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目が覚めたベルはここでも疲労を感じていた。依然裸のままである。地下室に似ているがあの赤く光る大剣も無く、やや狭いため別の部屋であることが一見してわかった。
体を拭かれ毛布をかけられていたとはいえ硬い床面に寝かされていたのでは疲れもとれたものではない。
その上拘束もされたままである。結び方が違うため、一度解かれたのだろうがあくまでうっ血しない程度に結び直したといったところだった。
手足の痺れはとれたが体は凝り固まって歪をためている。
問題はそれだけではなかった。ベルにとって非常にやっかいな空腹だった。
元の世界では近隣住民に蔑まれようとも経口摂取による栄養補給ですぐに元気になれた。
今だって疲れも昨日の狂気に満ちた体験さえも食事さえあればなんとかなるはずだった。
しかしそうも言ってはいられない。今は敵地のど真ん中であり、気を抜くことはできない。流石の万年温室育ちのベルにも昨日の一件から現実の辛さが身にしみてわかってきたところである。
落ち着いて考える事ができるようになったベルは現状を把握するため思案する。
結局キヨの正体はあの大剣であると断定することにした。
初めはあの教団を支持する人間を疑っていたベルだが、ハイケやその男たちの反応を見るに偶像化、あるいはテレパシーなどによる伝達手段をもってあれを操る観念のような存在になったと考えるのが妥当だろう。
よって当面はあの地下室にあった大剣をどうにかするということで指針は定まった。
ぼんやり考えて二度寝でもしようかと意識に霧がかかったその瞬間、扉を蹴破るような勢いでハイケが入ってきた。
「何をしてるんだい、早く起きて生贄としてその身を捧げるんだよ」
ハイケの後ろから男二人がベルを運び出す。息の合わない二人の運搬に苛立ちを覚えて何とかするよう言おうとするが、猿轡として布をかまされていることに気づく。
なるほど、もはや口答えもさせないつもりかとベルは一人、納得するがハイケの意図としては自殺防止だったのだが大きな違いはない。
連れて来られたのは昨日地下室一杯につまっていたあの一団が池の周りに集まっていた。
池といっても縦穴に水が溜まっているだけに見えるが、どこまでも深く底が見えない。
辺りは雪で真っ白になっているため、池も凍っているようなものかと思ったがベルをさらった一団がその近くで火を起こしているらくそのせいか薄く氷の膜が張っている程度に収まっていた。
その池もし飛び込めばこの体では足がつくどころか泳ぐことも到底不可能だろうとベルは判断した。
まさかこんなところへ叩きこまれはしないだろうと高をくくるベルだが事実はどうだろうか。
「早くこっちに持ってきな」
ハイケは湖の近くの大きな炎の前で手招きをする。
「お前の灰をここに撒いてあたしらはキヨ様に祈りを捧げるのさ。向こうではキヨ様によろしく伝えておくれよ」
ついさっきとは打って変わって柔和な笑顔でベルの頭を撫でる。
ベルは本気でキヨを盲信しているが故の表情だと考えるが、実際は嗜虐的な皮肉である。
ハイケの号令によってあたりは異様な雰囲気に包まれあたりはぶつぶつとなにやらつぶやている。どうやらこれが儀式の一端らしい。
暴走が始まったかのように炎もあたりの雰囲気とともにその勢いを増す。
この者たちの雰囲気とこの炎には何らかの関係があるように思えた。というのも燃え盛るその炎の周りには燃焼物もなく、そこに炎があるだけである。
燃焼とは常に新しい燃料と酸素が必要であり、どちらかが欠けても燃焼は起こらない。ベルはまだ知らないが、この世界の理のひとつによるものである。
強い燃焼にベルもその体に熱を感じ背中にじっとりとした汗を感じる。
ベルはこの中に放り込まれるのだと気づくと居ても立ってもいられなくなった。
