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番外編:腐女子ーズ

 不安がないと言えば嘘になる。一度命を救われたとは言え、彼女が得体の知れない存在と融合している事実に変わりはない。それが何なのか、正確に把握している人間などひとりもいないのだ。コーヒーとケーキを持って部屋に戻ると、彼女は私の本棚から同人誌を何冊か引き出し読んでいた。

 彼女の名前はゴリョウさんこと御陵未亜(みささぎみあ)。一学年下の二年生。漫研の後輩。外見は小柄で非常に愛くるしい顔立ちをした女の子だ。しかし彼女の頭の中にはとんでもない物が詰まっている。二億五千万年に渡る地球の歴史。ブラックホールを自在に操る超科学技術。彼女は人知を越えた存在なのだ。私は今その女の子と二人きりで私の部屋にいる。

 ゴリョウさんが「ほひゃー」とか「うふぁー」とか奇妙な感嘆詞を発しながら同人誌のページを捲っている。そう言えばこの子はオタクではあるけど腐女子ではない。トモミンと私のカップリング談義には無関心だ。古いアニメや特撮、漫画には造詣が深い。お姉さんの影響という。そのお姉さんというのも相当な曲者なのだが、その話はまたいつか。

「このまろんって人は……」とゴリョウさん。

 わたしは即時に「まろん先生」と訂正する。

 まろん先生はわたしが尊敬してやまないBL漫画家だ。昨年プロデビューを果たされた。

「このまろん先生って人は、戦国武将専門なの?」

「そう。先生は歴女でもあるのよ。衆道が当たり前の戦国時代って、BLの舞台として恰好だと思わない?」

「へぇー。しっかしこれ、過激だよねぇ。ここまで描いちゃって良いの?」

「ひょっとしてこの手の同人誌、初めて?」

「うん」

「シュピーゲル号のデータベースにいっぱいあるんじゃないの?」

「さすがに同人誌までは手が回らないよ。こんなのは初めて読んだ」

「面白い?」

「うーん。微妙」

「どんな風に?」

「ボクは女の子が陵辱されるシチュの方がいいなぁ」

 その分野は榊田君が専門だ。ゴリョウさんは榊田君と話が合う。

「女の子が陵辱されているところを女の子が見て面白いの?」

「エロい気分にならない?」

「ならない。どちらかと言えば引く」

 女の子にとってレイプ(しかも女の子同士!)など悪夢でしかない。ましてや榊田くんが得意とするところの触手系など意味がわからない。それがたとえ世界に名を轟かす、葛飾北斎であったとしても。

「ふーん。ドMだからかなボクは」

 ドM? 不良の顔面に拳を食らわし、完膚無きまで叩きのめす女がドM?

「でなければこの状況を受け入れることは出来なかったと思う」と自分の頭を指さした。 

 ゴリョウさんは脳の半分以上を事故によって失ったという。失われた機能をバックアップしているのが、ペルム紀文明遺跡宇宙船シュピーゲル号の人工知能。そして脳の構造を維持しているのが、今から私が分けて貰おうとしているナノマシン。

