戦闘
シラ。
エム・シラ・ビナク。あるいは鈴木花子。
自称異世界人の魔法戦士。
どこまでが本当かは解らないけれど。
少なくとも彼女は、退屈な日常を打破しうる力を持っていた。
「パトロールの時間です」と、シラが言い出したのは、夜の十二時を回った頃だった。僕はどうにかこっそりとシラを撮影することに終始していたので、そんなに時間が経っていたことに気付かなかった。わお、窓に穴が開いてから十時間くらい経過している。
シラはというと、僕のパソコンで何やら調べものをしていた。下半身下着のみで僕の椅子に座っていることに興奮して内容は見ていなかったが、見られて困るようなものは元々エンジェルたん対策で外付けHDDに入れて押入れに避難させてある。壁紙も健全な着衣画像だ。
「準備してきますね」
シラは部屋から出ていった。まさかあの格好で外に出ることもないだろうし、トイレにでも行ったのだろう。トイレだと? トイレから出たら僕が即座に入る為にこっそりと後をつけていく。と、シラはトイレではなく風呂場に入っていった。少しの逡巡の後、僕も続いて扉を開ける。
着替えていた。
「あ、ちょっと待っていてください」
シラは後ろ手にブラのホックをはめているところだった。隠す様子もないので遠慮なく見る。さすがに撮影はできない。逡巡さえしていなければと後悔する。既に下着は履き替えられ、ジャージと共に足元に転がっていた。一度全裸になるタイプか、こいつ。ヒザ丈のソックスを履いて、ワンピースのフリフリを頭から被る。袖を通して背中のチャックを上げ、髪を手櫛ですいた。ヘッドドレスを装着すると、トントンと軽く身体を揺すった。
最初に見た、川に浮いていた時の服装だ。
やべえ可愛い。
ゴスロリとかいうやつだろうか? 微妙に違う気もする。これだって非日常的な服装だが、シラの存在感には負けていた。あまりにも似合い過ぎていて服装の特異性が薄れる。シラも含めれば、全体的にはとんでもなく異質なのだが。
シラは着替えた服を丁寧に畳み、僕へと手渡した。
「これ、ありがとうございました。えっと、どうしましょう」
「ああ、僕が洗っておくよ」
「ありがとうございます」
もちろん洗わない。携帯しているジップロックではサイズが小さいので、部屋の大型衣類用を使う必要がある。匂いを嗅ぎたい衝動に駆られたが、口の中を噛んでどうにかこらえた。
下着に目を向けすぎていたが、ジャージだって、よくよく考えるとブラをしていなかったのだ。僕は綿とポリエステルに嫉妬した。
「では行ってきますね」
シラは笑顔でそう言った。
「どこに?」
「パトロールです」
「いや、場所さ」
「わかりません。この近辺だというのはわかっているんですが。とりあえず歩き回って探してみます」
そんな行き当たりばったりな。
「僕も行く」
「ダメです。危険ですよ」
「それでも行く。危ないのはきみも一緒だろ」
「私は……戦士ですから」
「僕なんか勇者だぜ。ゲームの中では」
「ゲームじゃないんです。命の危険もあるんですよ」
「別にいい」
「私が困るんです」
「僕は困らない」
シラは溜め息を吐いた。僕はジッと目を見る。
「……わかりました。じゃあ、私の側を離れないでくださいね」
これで巻き込まれることができる。例えばこの先、なにか事件でも起きるとして、関わることができる。
僕の望んだ非日常。しかも美少女ときている。
絶対に、逃がしてなんかやるもんか。
パトロールと言いつつ、シラが向かったのは最初に会った川原だった。
「この辺りにいるはずなんですよ」
「誰が?」
「悪の人さらいです」
「こんな時間にこんなとこ、誰もいないよ」
真夜中の川原には街頭も無く、時おり側道を通る車のライトが眩しいくらいで、人っ子一人いない。あと何時間かしたらジョギングや犬の散歩をする人がちらほら現れる時間だか、まだ早すぎる。空き缶回収の家なき子だっていやしない。
「データによるとですね、今、人さらいが狙っている人の住処がここなんです」
「データって?」
「さる情報筋から入手したんです。これによると、次に人さらいが狙っているのは、性別は男。中肉中背」
「どこにでもいそうなデータだな」
「そうなんです。他には、どうやらこの川原でよく過ごしているということしか……」
「それにしたって、こんな時間じゃなぁ……」
ん?
性別男で、この川原によくいて、そして中肉中背。
「それ、もしかしてぼ……」
最後までは、言葉にならなかった。
コンマ数秒の、物理的な衝撃。
「え?」
間の抜けた声は、シラからだった。僕の身体は吹っ飛んだ。道端のガードレールにべたりと当たり、床に落ちた。呼吸が詰まり身体を起こすこともままならず、腰と首に痛みが走る。
「またお前か……」
気怠げに発された言葉は、僕でもシラの声でもない男のものだった。低く威圧するような響きを含んでいる。寒くもないのにコートを着た痩身の男。シラと同じ色の髪を神経質そうに撫で付けてオールバックにしている。嫌になるほど美形で、やはりどんな人種にも似つかない。頭を打ったからか安定しない視界の中で、そいつは僕を一顧だにせず、シラだけを見ていた。
「イガーポップ……」
シラから洩れたのは、おそらくこの男の名前なのであろう、ロックミュージシャンのような音だった。
「大丈夫ですか?」
シラは僕に駆け寄る。
「だ、大丈夫」
なんとか答えると、シラは安心したように息を吐き、男に向き直る。
「いきなりなにするの」
「お前こそ、どうして邪魔をする?」
「守るって、決めたから」
「度し難い……」
シラと男……イガーポップは、どうやら顔見知りであるらしい。度し難いのは僕のほうだ。なんだこいつは。
「人間を浚うなんて、許されることじゃないわ」
「何度も言ったはずだ。必要なことなのだよ、これは」
「そんなの、勝手な都合じゃない!」
シラは僕と話す時とは豹変したように声を荒げている。そしてどうやら、おぼろげながら話が見えてきた。こいつが件の人さらいなのだ。
「とにかく、これ以上は許さないから」
シラはそう言って身構えた。
「エム・シラ・ビナク。お前は……」
「あの、失礼しますね」
シラは僕の頭を掴む。逃げられないようにガッツリとロックしてから、
僕の唇を奪った。
「―――――ッ!?」
何してんの!?
