく震える背中に手を添えてあげられたかもしれない。
「何度も、何度もっ。頭の中に浮かぶイメージを思い起こして描いてみたけど、ダメだった……! 抱えていた仕事もキャンセルされて目の前が真っ暗になった時、偶然お母さんの手紙を見つけたの」
鼻を啜る音が耳に届いた。ギリギリまで張り詰めた感情の琴線が切れそうなのを堪えながら、せつなさんは言葉を紡ぐ。
「手紙を読んでたら無性に会いたくなっちゃって、それでっ……。よく考えたら、お母さんがそんなことを望んでいないって分かったはずなのに! 謝っても許してもらえないと思うけど。ごめんねっ……本当にごめんねっ」
一つ一つ紡がれる彼女の湿った声色は、耳から入り私の胸を痛ませて全身に浸透していく。心臓が張り裂けそうなくらいに考えてしまう彼女の苦悩。
見渡せば、周りにいくらでも相談に乗って助けてくれる人はいたはずなのに。敢えて差し出された手を取らなかったのは、頼るのを甘えだと思っていたからなのだろう。
「今までずっと、抱いていた未練が私やお母さん自身を縛っていたと思ってた。でも紫苑さんの言葉でようやく分かったの。私自身の想いが私だけではなくて、お母さんも縛り続けていたんだって」
だから……と彼女は背後にいる私達を顔だけ振り返って口元に弧を描いた。窮地に立たされているとは思えないような綺麗な笑みを浮かべたのだ。ああ、彼女はこれから自分自身と母親を縛っていた鎖を解こうとしている。
「もう心配しないで。私、ちゃんと前を向いて歩いていくよ」
娘の言葉で雪葉さんの様子に変化が起こった。辺りに立ち込めていた負のオーラが消えていく。これには私もタマさんも驚きを隠せない。
純真な魂の半分とはいえ悪霊に傾いたのだ。縛っていた鎖を解いたところで、完全に元に戻るわけがない。我が子を愛するが故、愛情はいつしか憎しみへと変貌し容姿までも変わってしまった彼女を助けるには、並大抵な言葉では無理だと思っていたからだ。
「やっぱり、我が子の言葉ほど一番効く薬はないね」
「みたいですね……」
元の美しい姿に戻っていく雪葉さんを見ながらタマさんは感心したように呟き、私は猫の意見に激しく同意せざるを得なかった。子の持つ力とは本当に凄い。こうもまざまざと見せつけられてしまっては感心する他ない。
三人が見届ける中、雪葉さんは赤い瞳と白い髪に綺麗な水色の着物、綺麗な整った顔立ちへ変わる。
霊体であるにも関わらず溢れ出る気品と美しさ。その姿は正しく私達が見慣れた雪葉さんだ。
「儂はいつでもお前の幸せを願ってきた」
憎悪に満ちていたとは想像もつかないくらいに、穏やかな顔で雪葉さんは胸の内を語った。
「ずっと、せつなの幸せだけを祈ってのう。子を思わぬ親などいないのじゃ。だから儂が亡くなった後もお前の支えになりたくて、あの手紙を残した」
この場にいる者全員の視線が、テーブルの上に開かれて置かれたままの手紙へ向けられる。母から子への最初で最後の手紙。
「死んだ後に渡し損ねたことに気付いて看護師さんに頼んだのじゃ。手紙を渡してほしいと」
「そうだったんだ……私知らずに読んじゃったんだね」
まさか読まれてしまうとは思わなかったがのう、と困ったように笑みを零した。フッと瞼を伏せたことにより彼女の顔に影がかかる。
「じゃが手紙の件は百歩譲って許すとしても、自殺未遂については別じゃ。儂はそんなくだらないことを簡単にするような娘に育てたつもりは、断じてない」
命を絶とうとした行為をはっきり“くだらないこと”と言い切った彼女に、せつなさんだけではなく私達すら言葉が出ない。寂しさや苦しさ故の一時の気の迷いかどうかは分からないが、決して褒められるようなことではないからだ。
「儂の娘なら、これしきのことで屈するな!」
よく通る声量で啖呵を切った姿は、実にかっこよかった。異性でなくても惚れてしまうくらいに。
雪葉さんの厳しさを感じさせる瞳は第三者ではなく、自分の血を容姿を分けたただ一人の娘へ向けられている。してしまったことは取り戻せない。けれど、彼女は信じているのだ。娘が抱えている逆境を乗り越えることを。
「私、頑張って乗り越えてみせるよ。画家の仕事もまた成功させてみせるから!」
「うむ、その言葉が聞ければ充分じゃ」
親子のわだかまりが解けた瞬間、雪葉さんの身体は淡い光に包まれた。見ているだけなのに心の奥底まで浸透する優しくて温かい光。もしや、これは。
「逝くんだね、雪葉」