「うわぁ。舐めてる、舐めてるぅ。『美味しいか?』って美味しいの?」

「ここは『美味しいか?』という質問に対し『美味しいです』と答えさせるプレイが焦点なの。実際に美味しいかどうかなんて意味ないの」

 何を説明しているんだか。

「なるほど。で、美味しいの?」

「男の人と付き合ったこともない、ただの耳年増(みみどしま)が知るわけないじゃない」

「だよねぇ。でももし彼氏が『舐めて』って言ったらどうする?」

「そんな事言う人とは付き合わない」

 絶対無理。

「『と考えていたのも過去の話。純情だったあの頃のわたしは今何処に……』」

「人の独白に勝手にナレーション付けないでくれる?」

「けどさぁ。男子って頭と下半身は別物だよ。どんなに真面目そうな子でも、性的には変態って言うのが男子だよ。榊田先輩みたいに裏表がない男子の方が珍しいんだよ」

「それではまるで榊田くんが素直でよい子に聞こえるんだけど」

「ぬう。確かに」

 ゴリョウさんは同人誌をパタリと閉じると本棚に戻し

「いただきまーす」とケーキを食べ出した。

 この日のために用意したマールブランシュのショートケーキ。確かに美味しいが、これ一つでコンビニのケーキが三つも買えることを考えると、素直に楽しむことができない。

「ウマー。高級スイーツは人の金で食うに限る」

「そのー。ゴリョウさん?」

「なーにー?」

「ナノマシンって本当に……その……キス……でしか摂取出来ないの?」

「チュー以外でも可能だよ」と私の目を見ながら言った。

「どうするの」

「輸血。幡枝先輩の血液型は?」

「A」

「じゃ、無理だね。ボクはBだもの」

「他には?」

「要は粘膜と粘膜を密着させれば良いわけで、ボクが幡枝先輩の下腹部をだね……」

「わかった。もういい」

 聞いた私が馬鹿だった。

「逆に幡枝先輩がボクの……」

「もう、わかったって!」

「幡枝先輩って漫画では過激な物を描いているくせに、こう言うトークは避けたがるんだね」

「当たり前じゃない。今からすることはファンタジーじゃないのよ、リアルなのよ。恥ずかしいじゃない」

「既に一回しちゃったし、女の子同士だし良いじゃん」

「ゴリョウさんは抵抗ないの?」

「ない。むしろ幡枝先輩のような美形とチューできるなんて超ラッキー。据え膳食わぬはオタクの恥」

 私は死にかけたところをゴリョウさんに助けて貰った。ゴリョウさんが体内に保有する医療用ナノマシンを分けて貰ったのだ。その方法がキス。当時の私は意識が混濁しており憶えていないのだが、相当濃厚なものだったらしい。憶えていないとはいえファーストキスが女の子。ありがちな残念話ではあるが、なぜゴリョウさんは抵抗がないのだろう。

「ボクはハックと定期的にキスしているからねぇ」

「ハックさんと? ひょっとしてゴリョウさんのナノマシンって……」

「ナノマシンのプラントはハックの体内にある。ボクはそれを定期的に補充してもらっているんだ。ハックはもの凄いテクニシャンだよ。もう蕩けそうなぐらい」

 ナノマシンを製造供給しているのはハックさんなのか。

 ハックさんとは人との見分けが付かないほど精巧に作られた女性型アンドロイドだ。神がかり的な美しさと強さを兼ね備える。一度コスプレをさせてみたい。ビッグサイトでファンタジー系の女神や女戦士をやらせたら、とんでもないことになりそうだ。コスプレ雑誌の表紙を飾ることになるだろう。

「ハックさんと私がキスでもOKなの?」

「ボクよりもハックの方がいい?」

「あ、そう言う意味じゃないよ。可能なのかどうなのか聞いただけ」

「可能だよ。むしろハックと幡枝先輩のチューを見てみたい気もするな。凄く絵になりそう。写真撮って榊田先輩に売りつけてやろうか」

「やめてよ。私はハックさんみたいに綺麗じゃないし」

「それって本気で言ってる?」

「うん」

「いるんだなぁ、こう言う人が。もったいないなぁ。もったいないお化けが出ちゃうよ」

「何よそれ。おだててもこれ以上ケーキはでないわよ」

「幡枝先輩ってまれに見る美形なんだよ。背も高いしスタイルも良いし。今すぐ大手モデル事務所に行けば即採用だよ。三年後には国内トップモデル。二十五歳までにヴォーグの表紙を飾ると思うよ」

 またそう言う戯言を。

「そう言えば幡枝先輩はどうして今もメガネをかけているの?」

 ナノマシン効果により私は近眼が直ってしまった。現在の視力は二・〇以上ある。よってメガネは必要ない。今かけているのは伊達メガネだ。ちなみに二・〇以上というのは、これ以上計る方法がないから二・〇以上と言っているに過ぎない。実際にはもっとあるはずだ。視力が良いと言うことがこんなに素晴らしいことだとは思わなかった。世界が光り輝いて見える。そして世界には情報に満ちあふれている。

「色々あってね」

「どんな色々?」

「昔一時期コンタクトレンズにしたことがあったんだけど、メガネなしで街歩くとやたら男の人に声かけられるのよ。特に東京に行った日にはもう大変。百メートル歩く度に怪しげな事務所の名刺を渡されるの。だからコンタクト止めてメガネに変えたのよ。そうしたら被害がなくなった。だからこのメガネは必要なの」

