20
薄暗闇が及んで、教会堂を飲み込もうとしているようにディータには見えた。
しかし教会を覆う堅固な岩壁の陰からこっそり中を窺うしか出来ない。
賊がこの街に向かっていると聞いて心配になったのだ。
ここまで来ておいて、どうにもこうにも足が動かない自分の根性が切なくて泣きそうだった。
「うぅ…どうしましょゥ。どうしましょう…」
何で此処に来てしまったのだろう、と後悔してしまいそうだ。
やってもやらなくても後悔すらならやって後悔した方が良いなんて誰が言ったのだ。
後悔するならどちらでも一緒ならやらなくてもいいじゃない、と思い至って帰ろうとした瞬間だった。
「ディータ様…!」
「…きゃー!」
目の前には神聖守護騎士。
思わず叫んでしまったが、心の何処かで見つかってはならないという圧力がかかって微妙な小声になった。
しかし逃げようとしても、足が動かない。
「なぜ、ここに…」
「い、言いたいことがっ…」
「…何ですか」
騎士は自分に危害を加えるつもりは無いのか、腕を組んでこちらを見つめている。
それとも、自分には何も出来ないと考えているのか。
実際何も出来ないが。
この騎士がいつも自分を蔑む様な或いは憐れむような目で見ていたことは知っている。
何か言って、またそんな目をされるのが怖い。
しかし、もう何度もそんな風に思われて、結局いまさらだという思いが勝った。
「あ、あの…みなさん逃げてくださィい!」
言いきった。
言いたい事を。
その安堵感と次に何を言われるかの不安感でディータはまた泣きそうになった。
「…賊の件でしたらご心配無く」
「ちっ違うんですっ。この街はもう…その、だめなんです!」
ディータは伝えたいことのいくらを伝える事ができただろうか。
騎士は何も言わず、しばらくディータの顔を見ていた。
「…何が仰りたいのですか」
「あ、え、と…この街は…神聖に、見放されているんです…よォ」
「どういう意味ですか」
「あの…あの、僕考えたんですゥ…なんでこの街には神聖が全然いないのかなって…そ、それってきっと、神聖が見放しているからなんだァって…神聖には預言がありますゥ…知っていたんですゥ」
何故かそうなのだという確信がディータにはあった。
彼自身がこの街から見る空が段々と離れてゆく…つまり、神聖の力の象徴である、夜の光が遠のいている事を感じていたからだ。
神聖はこの街の終りを予感…或いは預言し、この街の人間を見捨てたのだ。
「この街にはもう…力がありません。だから、もうこの街には神聖は来ません」
「…あなたは…何故、逃げないのですか」
騎士がディータの目を鋭い眼光で見つめながら言った。
なぜ、逃げないのか。
逃げられないからに決まってる。
なぜ、逃げられないのか。
「に、…逃げられるわけないじゃないですか…!」
そう言うと、突然、視界が歪んで前が見にくくなった。
だから何度も瞬きするが、それでも視界は開けない。
頬や眼を中心に熱が広がって頭の中もぐちゃぐちゃだった。
胸も苦しくて、息を呑んでもまったく収まらない。
どれだけ顔をぬぐっても、顔面から水分が無くなる事はない。
気がつけば袖がぐっしょり濡れていた。
それでもディータは必死に嗚咽を我慢しながら声を絞り出した。
「ひ、秘石の事だって…街の事だって…放って逃げられるわけないじゃないですか…!」
喉が痛くなって、頭が鐘の響くように痛む。
ディータには誰かを、何かを見捨てて自分だけが逃げる事など出来なかった。
それがディータにとってはとてつもなく恐ろしい事のように思えたのだ。
自分には何も出来ないし、どうする事も無かったが、それでも。
それでも自分が居る事で何か変わるなら、ディータは背を向ける事が出来ない。
だから結果が変わらない分、悔しかったし、自分の無力を嘆くしかなかった。
自分はどうしようも無い人間だと、逐一思い知らされる。
自分は何も変えることが出来ず、何も思い通りにはならない。
わかっていながらも足掻き、気づかない振りをする。
そうして人を不快な想いにさせて、それでも止めることの出来ない自分を謝りたかった。
誰に、何を謝ればいいのかもわからないのに。
「ディータ様…あなたは…!」
「ごっごめんなさい!」
騎士がディータの方に向かって歩み寄って来る。
ディータは思わず目をつむって身構えた。
騎士には随分と迷惑もかけていたし、どんな償いも受けるつもりだった。
「…あれ?」
しかし、何の衝撃も無く、さらには何の言葉も無かったために恐る恐る眼を開ける。
目の前には騎士の姿が無く、慌てて周りを見回すと、ディータの足元に跪く男の姿があった。
「…あ、あのゥ…」
「ディータ様。私は仕えるべき主を間違えていたようです。私は神聖教の理想を、神聖を尊敬して騎士になりました。しかし近年の神聖教の人に接する態度に失望し、この街に参った次第です。だが…私は、あなたのような方を、護るべきだったのだと思いだされました」
騎士が一体何を言っているのか、ディータには一瞬理解出来なかった。
騎士は顔を上げると、柔らかく微笑んだ。
そこに、今までディータを蔑すんだり、呆れたように見る目は無かった。
「ディータ様。お願いです。これからも、貴方をお護りする事をお許しください」
騎士然とし、忠義を誓う男。
ディータは彼の名すら知らないのだ。
そしてこんな時に、何と返すべきかもわからず。
「え、…あの、めっそうもありません…こちらこそお願いしますゥ」
そう言って涙でぐちゃぐちゃの顔を歪ませて、不器用に笑うしか出来なかった。
頼りなくへろへろと出された右手をとり、騎士は立ち上がる。
「ディータ様。私は今より貴方に従います。他の騎士達もそう、させましょう」
「あ、でも…でも、無理やりっていうのは…」
「いや、良いのです。彼らは私と思いを同じくする者も多いのです」
「そ、そうなのですか…だったら…」
ディータは今度こそ確実に、伝えたい事を騎士に言った。
その盗賊達の動きはまさに影のようであった。
ウルフ達も貴族街、黒門に向かうと、既に門は開いていた。
しかしウルフたちは一人としてその下手人の姿は見ていない。
ロマンの話に依れば、彼の仲間達が開けたのだと言う。
「このような門、軍隊なぞなくとも簡単に開ける事が出来るぞ。ここの貴族は我が身が一番可愛いのだから、少しつつけば兵力をすべて護身に集中させる」
「なるほどな…で、門を開けさせてどうするつもりだ?」
ロマンはにやり、と笑ってウルフの方を見た。
「今、ここに向かっているという盗賊を迎え入れさせる」
「なんだと…一体何のために…」
「それは彼らが来てからの方がわかりやすいだろ」
門の向こうの暗闇を見据えて言う、ロマン。
いったい今から何をしようとしているのか。
フィーネがロマンの服の裾を引っ張った。
「父さま…いったい何をするの?」
「フィーネ」
ロマンは小さな娘の身体を楽々抱き上げて、自分と目線を合わせた。
「君がここにいるという事が、ワタシという者が在る証。君が楽しく生き続ける事が幸せ。しかし、ロマン・グライリッヒとしては…君に名を継いでもらう事が繋がる証」
「…父さま?」
「フィーネ。今からワタシがする事を良く見ておくのだよ。これこそがワタシという者なのだから」
娘は不思議そうに頷く。
黄昏は過ぎ、闇夜が訪れようとしていた。
「この街に新たな風を吹かせよう」