柔らかい舌が、僕の口内に侵入する。脳内ではファンファーレが鳴り響き、真っ暗なはずの視界が明滅した。
これは……気持ちが良いッ!
「はアッ!」
シラが駆ける。その瞬間、シラの言葉を思い出す。身体能力の向上。魔法。もしかして、人間離れした動きを見せるのかと、場違いに期待した。
が、遅いッ!
僕より遅い!
シラの動きは、素人目に見たってトロかった。ノロノロと振りかぶり、ノロノロと拳を出す。当然、そんなものが当たるはずも無く……。
「グハッ!」
馬鹿な!
当たった!
ノロノロと当たったくせに、イガーポップは吹っ飛んでいく。植え込みに激突し、ノロノロと立ち上がった。
「くっ……!」
結構なダメージを受けたらしく、イガーポップは口元から血を流している。どういう理屈だ。
「やっぱりそう。彼からエネルギーを得ていたのね。だから、あんなに強力なビームが撃てた。この力があれば、あなたなんかには負けないッ!」
彼って僕だよな。力を得た? どうやって。キスで?
キスでパワーアップするなんて、ホントに女児向けアニメの設定みたいじゃないか。
キスする相手は好きな人と相場は決まっている。
「シラ、貴様ッ!」
「私は人間を守る!」
なにやら形勢が決まったらしく、シラがポーズを決める。ギャグにしか見えないが、当人達は真剣なのだろう。
「これほどまでにお前が強いとは……仕方ない、これは使いたくなかったが……」
熱い展開……なのか?
イガーポップはポケットに手を入れ、何かを取り出した。
「そ、それは!」
予定調和のようにシラが驚く。なんだお前ら、芝居してんのか。
「くく、これでお前に勝ち目はない」
勝ち誇っているようなイガーポップ。そんな秘密兵器みたいのがあるのか。シラを見ると、本気で恐れているのがわかった。でも、僕にはそれが怖い理由がわからない。
だって、さあ。
透明な包み紙。両端をくるりと捻ってある。透けて見えるのは、乳白色の丸い玉。
キャンディー。
どこからどう見てもキャンディーだ。ミルキーみたいな。
「イガーポップ……あなた」
「悪いが使わせてもらう。こちらも遊びではないのでな」
御約束の展開すぎてやっぱりギャグにしか見えないが、二人とも互いの挙動に集中しきっている。僕はこっそり立ち上がる。
「後悔しても遅い。お前は、やり過ぎた」
なにやら勿体ぶりながら、イガーポップはキャンディーの包み紙を取ると、見せつけるように手のひらに乗せた。
「これを摂取することで、私は」
「えいっ」
バカみたいに演説を続けようとしていたので、僕は後ろから近づいて手のひらの上のキャンディーを奪う。
「なっ……」
「なんだこれ?」
ふにふにと指でつまむ。見た目はミルキーっぽいけどもっと軟らかい。
「返せッ!」
イガーポップが取り返そうと手を振るうのだけど、あまりにもノロすぎだ。軽くかわして距離を取る。相手が遅いだけなのだが、まるで自分が超人にでもなったみたいだ。
「やめるんだ! それを食べてはいけない」
「食ったらさ、どうなんの?」
口を開けてみせる。食うふりをしたら、シラまで慌てた。
「ダメぇ!」
「やめろ!」
ほうほう。
なにやらヤバそうな予感。
「んで、なによこれ」
「大人しく返すんだ」
「あそ。じゃあいいよ」
「あっ!」
ぱくりと。
僕はキャンディーを口に放り込む。柔らかなそれは想像に反して甘くはなく、独特の臭みがあった。油っぽい味が広がり、歯と舌にこびりつくようだ。粘土みたいな匂いがする。
端的に申し上げまして。
マッッッッズぅ!!
クッッッソマズい!!
なんだこれ最低だ! 人生でも一、二を争うマズさだ! つけダレに酒を入れすぎて酒臭くてさらに表面が炭化したけど中は生のエンジェルたん特製唐揚げのほうがまだマシだ!
「まずぅぅぅう! なにこれまっずぅぅぅぅうううう!」
「た、食べたんですか!?」
「食ったよ! クソマズいよ! ちょっと嗚咽がこみあげるわ!」
「このクソガキが……」
イガーポップが歯噛みして僕を睨む。
「こんなマズいって知ってたら食わなかったわ!」
「そういう問題ではないわバカ者!」
「うるせぇ人さらいが! 文句あるならかかってこいや! トロットロしやがってぶっ殺すぞ!」
負ける気がしない。あんなスローモーションのような相手になんか。
「……バカがッ!」
イガーポップに向かって突っ込む。やっぱりトロい。身構えただけだ。僕の右手がイガーポップに伸びる。
当たる。そう確信した、その瞬間。
「ごめんなさい……」
シラの声が、後ろから聞こえて。
「ギッ!?」
痺れるような感覚が走る。
「な、で……」
薄れていく視界の中で、シラが泣きそうな顔をしていた。
シラに攻撃されたのだと気付いたのは、僕の意識が途切れたと同時だった。