「百メートルに一回……。幡枝先輩はそれをどう感じているの?」

「とにかく迷惑。面倒くさい」

 本当、唯々面倒くさい。

「かー! ダメだこの人!」といってゴリョウさんが頭を抱えた。

「そんな事言ったらゴリョウさんだって声かけられるんじゃないの?」

 彼女は「某会いに行ける集団系アイドル」の選抜メンバーに入っていてもおかしくないぐらいの容姿をしている。

「ん? まぁ、無きにしも非ずかな」

「ゴリョウさんはそういう時どうしているの?」

「放送禁止用語を大声で連呼すれば、大抵みんな去っていくよ」

「それって同時に何か大切なものを失っていない?」

「ん? 何かあるかな」

 とりあえず私には真似できない。

「幡枝先輩はどうしてナノマシンが欲しいの?」

「受験勉強と同人活動が両立できるから」

 どう言う仕組みなのかは知らないが、ナノマシンを体内に取り込むと身体機能が数倍に跳ね上がる。十円玉を指先で曲げることが出来る。冷蔵庫を一人で軽々と持ち上げることが出来る。千五百メートル走で息切れがしない。そして一週間徹夜しても全く平気なのだ。ただし尋常ではない飢餓感に襲われる。低血糖になり倒れそうになる。これを膨大なカロリー摂取によって埋め合わせる必要がある。通常の三〜五倍は確実に食べるのだ。副作用はないのか聞いてみたが、ゴリョウさんは大丈夫だと言う。

「大学に合格するまでの間限定と言うこと?」

「うん」

「ふーん。そんなに漫画描くのが好きなんだ」

 正直漫画を描くのが好きと言うよりも、やおいを描くのが好きなのだが、ここは漫画が好きと言うことにしておこう。

「プロにはならないの?」

「同人漫画を描いている人の中には、商業誌作家以上の画力を持つ人が大勢いる。けど実際に商業誌作家になろうという人は意外と少ない。なぜだかわかる?」

「さあ?」

「大きな賞でも取らない限り、新人漫画家は好きなものを描かせて貰えない。好きなものが描けないのなら、商業誌作家になる意味はない。それに新人の原稿料は一枚五千円から八千円程度。アシスタント頼むと、とてもじゃないけど食べていけない」

「えー? 漫画家って儲かるんじゃないの?」

「連載がヒットして単行本を定期的に出せるようになればね。そこまでたどり着くのが大変」

 ここで私はあえて「プロ」ではなく「商業誌作家」という言葉を選択した。何故なら同人漫画だけで食べている作家も多数存在するからだ。ここだけの話だが、年収が数百万円もありながら確定申告をせず、親の扶養家族として生活している人間を私は何人か知っている。

「それって脱税じゃん」

「そうね」

「税務署は何しているの?」

「同人誌販売は基本直販の現金取引。出納帳はおろか領収書も何もないから調べようがない。ヘタな商業誌作家より断然儲かるのよ」

「へぇー」

「一応言っておくけど、キチンと納税している同人作家もいますからね」

「世の中にはいろんな人がいるんだねぇ」

「で、ゴリョウさん。本題なんだけど……」

「うん。期間限定でならナノマシンを分けてあげる」

 良かった。

「で、シチュはどうする?」

「シチュ?」

「シチュエーション。どっちが攻めでどっちが受け? あ、女の子の場合はタチとかネコとか言うんだっけ?」

 何を言っているのだこの子は。

「普通で良いんだけど」

 どういうのが普通なのかは私も実はよくわからない。

「ボクがハックとするときは色々趣向を凝らすんだ。ベッドの中でしたこともあるよ」

「ベッドの中?」

 シュピーゲル号の寝室を思い出す。

 十二畳ほどの部屋の真ん中にクイーンサイズのベッドが一つ。

 ゴリョウさんとハックさんはあのベッドの上で……って。

「あの、ちょっと聞くけど、ひょっとしてゴリョウさんってエス(百合)なの? いやその同性愛を否定するつもりは毛頭ないのだけども、私、BL描いてるけど性癖は至ってノーマルなわけで、もしゴリョウさんがエスなら不用意な誤解を与えたくないなという……」

