2-5
この街は海に近いため魚介類で有名である。
ベルも本格フレンチという話で、魚介類でそれを楽しみたかった。
しかし現実はそううまくいかなかった。中林のこだわりでメニューは肉ばかりだったのである。
しかたなくベルは目の前に出された肉の塊をナイフで切り分けながら食べているのである。
話題になるほど盛りつけが美しいはずだったのだが、ベルの目の前に出てきたそれは厚みのムラがある。
まるで急いで切り分けたようだが、客はそこまで多くないように思えるが従業員が足りていないのだろうと結論付ける。
肉の気分じゃないんだよなあと心中文句をたれながら口にした肉片だった。
始めは固いだけのゴム肉かと思ったが噛んでいる内にその意図がわかる。
鼻を抜けるすっきりとした香り。肉汁は旨味を舌の芯にまで染みわたる。硬いと思っていた肉も繊維の方向へは簡単にほぐれる、まるで貝柱のような食感だった。
これは良い肉を使っているからこうなるのではない。仕込みの段階で一工夫されているのだ。
厨房の方を見ても何人かの従業員が忙しそうにしている。その人数で調理をしているとすればひとつの調理に特別変わったことはできないだろう。
つまり調理は簡単だとベルはあたりをつけた。
ここの店長には少し話を聞いてみたいと思った。ベルが話を聞いてみたいと思ったのはほとんど初めてである。
ベルが耳にする話はつまらない長い話ばかりだった。
かと言ってそうでない短い周期で反応を求められる会話もまた面倒でしかたがなかった。
だからいつも会話は対処的である。都合の悪い方向へ話題が進むと少しは頭を使うが、それ以外では考えることも億劫である。
長い話がつまらない、苦手というよりは途中で忘れてしまうのである。
忘れてしまうと言っても完全な忘却ではない、部分忘却である。
先ほどまで話していた内容がぼやけて次第に霧散していく。流れは覚えていても話題の対象がわからない。言葉は覚えていても誰の言葉だったか思い出せない。そんな感覚が、記憶の劣化が経験して数分ほどで始まる。
ベルは今を生きる刹那主義的な人格ではないが、刹那的な性質をもっていた。それだけである。
知識としての引き出しには問題がなく、推論に必要なときには意識上に浮かび上がる。しかしそれは知識であるから感情はない。
つまり思い出の蓄積ができないのである。
だから趣味は食事に偏った。美味しいか、まずいかという二択と味覚と嗅覚とを結びつけた思い出の知識化、圧縮と言ってもいいだろう。
その知識の積替せねによってベルは次何を食べれば幸せな感情を獲得できるか、あたりをつけることができる。
それはベルにとって不自由ではなかった。
人間を平均化することはできないのである。その社会において生きることができること、ベルの世界ではそれが人間の定義だった。
店長に話は聞きたいがもうひとつ食での表現を楽しみたいと思ったベルはウェイターを呼び止める。
メニューを見て有名な炭酸水の名前を口にする。
これで店長のこだわりがわかるというものだ。ベルはひとりごちてからメインディッシュの続きを楽しむ。
尾高は冷たい感情にさいなまれていた。
恨んでいたとは言え中林の足を切ってしまった。筋にまで達していれば彼はもう立てないかもしれない。
実際にはそんなことは無く、かすり傷である。
出血にしても怪我などあまりしない現代社会では大量なように感じられるが、大動脈とは関係ない外側を掠っただけである。なので特別止血しなくても自然に止まる。
圧倒的優位に酔い、相手を害してしまった罪悪感に尾高は酔う。
目的も忘れこのまま殺してしまっても良いとさえ思えてくる。それを睡魔に抗うかのように振り払う。目的は忘れてはいけない。
手は震え足が笑うが同時に高揚感に包まれる。
