僕の性癖講座
平和になったらしいのだから、何か変化が起きるとでも思っていたのだけど、僕の生活は何も変わらなかった。
ただうすっぺらく、僕の趣味的な意味では濃い、だけど受ける印象が淡白な生活が続いていた。
狩人の一族。
イガーポップは捕まった。でも、他にも人間を狩る者がいる。
僕の尺度からすると、それは、どう考えても許されないことだ。
美女が、美少女が、いつか生まれる可能性を摘む行為だ。
もしくは、まだ誰も知らないエロスをいつか考え付く天才を、気付かずにさらってしまうかもしれない。
さらわれた人間がどういう扱いをされるのかはよく知らないけど、才能を開花させることはできないだろう。
人間とは多様性の生き物である。
このサイズの生き物としては驚異的な数で、地球を支配してきた。
数は単純に戦力だけど、そんなものは虫だって優れている。
人間の数だけ、新たな発想を生む可能性があるということだ。
同時発生的に、世界中で、人間という種類の生き物が覇を成し、それぞれに異なる文化を築いた。
例えば、西洋文化である。
個人的な感想では面白みの無い、言い換えれば合理的な文化だ。効率的な文化だ。だからこそ、世界中でメジャーな文化になれた。
合理的だから、戦いに強い。経済に強い。つまり、支配に強い。
蒸気や電気みたいに、常に世界の最先端を行く技術を生み出してきた。
便利なものは誰だって好きだ。だから数が増える。だから新しいものが生まれる。だから第一勢力なのだ。
では西洋文化で世界を満たせばいいのかというと、そういう訳でもない。
極端な話、すべての電化製品が世界中で同時に故障するようなことがあれば、西洋文化圏は壊滅的な打撃を受けるだろう。そして、生き残るのは原始的な生活をしている文化圏だ。
西洋医学は優秀だが、限界はある。それを、アジアの漢方が治してしまうことだってある。
同じ文化圏で育った人間には解けない問題も、違う文化圏から見れば簡単なことだったりする。違った目線を持つことでこそ、新たな発見だってできるのだ。
ひとつの強大な支柱に頼っていては、支柱に万一のことがあった時に共倒れしてしまうし、発想力に限界がある。
そうならない為の受け皿が、どうしたって必要なのだ。
それが多様性。
人間はそうして生きてきた。
人種以下略だって、よくわからないが優れた技術を持っていて、人類の知らないところで君臨している。そんな彼女らは、娯楽を生み出せないじゃあないか。
真面目腐った話をしたけれど、僕だってたまには真面目だ。
少し頭を休めようか。
日本語を少しも知らない外国人が、BUKKAKEという検索ワードだけは知っていたりする。それは、日本が生み出したエロスが、世界の第一線で受け入れられている証明でもある。
白濁で顔を塗りつぶす行為。
支配欲と征服欲を満たす、マーキングのような意味合い。同時に、端正な顔を汚す快感。目を瞑り顔をしかめ、それでも舌を出す女の献身に心打たれる。本来であれば中に出すべき白濁を、生殖的に意味の無い場所に吐き出す背徳。顔という、人間の重要なアイコンを塗り潰すサディスティック。
複合的に絡み合い、様々な需要を同時に満たす、生物的には無意味な、人類的な営み。それがBUKKKAKE。
葛飾北斎に描かれた蛸と海女は、触手という一大ジャンルにまで成長した。
可愛らしい女の子を汚す快感。ぐちゃぐちゃに、ドロドロに、現実では不可能なレベルの陵辱を加える。そして、その相手は自分以外の男ではない。
求めるは処女性。男と交わりを持たない無垢な存在。犯され、汚され、膜を失い、尊厳を失い、魔物のような何かに犯されても。男を受け入れない限り、それでも彼女は処女なのだ。
同じ嗜好の派生として百合が挙げられる。汚れの無い美しい関係性。そこに男の存在は無く、ただただ神格化された女性同士の交わりがある。
さらに発展すればフタナリとなる。女同士で、しかしエロスは欲しい。挿入という儀式が無ければ本当に交わったとはいえない。だが、男の介在は絶対に許さない。ならば、女に抱かれれば良いのだ。本来は美しい存在である女に、男のよく知る凶悪な棒が生えている光景。ちぐはぐな絵図のギャップ。そんなものもあるだろうか。
これらは先達によって築かれた、一種の文化の流れである。
当然、これらは一人によって作られた流れではない。無数の天才、鬼才、奇才。改良し改変し魔改造し、少しずつ積み重ねられた文化である。
本来は一般的な性癖とは言えないだろう。生きる為に必要な性行為とは一線を画すジャンルなのだ。
一般的。西洋的と言ってもいいが、あの洋物AVの、なんの工夫も無いただのセックスのように。
王道ではある。女としての魅力に溢れた体つきを惜しげもなく晒し、普通なら伴侶にしか見せない痴態を撮影する。
でも僕の目には、野生動物の交尾とさして変わらなく見える。
アイドル的に売りたいのなら理解できる。女優の魅力を前面に押し出し、身体の美しさや乱れる姿そのものを見せたいのなら、工夫はいらない。素材そのままを見せればいい。しかし、そんなものは稀なのだ。ほとんどは何の工夫も無い、無味乾燥な映像だ。
せめても、設定や服装を工夫しているものであればいい。僕はそこに人間を見出す。どう見せたいか、意図が解るものならいいのだ。
別に動物的なことが悪いとは言わない。獣姦などは人間を逆に動物的に見せようという意思が感じられる。
ただ洋物は、総じて意思のレベルが低い。最大公約数だ。メジャーだ。巨乳でスタイル抜群。整った容姿。それだけあればいいと思っている。
リビドーを、熱情を、自分の性癖はこうだという叫びを感じられないのだ。
僕は異端かもしれない。しかし、一人きりではないと感じている。
こんなにもたくさんのエロスが。リトル僕をツンツン刺激する、まったく新しいジャンルが。
世界中に、あるのだから。
僕は偏執的だと思う。女性の身体という神秘を愛しすぎていると思う。
女性には最も美しく見える時があって、それは服装だったり、状況だったり、表情だったり、パーツ単位だったりする。
僕はそれを整えることに終始している。
たぶん、特定の女性と縁を結ぶことは、生涯無いのだろう。
独身主義でもなんでもなく、女性そのものを受け入れることができないのだ。
愛情と性欲を、切り離すことができないのだ。
僕の愛し方は、セクハラと視姦だ。
僕はそれで満足だ。
そんな僕を受け入れる皿は多分、西洋文化の中には無かっただろう。
多様性の許される世界でなければ、僕はとっくに死んでいる。
セクシャリティが特殊な人間は、画一的な世界では生きていけない。
だから、僕は狩人を許せない。
多様性の芽を摘み取る行為を、絶対に許せない。
許しちゃ、いけない。