 うわぁ。私なに喋っているのだろう。顔が火照ってきた。

「んー? ボクもノーマルだよ。人よりちょっと好奇心が強いだけ」

「そ、そう。それなら良いんだけど」

「ハックの二万年のテクニックを享受できるんだ。シチュにも拘りたいじゃん?」

「にまんねん? って?」

「ハックの年齢」

「ハックさんって二万年も生きているの?」

「あれ? 言わなかったっけ? 正確には二万二千六百……」

「初耳よ!」

「まぁ女子の年齢はあまり人前で話題にすることじゃないけどね」

 二万年って有史以前じゃない。ハックさんの頭の中には、我々が知らない人類の歴史が一杯詰まっているんだ。旧約聖書の時代とか邪馬台国の時代とか話を聞いてみたい。

「二万年のテクニック……。けどハックさんってトモミン以上に無口じゃない? そもそも感情を持っているの」

「ハックはおしゃべりだよ。喜怒哀楽も結構激しい」

「何処が! 私ハックさんの声すら聞いたことない!」

「ああ。そう言う意味ではね」

「どう言う意味?」

「訳あって今はハックに色々と制限をかけている。それの弊害によって今は喋ることが出来ない。なんかバグが出ちゃうんだ」

「制限? 二万年も生きてきた人に今さらって気もするけど」

「それは話せない」

「でも話すことが出来るのに話せないなんて可哀想」

「これはハックも了承の上でのことなんだ。そのかわりボクとハックは常に膨大なデータをやりとりしているんだよ」

 ゴリョウさんとハックさんの間には、私には想像もできない繋がりがあるのだろう。けど会話が出来ない弊害をも良しとする理由とはなんだろう。

「で、どんなシチュにする? 幡枝先輩にはそそられる物があるねぇ。色々悪戯してみたいな」と言って私を頭のてっぺんからつま先まで舐めるように見るとクックックと笑った。

「そのエロオヤジみたいな言動はやめて」

「良いではないか幡枝先輩」

「普通でお願い」

「じゃ、服脱いでベッドに横たわって。あと目隠しと手錠」

「だからそういうのは無しで!」

 何処が普通だ! やっぱり二人きりになったのは間違いだったのか。かといって誰かに見守って貰うなんて、それこそ変態プレイだ。

「えー。つまんなぁーい。それじゃあ。ボクが得る物がなにもないじゃん」

 それを言われるとつらい。ゴリョウさんには借りを作ってばかりだ。

「とにかく服脱ぐのはNG」

「じゃ胸触っていい?」

「胸は私よりゴリョウさんの方が遙かに大きいじゃない? 私なんか触っても面白くないでしょう?」

 私のカップはA(悲)。身長に栄養が行きすぎて胸に行き渡らないのだ。ゴリョウさんは確実にDはある。彼女のお姉さんから推測すると、まだまだ成長するに違いない。なんとも羨ましい限りだ。巨乳というのも日常生活に差し障りがあり、肩こりなど大変らしいが、寄せたときにナチュラルな谷間が出来るぐらいのボリュームは正直欲しい。

「わかってないなぁ。触られて恥じらっている表情が見たいんだよ。耳まで真っ赤になった幡枝先輩が見たいんだよ」

「ゴリョウさんって本当にノーマルなの?」

「うん。胸触っていい?」

「……ちょっとなら」

「スカートの中に手、入れて良い?」

「それはダメ」

「えー。別にパンツの中をまさぐろうと言う訳じゃないよ。太ももの内側をだね……」

「やっぱりゴリョウさんってエスでしょう!」

「ちょっとオヤジが入っているだけだよ」

 洗面所に行き二人並んで歯を磨く。日頃やったことがないけど舌苔も落とす。今さらという気もしたけどやっぱりエチケットだと思う。ゴリョウさんは吐血で汚れた私の口に迷うことなくキスをしてくれたという。あの日のお昼は何を食べたんだっけ。よくよく考えると本当に感謝に堪えない。やっぱり太ももぐらいなら許そう。きっと人はこうやって色々なものを失っていくのだ。人前で放送禁止用語を連呼するよりはマシというものだ。

 その時玄関のチャイムが鳴った。

 こんな時に来客? 今家には私とゴリョウさんしかいない。口をすすぎ、応対に出る。

「よう。久しぶり。また背、伸びたんじゃないか?」

 立っていたのは兄だった。

「お兄ちゃん、どうしたの急に?」

「この近くで撮影があってさ。待ち時間ができたから寄ってみたんだよ」

 靴を脱ぎ散らかし、居間に上がるとソファーにドッカと腰掛けた。

「やっぱ我が家は落ち着くなぁ。母さんは?」

「出かけているよ。帰ってくるなら帰ってくるって言ってよ。お母さん会いたがってたのに」

「時間が取れるかどうかわからなかったんだ。帰るって言って帰れなかったら申し訳ないだろ。コーヒーのいい香りがするな」

「今暖める」

「悪いね。おや? 友達かい? こんにちは」

 居間の入口から歯ブラシを咥えたゴリョウさんが顔を出していた。

 しまった。

「ご、ゴリョウさん、部屋で待っていてくれるかな。すぐ行くし……」

「MINORU?」

「薫の兄、(みのる)です。君、なんで歯磨いているの?」

「どわ! 本物だ!」

 ゴリョウさんの口から歯ブラシと歯磨き粉が吹きだした。

 