脳は芯から冷えしびれ、苦痛にも近い膨大な快楽が背中から上り頭上で弾ける。弾けた快楽は脳に直撃してビリヤードの球のように頭蓋骨の中を暴れまわる。
視界は上半分に青いモヤがかかったようになり、意識しなければ焦点が合わないほどにブレる。
明らかに異常な興奮に浸かってしまっている尾高とは対照的に、中林は冷静だった。
先ほどまで中林は事務仕事を片付けてうたた寝をしていた。
ほぼ睡眠状態の中林への突然の窮地である。緊急状態に置かれたため、本能からだろうか体から覚醒を促されるような感覚がする。寝起き独特の体の火照りも一気に冷め、体に冷たい血液が流れる。
この男は誰だ。わからない。
中林は一度見た客の顔は忘れない。まるで親か兄妹かのようにどの顔も思い出せる。当然客以外にもそれは適用される。
この男のことはわからない。アイマスクで閉ざされた世界に顔は無いからだ。
経営に料理、ITすべてそつなくこなせる中林にも弱点はあった。
声が聞き分けられないのである。男か女かはかろうじてわかるが、高い声の男と低い声の女になるともうすでに区別がつかない。
尾高の出したわざとらしい低い声に対しても中林はわざとらしさを感じた時点で確定ができなくなる。
したがって中林に与えられる、有用な情報は耳から入る男の言葉さらにその内容だけである。
喉に突き立てられた冷たい感触、おそらく鋭利な刃物である。それと右足に感じる鋭い苦痛は中林の思考をかき乱す。
「秘密を知ってどうするんだ」
従業員が警察を連れてきてくれる可能性を信じてできるだけ会話を引き伸ばすことを決める中林だった。
「秘密があることを認めたな?」
中林としてはだからどうだというのだといったところである。命に比べれば自分の料理の内容などはくれてやってもいいと思う。
中林の料理に対する態度にも尾高とすれ違いが生じていた。
中林は趣味の料理で生計が立てられる算段がついたから店をだしたのだ。いわば転がり込んだ商材でしかない。
無くなれば経験を活かしながら勉強すれば会社勤めでもやっていけないことはないだろう。
もちろん料理は好きだし今の生活がこのまま続けば、いやもう少しは儲けたいとは思う。が、もし続くならば良いとは思う。
料理に対する心構えはその程度であった。
一方尾高。
務めていた会社に半ば喧嘩別れのような形で辞表を叩きつけたのだ。いまさら会社勤めは嫌だ。後戻りはできない背水の陣で今の経営をしているのである。
料理に対しても心から尊敬する師匠に教わった大切な技術である。
その思い入れは尾高をさらに後戻りのできないところまで追い込んでいた。いや、尾高が後戻りできないと思い込んでいるのだ。
実際に中断し、中林に心底謝れば良いのだ。たとえ許されなくても司法も更生の意思のあるものを必要以上には罰しないだろう。
尾高は誠実に、真摯に料理に取り組んだ結果に今の凶行があると思っている。行き過ぎた思い入れは周囲を巻き込み、自らをも貶めると尾高は未だ気づけずに居た。
中林のレシピの秘密がわかったとすれば。
「そうだな、あんたぐらい美味いもの作れるとしたら。……そう、素晴らしい技術と余った富は分配しないとな。みんなで仲良く使うさ」
尾高は富の分配を語るが、みんなとは中林に反発するライバル店たちのことである。結局は独占なのだから平等とは程遠いのだが尾高の知るところではない。
中林は考える。
それは素晴らしい技術だろうか。
内容はあまりに単純である。ましてや犯罪者を産んでしまうような技術無い方がよいのかもしれない。
「そうか、美味いか。お前は料理をするのか?」
料理に関して思い入れのある発言に取れたので中林はそこから話を引き出そうとする。
「さて? まあ、教えてくれないならあんたを料理することになるかもしれないがな」
そう言って中林に突き立てられたナイフに力を込める。わずかに血がにじむ。
