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香はベルの話を聞いて「それ私の世界です」と言いたくなった。
あまりに香の生活圏と似すぎたその世界は決着機とやらで生成された世界だとは思えなかった。既に存在する別の世界に無理やり存在をねじ込んでいるような印象を受ける。
ベルは注文通り新しく淹れたコーヒーを飲み干して、うつらうつらしている。
「殺人鬼はベルさんだったわけだ。よくもまあそんな生活をしていて、お肉が口にできたものですね」
ベルの話に感想を述べる香は、肉食どころではない、普段の生活もよく正気を保てていたと思う。
「ああ、私自身もあれほど人格がねじ曲げられていたのに、気づかないとは思わなかった。人格の内女性的な部分だけ抜き出されて、それ以外はすべて書き換え可能なのだろうな」
倫理観、話し方や生活習慣はすべて上書き可能なものなのだろうと。もちろん前に話したコニシのように一切変わらないこともある。
「それは一部分だけ共有した別人なんじゃないの?」
「結果を被るということと、そこでの経験を得られるという点でつながっている。自己同一性の問題にしても、物理的連続性とするか意識の連続性とするかで結論は大きく変わる。決着機の場合、同一性の有無は結論に影響はない」
ベルは決着について体系化し、その周囲の諸問題についても一定の考え方を持っていた。
「こうして議論していても今言っている自分の意見は元の自分の意見とは違う可能性があるわけだけど、それはどうなの」
自分の人格が変わってしまうならば、その人格の行為が自分に決着の結論として返ってくるのはおかしいのではないかと香は言う。
「最善の結論は常にひとつだ。最善の結論が出れば議論の過程は関係ない。Aを主張するXとBを主張するYがいたとして、それぞれの主張を逆にしても結論が同じだった場合互いに得も損もしていないということだ」
完全な中立仲介者を作ることに成功したベルたちにだけ与えられた極論。過程はブラックボックスに放り込んでおけという暴論。
「でもそれは極端な場合だよね。例えば元の私よりこっちの世界の私が劣っている場合、意見が似てても結論が不利になることがあるよね」
「それは議論に限った話だからだ。決着機が選ぶ争点は必ず公平だ。劣った上で公平なのかもしれないし、まったく別の事が争点になることもある」
ベル自身も苦手な言い合いをさせられたことがあった。しかしその時は自分の言いたい主張が滔々と口から出るものだから驚いたものである。ベルはしみじみ思う。
「今回の殺人鬼と捜査機関という対立関係もそのひとつだな。こちらは高い暗殺能力が付与され、相手方には組織力と権力が与えられた。それによって対等な対決が実現したということだ」
相手は警官のペア、こちらはコリンとベルの殺人鬼ペアである。途中でコリンは退場してしまったがそれが良い手がかりになった。
「ベルさんは殺人鬼の生活を体験させられたわけだけど、それによる悪影響はないの? それを未然に防ぐ倫理規定もないの?」
香の世界にも病院関係者や放送関係者などに倫理規定が置かれている。法律に載っていないからといってなんでもやっても良いわけではない。
「悪影響はあっただろうな。私でさえ元の世界に戻ってからしばらく肉が喉を通らなかった。倫理規定も開発当初はあったのかもしれない。しかしそれを言っては決着機は実現しなかっただろう」
「それほどまでに望まれていたのだと」
「そう、困窮してな。そちらの世界の資源問題などと同じで、かつそれが目前に迫った結果の決断だ」
何もしなければ破綻していたかもしれないのだ。間違っているとしてもその場しのぎにやらなければならなかった。
「それに経験に善悪は無い。あるのはそこから生まれる感情や発想、行動だ。私たちはそれらを規制することを選んだのだ」
「決着屋にとってはひどく不利な規制ね」
「君たちの世界ではそうかもしれないが、私たちの世界ではメンタルケアの問題は解決しているためそうでもない」
技術力が違うのだよと、ベルは鼻にかけていいう。
しかし香は思う。そうやって心身健康でいられるとしても。
「それでも重荷を背負わされている感が拭えないのだけど」
悪いことをさせられたり苦痛を強いられたり決着屋とは被虐思想でも持っているのだろうかと、香は自分の尺度でベルをはかる。
「私たちの世界では最初から何も背負っていないのだ。あえて責任ある仕事をすることが矜持につながる。つまりはそれが趣味だな」
やはり趣味なんじゃないか。香は確信する。
「でもベルさんは嫌々やってるんでしょ?」
「今はどうだろうか」
しばらく考えたあとベルはかぶりを振る。
「わからない。しかし今の私は目的のための方法として決着をしている」
「して、その目的とは」
「秘密だ」
「そういえば」
もう寝ようと思っていた香だったが、ベルが何か思いついたような顔をしている。
またとんでもない事を口に出すのではないかと香りは心配になる。
「異文化の者とこんなにゆっくり話す機会はなかったな」
「異文化ですか。たしかに私たちはあなたの乗ってきた宇宙船みたいなのは、実際には見たことがありませんね」
「そうだろう。君たちの技術は私たちからすれば太古の技術だ」
ロストテクノロジーだとか失礼なことを抜かすベルの言葉は香の癪に障った。
「だったらベルさんたちにはわからないことなんて無いんでしょうね」
「そう、それだ。わからない決着が一度だけあった」
「また決着の話ですか」
いい加減にうんざりしてきた香にちょうど良いといった調子でベルが元気に話だす。
「それは私の親との決着だった」