 私の兄、MINORUこと幡枝稔はタレントだ。東京の大学に通うため上京したが、上京初日にスカウトされ現役大学生モデルとしてデビューした。昨年は脇役ながらテレビドラマデビューを果たし、現在「若手イケメン俳優(失笑)」としても人気急上昇中(大失笑)である。もちろん私がイケメンと言っているわけではない。事務所が言っているだけだ。ごく普通の大学生だと私は思う。頑張ってはいるが正直演技もそんなに上手くはない。周りに知られるとややこしいので黙っていたが、よりによってゴリョウさんに知られてしまうとは。最悪だ。

「幡枝先輩のお兄さんがMINORUだったなんて。芸能人だったなんて! どうして今まで黙っていたの?」

「聞かれなかったから」

「こんな美形男子間近で見るの、生まれて初めてだよ。背が高い。足が長い。顔が小さい。しかもいい匂いがする! ヒロシとはえらい違いだ。同じ男子、いや同じ人類とは思えない。ヒロシの祖先はきっとロリコントカゲに違いない」

 ゴリョウさんが兄の横に座り、鼻を鳴らしながらマジマジと観察している。

「ゴリョウさん。このことはくれぐれも内密に……」

 私が手を合わせ懇願すると

「なんで!」と私を睨んだ。

「ボクにこんなお兄ちゃんがいたら自慢しまくりだよ! 入浴中の隠し撮り生写真を一枚千円で売って荒稼ぎするね絶対」

 兄が高校生の頃、バレンタインデーには「お兄さんに渡して」と、私のところにチョコレートを持った女子が殺到した。ラブレターを託されたこともあったし、喫茶店に連れ込まれ、メルアドを教えろと脅迫されたこともある。ストーカーが家の周りを彷徨き、警察沙汰になったこともある。あんな思いをするのは金輪際お断りだ。

「お願い。絶対秘密にして」

「じゃあ太ももを……」

「前向きに検討する」

「なんだい、太ももって?」

「お兄ちゃんには関係のない話」

「そう。ボクと幡枝先輩はただならぬ関係なのだ」

「もう! ややこしいから余計なことを言わないで!」

「面白い子だなぁ。よく見ると結構可愛いね。背が低いがウチの事務所でもこのクラスはそうはいない。君は芸能界とか興味ないの」

「おお。イケメンに口説かれてしまった! しかし残念だけど稔さん、ボクには身も心も捧げた人がいるのだ。だから稔さんの愛を受け入れることは出来ない」

「あははは。振られちゃったよ」

 この二人、何をやっているのだ。

「で、なんで歯を磨いていたの?」

「チューするため」

 この馬鹿!

「チュー? 誰と誰が?」

「幡枝先輩とボク……」

「コラ! 余計なことを……」

「薫ちゃん。そっち方向に目覚めちゃったのか?」

「ち、違う! これには深いわけが……」

「幡枝先輩って薫ちゃんって呼ばれているんだ。ボクも幡枝先輩のこと、薫ちゃんって呼んでいい?」

「ゴリョウさんはもう何も喋らないで!」

「薫ちゃん、変な漫画ばっかり描いているから」

「変な漫画って言うな!」

 変な漫画だけど。

「そう。ボクと薫ちゃんはGLなのだ」と言ってゴリョウさんが私の横に座ると抱きついてきた。薫ちゃんって言うな! それにGLなんて言葉ないし!