ふざけて内容を話す尾高も始めは付き合っていたが、そもそも考えれば中林の命は尾高の手の内にある。
「ああ……。わかったよそこの金庫だ。と言ってもわからないだろうからせめてアイマスクを外してくれないか」
嘘である。秘密と言っても10秒以内で説明できる簡単なものである。書き留める必要などないし、特別に加える調味料などがあるわけでもない。
金庫を開けさせ、書類を漁らせて時間をかせぐのが目的である。
「だめだ、早く位置を教えろ。わかりづらくても殺す」
もはや殺すことが目的になっているのではないかと疑いたくなる。
しかしそれは中林にとっては好都合である。
犯人はうちの金庫が何個あると思っているのだろうか。
帳簿の金庫がひとつ。今どき紙だと言われるが中林は紙が最高だと思う。
契約書関係のがひとつ。
非常用の現金を入れる金庫がさらにひとつ。
計3つの金庫のうちどれを選ぶというのだろうか、すこし楽しみである。
「後ろの棚だよ」
「右か? 左か?」
「どっちだったか見ないとわからないのだが」
「いや、あった。3つもあるぞ。どれが本物だ、早く答えろ!」
重い金属の音がする。三度音が聞こえるのを待って口を開く。
「たしか向かって右のやつなんだが」
「それを早く言え。既に床におろして順番がわからない」
やはりおろしてしまっていたか。吹き出しそうになるのを咳払いでごまかす。
「では、一番軽いものがそれだ」
一番軽いのはおそらく契約書と帳簿である。つまりふたつとも一番だ。白紙の帳簿があるためわずかにそちらが重いはずだがこの犯人は気づくだろうか。
振って確かめているのだろう紙の束がこすれ合う音が聞こえる。現金の金庫だけは下ろすのも大変なほど重いため除外だろう。
「む、これだな。番号はいくつだ」
わずかな違いに気づくとは只者ではなさそうだ。試しに契約書の入っている金庫の番号を述べる。
金庫の鍵となっている暗証番号を入力するため打鍵音がする。
「開いた……。これは契約書か? 本当にあってるんだろうな」
2分の1の確率で当てたのだろうか、犯人は正解を当ててしまった。
動揺を隠しながら中林は答える。
「ああ、その中に適当に挟んでいたと思うのだが」
そろそろ誰か来てほしいと思って扉に意識を向ける。
すると扉を叩く音がする。
「すいませんちょっといいですか」
尾高は焦る。その声は紛れも無く息子の声だったのだ。
中林の店のことが知りたくてバイトさせていたのだ。
始めは露骨すぎるかとも思ったがこれも料理のためである。
答えないわけにもいかず、低音をより効かせて尾高息子に応じる。
調理の音に混じってかろうじて聞こえる程度の扉越しの会話だったため父親の声に気づかない尾高息子。
「部屋に入れて頂けませんか」
「だめだ、こちらは忙しい。なんの用だ」
「では入って左側にあるケースに入った瓶を1本ください。お客様にお出ししなければならないので」
水の瓶がこの部屋にあるから取って欲しいと言う息子にめまいがする。
たしかに冷蔵庫らしきケースがある。
しかしそれを取って目の前の扉を開ける訳にはいかない。背丈や服装で息子にばれてしまうかもしれないからだ。
このケース、もちろん中林のこだわりである。酒を自分では飲まない中林は食事中の飲み物は炭酸水である。そのため事務室に備え付けられたケースからその都度出して客に提供する仕組みだ。
「水道水でもなんでもいいだろそっちで勝手にしろ」
尾高の判断だが、尾高息子の伝え方も悪かった。親子で足を引っ張り合うとは何の運命のいたずらか。
尾高の息子は水道水という指定を真に受けてしまう。
一方中林は時間ができたと喜ぶ反面、警察じゃないのかと肩を落とす。だが落ち込んではいられない、次は何を使って犯人を困らせようか考える。