詠唱に夢中になっている男たちとハイケの注意が、自らに向かっていないことに気づいたベルは拘束された体をバネのようにして水溜に飛び込む。
ハイケが気づいた頃には遅かった。既に数メートルの崖の縁にベルはいた。
もはやこれしかなかった。生き延びる算段や計画があっての行動ではない。
目の前で燃え盛る炎と寒空の下薄氷の膜ができ始めている水面どちらが飛び込むにマシかという二者択一の結果である。
しかし、そこに大きな差はない。
ベルは小さな体で裸のまま極寒の水に叩き込まれるのだ。水の中では体温が奪われやすく、体力の消費も激しい。更に拘束された今のベルでは数分とは保たないだろう。
それでもベルはなんとしても教団の手の内から逃れたかった。たとえ死んでもあいつらの思い通りにはなりたくない。
そうした意思のもとベルは行動を起こしたのだ。結果など後からついてくる。
飛び出したベルの体は長い落下感を味わっていた。地獄の釜に飛び込むがごとき所業にベルの体はとっさに無限とも感じられる時間の分割延長を行う。
振り返ることはできない、ましてや時間が巻き戻り再び地面に足がつくことも無い。ただ、真っ暗な水面がゆっくりと、しかし確実に近づくのを見つめるだけしかできない。
ああ、なぜこのようなことになったのだろう。走馬灯のようにここに至るまでの出来事が脳裏よぎる。
ハイケに捕まったことが何よりも悔しい。あれさえ無ければ少なくとももっとましな今日が迎えられていたはずだったと思う。
キヨに関してもあんなところで教団に囲われていては手も足もでない。これでもし生き残っても決着をつける手段はないかもしれない。キヨはただベルが勝手に潰えるのを待っているだけで良いのだ。不利でしかない状況に辟易する。
身を捻り、右肩から着水する。一瞬の衝撃に鞭を打たれたような打撃に顔を顰めるベル。
しかし気は抜けない。水中では息を吐くと潜水時間は短くなるため、苦しくとも息を止めていなくてはならない。
そう考えたベルは水が入り込み感覚のなくなったその可愛らしい小さな鼻をつまみたくなったが、両手は拘束されたままであるためうまくいかなかった。
この後のことは考えていない。再びあの教団員に引き上げ、捕らえられ儀式のやり直しをさせられるのかもしれない。
それでもと考えていると不意に横からの強い圧力を感じ、体が流されていくのを感じる。淡水であるのは感じられるがそれでも恐怖で目は開けられない。
しばらく流され、次第に息も切れ始め体は酸素を求める。
しかし水圧は収まらないどころか激流となり、勢いを増し続け長い距離を移動している。
我慢できず口から泡が溢れる。少しは延命になっただろうか、火炙りよりは少ない苦痛だったのだろうか。そんなことを考えるベル。
不意に思い出す依頼人の顔。今思い返せばイーはなんと意地悪な人だっただろうか。
ベルもデータの上ではプロとは言え初仕事の新人になんてことを言ってくれたんだろう。
今この世界でベルにとって味方と言える人種はイーしか知らなかった。
僅かな可能性、不甲斐なくここで散ってしまうベルだが心中で祈り、激励する。
祈りが通じたのだろうかそれとも死んだのだろうか。体が軽くなるのを感じる凝り固まっていた肩や腰はほぐれ、心地よささえ感じる。冷えて縮こまっていた体は火照りさえ覚え、活力に満ちあふれる。
どうなっているのか息苦しさもなくなり、体の全ては万全の状態になった。
そう、万全の状態である。ずっと霧のかかっていたベルの思考にもそれは及び、現状を理解させた。
ベルの落ちた湖は天然の溜池というよりは自然に湧いて出た井戸のようなものだった。
つまり地下水が地表にあふれでたもので、それは地下の水の層につながっている。
今ベルが乗っているのは地下水の下流に向かう水の流れであり、このままいけばまた次の湖かあるいは川や海に流れつくことができると考えた。
息も十分に整って酸素も補給されているようだ。流れも早い、もしかしたらこのまま無事に地上に戻れるかもしれない。