「母さんは知っているのか」

「だから違うって! ゴリョウさんも止めなさいって!」

 兄の手が突然私の顔に延び、メガネを奪い取った。

「何するのよ。返して」

「絵になるなぁ。ファッション誌の一カットみたいだ」

 兄がスマホを取り出し私たちをパシャリと撮った。

「ちょっと何してるの」

「薫ちゃん。一度モデルやってみ。その気さえあればトップ取れるぞ」

「その気ないから。メガネ返して」

 メガネに手を伸ばすと兄がそれをかわした。

「そう言うのいらないし。返して。怒るよ」

「あれ? このメガネ、度が入ってない? コンタクトの上からメガネかけているのか?」

「そうよ」

 違うけど。

「なんでまたそんな面倒くさいことを」

「薫ちゃん、街を百メートル歩く度に声かけられるのが面倒くさくて、変装の為にメガネかけているんだって」

 ゴリョウさんはまた余計なことを。

「薫ちゃんはそれをただ単に迷惑だとしか感じていない訳なんだね」

「そうよ」

「もったいない」

「だよねぇ」

「世の中にはモデルやタレントになりたくて、アルバイトしながらオーディションをひたすら受け続けている女の子が山ほどいるんだぞ。薫ちゃんならシード選手になれるのに」

「興味がないんだから仕方がないじゃない。それに私が出ることで枠が一つ埋まるよりも、成りたいと思う人がその枠を埋める方がより良いでしょう」

「わかってないなぁ」と兄とゴリョウさんがユニゾンした。

「百メートルを九秒台で走ることが出来る短距離走の選手が、興味ないからと言ってオリンピックに出なかったらどう思う?」

「それとこれとは……」

「それは国民に対する背信行為だ。持てる者の義務って言葉知っている? ノーブレス・オブリージュ」

「おお。稔さん良いことを言う。ボクが言いたかったのもそれだ! ノープロブレム・ルー大柴、薫ちゃんは短距離走のオリンピック選手なんだ」

「ゴリョウさんだって百メートル九秒台で走ることが出来るじゃない!」

「ボクのはズルだから問題外」

「ズルはいけないな」

「だよねぇ」

 二人が笑った。

 なんなのこの鉢合わせは。今日はゴリョウさんにナノマシンを分けて貰おうと家に招いただけなのに。いつもゴリョウさんと一緒にいる篠原君に気取られないよう、計画的に事を進めてきたはずなのに。滅茶苦茶じゃない!

「あ、もうこんな時間か。戻らなきゃ」と兄が立ち上がった。

「どこに戻るの?」

「撮影だよ。ドラマのロケをこの近くでやっているんだ」

「ロケ? 見たい! 見たい!」とゴリョウさんが小学生のように足をばたつかせる。

「大人しくしているなら見学してもいいよ」

 えー! ナノマシンは? それに、見学だなんて、そんな安請け合いをして大丈夫なの? まだ駆け出しのくせして。

「行く! 見に行く! 薫ちゃんも行こうよ」

「薫ちゃんって言うな!」


 撮影は近くの疎水だった。疎水といっても普段はほとんど水がなく、乾いたコンクリートの川底が露わになっている。そこに様々な機材が持ち込まれ、大勢の人が動き回っていた。兄は責任者らしき人に挨拶し、私たちを紹介する。俳優さんが待機している場所まであっさりと通して貰えた。

「うわ! 本物の芸能人がいる! 牧瀬聡だ! 塚本慎太郎だ!」

「こら、静かに」

 騒ぐゴリョウさんを兄が諫める。でも実際、私でも知っている芸能人が複数名たむろしていた。若干テンションが上がる。デジカメ持ってくれば良かった。あとサイン色紙。

「おや? MINORUくん、両手に花とは隅に置けないねぇ」

 話しかけてきたのは塚本慎太郎だった。彼は正真正銘、今をときめくイケメン俳優である。信じられない。こんな美形が目の前に! でも思っていたより背が低い。

「紹介します。妹の薫と、妹の友人の……あれ? 名前なんだっけ? 御園?」

「御陵未亜です。いつもテレビで拝見しています。握手して頂けますか」とゴリョウさんが満面の笑顔で塚本慎太郎に話しかける。

 拝見しています? 頂けますか? ゴリョウさんに敬語が使えたなんて! 

「ありがとう。ちっちゃくて可愛い子だね」

 塚本慎太郎がゴリョウさんに手を差し出す。

「はい。よく言われます」

 ゴリョウさんが両手で塚本慎太郎の手を握った。

「で、そちらがMINORUくんの妹さん?」

「あ、はい。い、いつも兄がお世話になっています」

 声が裏返りそうになった。

「あの、御陵さん?」と塚本慎太郎。

「はい?」

「そろそろ手を離して貰えないかな」

「あ、ごめんなさい。私ったら」と慌てて手を離すと、もじっと身体をくねらせた。

 この女……。

 私はやはりゴリョウさんを舐めていた。この子はあらゆる意味で化け物だ。この子の気まぐれで人類は滅亡するのだ。

 塚本慎太郎が言った。

「薫さん」

「あ、はい?」

「眼鏡取って貰える?」

「な、何でですか?」と言った私から兄が眼鏡を取った。

「ちょっと!」

「ほー。これは」

 塚本慎太郎が私の顔を覗き込む。か、顔が近い!

「牧瀬さん、ちょっと来て。MINORUくんの妹さん」

「ん?」

 牧瀬聡がこちらを向いた。牧瀬聡は中堅どころの実力派俳優だ。

「お、これがMINORUくんの言っていた妹さん?」

 お兄ちゃん、この人達に一体何を話したの?