タマさんは旧知の友人である雪女を見て、少し悲しそうに耳を垂らした。猫の言う通り彼女は還るのだろう。繋ぎとめられていた未練は、幸か不幸か半悪霊という予想だにしない展開によって晴らすことが出来た。
よって、霊体の彼女がこれ以上この世にいる理由もなくなったわけで、魂が在るべき場所に還るのはこの世の理であり普通のこと。それでも、やはり別れというのは悲しいものでしかない。
「逝っちゃうんですね」
「お母さん……」
「なんじゃなんじゃ、らしくないのう。儂はすでに死者なのじゃぞ。一度別れを体験しておる。なのに惜しむなんて今更ではないのかえ?」
沈んだ表情をしている私達を見て、ころころと可笑しそうに彼女は笑った。
「なに、心配はいらぬ。姿は見えずとも、儂はいつでも側におるからのう。ただ見えるのが見えなくなるだけじゃ」
半透明から景色に同化してしまうくらいに透明になった彼女の頬に触れようと手を伸ばしてみたが、あっさりとすり抜けてしまう。
「ふふっ、看護師さんまで泣きそうな表情になるとはのう」
「悪いですかっ」
涙腺が緩まないように表情を引き締めて反論する。私の反論に彼女はおや? と目を丸くしたかと思えば途端に破顔した。
「本当に、看護師さんには世話になったのう」
何もしていないのにお礼だなんてとんでもないと口にしようとして、代わりに笑顔を浮かべる。目を細めれば目尻から涙が溢れ落ちたが気にしない。
「時間じゃの。せつな、儂はお前という娘がいてくれて本当に幸せだった」
「私もっ……お母さんの娘で良かったっ!」
「最高の贈り物じゃ。ありがとう」
ついに彼女の姿は光の粒となり、天へと昇っていく。最後に見た彼女の表情は慈愛と幸福に満ち溢れていたのだった。
☤*
結果としてグリーフケアは、波乱の後なんとか無事に終えることができた。心身ともに莫大な疲労を伴って診療所に戻ると、私達を待っていたのは八坂からの説教だった。
「はぁー……やっと解放されましたね」
ようやく解放されたのは翌朝で、私とタマさんは説教が終わると同時に意識を手放したのだ。ちゃっかりせつなさんは姿をくらましていた。
あっという間に時間は流れて十月末、診療所の離れの縁側に座り番茶を啜りながら至福の時間を過ごす。
「あの後はお疲れ様でした、紫苑さん」
私は隣で優雅に大福を食べているせつなさんを見た。彼女は私の恨めがましい視線などどこ吹く風の如く気にする素振りは見せない。
ちなみに彼女は画家としてまた再スタートし、今は順調に軌道に乗っているようだ。
「せつなさん、いなかったじゃないですかぁ」
「あ、あら? 私、いませんでしたか?」
「いませんでしたよ!」
ジト目で恨み節を吐けば、彼女は気まずそうに目を逸らし舌を出した。そのやり取りをタマさんは丸くなったまま耳を動かして聞いている。
「看護師さん、その辺にしてやってくれんかのう。せつなに悪気はなかったんじゃ」
「ま、まあ雪葉さんが言うなら……って、ん?」
“雪葉さん”? 一瞬で頭の中がフリーズする。真横から聞こえてきた声には覚えがあった。まさかと思いつつ、横を見ればーー。
「なんでここにいるんですか!?」
「さあ、なぜかのう?」
疑問が見事に跳ね返ってきた。そこにはあの時還ったはずの雪葉さんの姿が。本人は確かに還ったのだと主張しているが、ここにいるということは何かがあったのだ。
「心当たりはないんですか?」
「そうは言われてものう。ないものはなんとも……あっ」
どうやら思い当たる節があるらしい。問い詰めてやっと返ってきた言葉に驚愕した私は、真昼にも関わらず絶叫する羽目になった。
雪葉さんの第二の未練、それはーー“娘と離れたくない、もっと一緒にいたい”だそうだ。
「これからも親子共々、よろしくのう」
「はい、分かりました……」
あれだけの事態に巻き込まれて、命がけで未練を晴らしたというのに。一体未練のスパイラルには、いつ終わりが来るのだろう? 痛み始めるこめかみを押さえつつ溜息をつく。
これから賑やかになりそうだなと秋晴れの空を見上げながら思った。
「そういえば、手紙の内容ってどんなのですか?」
色々思い起こしているうちに、問題の手紙の中身を知らないことに気が付いた。結局、騒乱で読める機会はなかったため気になって仕方ない。
「うーん、それはですね……内緒です」
「内緒じゃ」
教えてくれないことを抗議している私を見ながら、雪女の母娘は揃って笑い合ったのだった。