「スッピンでこれか! 監督さん、ちょっと来て」

 今度は監督と呼ばれた人がやって来た。お父さんと同い年ぐらいだろうか。私をつま先から頭のてっぺんまで舐めるように見ると

「廻ってみて」と言った。

 廻る?

「薫ちゃん。ターンだ」

 三百六十度廻ってみる。少しふらついた。

「歩いてみて」

 歩く? 何処を?

「薫ちゃん。テキトーに。あそこの照明に向かって歩いて」

 言われるまま五メートルほど歩き、戻ってくる。

「君は何処に所属しているの?」

「ま、漫研です」

「まんけん?」

 ゴリョウさんが声を上げて笑った。

「お腹痛い。苦しい。助けて」

 何故そんなに笑う? 何か変なこと言ったかな。

「何処の事務所に所属しているのかな、という意味だったんだけど」

「じ、事務所? そ、そんなもの入っていません!」

 耳が熱くなるのが分かった。

「薫ちゃん、ナイス天然ボケ!」と再びゴリョウさんが声を上げて笑った。

 く、くそう! そんなもん、分かるか!

「世間は広いな。これだけの原石が手つかずだなんて。さっちゃん、台本持ってきて」

 若い女性スタッフが台本を持ってきて監督さんに渡す。監督さんは付箋が付いたページを開くと、私に差し出した。

「ここ、マーカーで印付けてあるところ読んでみて」

 え? 

「ちょっと待ってください。どう言うことなんでしょうか」

 監督さんが兄に振り返る。

「なんだMINORUくん、話していないのか?」

「薫ちゃん、取り敢えずセリフ読んでみてよ」と兄が私に向かって手を合わせた。

 はめられた。完全にはめられた。なんて卑怯な。昔からそういうヤツだった。

 半分コと言いながら、いつも私よりお菓子を多めに食べた。文句を言うと背の高さに比例するんだと言った。一時期背が並んだ時があったが、その時には体重に比例するんだと言った。いつも言いくるめられて来たけど、今日はそうはいかない。思い通りになってたまるか!

 兄は監督さんから台本を受け取ると私のそばに来た。

「塚本さんの妹役が急遽入院しちゃってね。誰かいないかって言うから、薫ちゃんの名前出したんだよ。そうしたら監督さんをはじめ、スタッフみんなが一度薫ちゃんを見てみたいって言い出して」

 なんて無責任な!

「こうして一度ご覧いただけたわけだから、目的は果たされたよね」

「薫ちゃん、セリフ読むだけだよ。ほら、ここ三行だけ」

「私、帰る」

「薫ちゃん! これだけ大人集めておいて今さら帰るは無しだよ」

「私が集めたんじゃありません」

「頼むよ。僕の顔を立てると思って。お願い!」

「MINORUくん。無理なら無理で良いんだよ。わがまま言ったのはこっちなんだから。入院した子の事務所から代役候補を何人か挙げて貰っている。その子達のオーディションも週末行うから」と監督さん。

 なぁんだ、それなら私、必要ないじゃん。助かった。

「あのー」

 声のした方を振り向くと、ゴリョウさんが小さく手を上げていた。

「私にそのセリフ、読ませて貰っていいですか?」

「わたし」だって? どの口が言っているのだ。なんか無性に腹が立つ。

 監督がゴリョウさんをマジマジと見つめてから言った。

「君は誰?」

「幡枝薫さんの後輩で御陵未亜と申します」としっとりと言った。

 申します? はぁ?

「残念だけどこの役のイメージではないな」

「どこがです?」

「背が低い。声が高い。見た目がオモチャっぽい」

「お、オモチャ?」

「それに君は女優向きではない」

「女優向きじゃない? なんで?」

 急にタメ口になった。

「君は確かに可愛いよ。しかし作り手からすると、君みたいな容姿は使い道が限られてしまうんだ。君にイメージ出来るのは、今どきの女子高生ぐらいなものだ」

「ぬう。今どきの女子高生に向かって、今どきの女子高生とは。幡枝先輩は女優向きなの?」

「ああ。素の美しさがある。あの立ち姿を見たまえ。オーラを感じないか? 一目見れば分かる。彼女は逸材だ。様々な役をこなす様子が目に浮かぶ。しかし本人にやる気がなければ意味はない。女優は人一倍貪欲でなければ勤まらない。残念だがね」

 ゴリョウさんがツカツカっと私の前に来て言った。

「セリフ読んで」

「だから嫌だって」

「読まないならナノマシンあげない」

「……約束と違う!」

「主導権はボクにある」

「太もも触らせるから」

「そんなの、もうどうでもいい。太ももぐらい、触ろうと思えば力ずくでも触れる。さぁ、どうする? ナノマシンいるの、いらないの?」

 なんでこうなるの。なんでいつも兄の思惑通り事が進んじゃうわけ?

 私は兄から台本を受け取った。

 

「幡枝先輩。口開けて貰わないと。歯、食いしばってたらダメだよ」

 ゴリョウさんに言われるまま、まな板の鯉の如くベッドに横たわる私。

 息をして良いものかも分からず、ただ硬直し、堅く目を閉じている私。

 何、この恥ずかしい状況は! 私の方が年上なのに! 

 ゴリョウさんの鼻息を頬に感じる。

 ゴリョウさんの唇が私の唇を覆い、暖かく濡れた物が口の中に侵入してきた。

 どうすればいいの? 私も舌を動かすの? 誰か教えて! 

 胸の鼓動が頂点に達し、耳まで真っ赤になったのが分かった。

 頭が真っ白になったところに、ゴリョウさんの右手が私の胸をそっと包む。

 その手が徐々に下へと下がっていく。

 ちょっと! そこは太ももじゃない!

 声に出そうとしたが出なかった。手を除けようとしたが指先一つ動かせなかった。

 初めてじゃないけど、初めてのキスは歯磨き粉の味がした。

「しかし幡枝先輩が、あそこまでセリフが下手だとは思わなかったよ」

 ゴリョウさんが私の目を見ながら言った。

 私は恥ずかしくて、ゴリョウさんを直視できなくて、思わず目を逸らす。

 世の中の男女はこんなことを日常的にやっているというの? なんかもう信じられない。女の子同士でもこんなに恥ずかしいのに、男子相手なんて私には絶対無理。

「うるさいなぁ。私は演技が出来るなんて一言も言ってないもん」

「にしたって完全な棒読みだよ。はじめはふざけているのかと思ったよ。ボーカロイドが喋っているのかと思った」

 監督さんや俳優さん達の、失望しきった顔が思い起こされる。そんなに酷かったか? あれでも真剣にやったつもりだったのに。

「役者はダメでも、モデルの道が残っている。まだまだチャンスはあるから頑張ろうよ」

「頑張らない。もう二度と芸能界には係わらない」

 絶対に。


 ゴリョウさんが帰って行った。貸して上げた同人誌数冊と共に。

 私のコレクションの中でもかなりハードなものばかりだ。

 ようこそ腐女子の世界に。

 口元に思わず笑みが漏れる。

 しかし彼女の背中を見送ったとき、切なさが急激に私の感情に浮き上がってくるのを感じた。もっとゴリョウさんと一緒にいたい。彼女の笑顔、彼女の声、彼女の仕草、彼女の唇に触れていたい……。

 ヤバ。私って本当に目覚めちゃったんだろうか。

 違う。これは錯覚。

 女性ホルモンが過剰に分泌され、ちょっとテンションがおかしくなっているだけ。

 女の子とのキスは数に入らない、入らない、入らない……。

 そうだ。きっとナノマシンのせいに違いない。これはナノマシンのせい! ナノマシンが早速その効力を発揮し、細胞が活性化しているのだ。部屋に戻り財布から十円玉を取り出す。指先で摘み、力を入れるとクニャリと曲がった。

「うわ」と思わず声が出る。

 自分でやっておきながら、何回見ても信じられない光景だ。まるで牛乳瓶の蓋のよう。曲げたり戻したりを繰り返すと、十円玉が異常に熱くなっていることに気が付いた。これだけ膨大なエネルギーが私から発せられているのだ。死ぬほどの飢餓感に襲われるのも無理はない。

 ケイタイに着信。

 みると兄からだった。さっきの件の謝罪メールである。

 謝るぐらいなら初めからするな。まったく。

 添付画像があった。ソファーの上でゴリョウさんが私にしがみついている写真。

 とってもガーリー。

 やっぱりゴリョウさんは可愛いな。

 小っちゃくて、クリクリしていて、小動物みたい。

 ゴリョウさんの体温が生々しく蘇り、胸がキュンキュンする。これ、待ち受けにしよう。

 しかし、最後の一文を見て私は凍り付いた。

「この写真、モデル事務所に送ったら、社長さんが直ぐにでも会いたいと言ってきた。今度の日曜、観光がてら東京に来ない?」


 おしまい


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