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「おはよう、ウルフ!」
朝、いつものように酒場に行くと、幼い少女が笑顔で出迎えた。
居場所を失くしたフィーネとセリムを匿うためにウルフがムスタファに預けたのだが、どうも違和感はある。
何せ柄の悪い酒飲み共の中に一人、幼い貴族の少女が混じっているのだから。
「どうしたの?あたし、ウルフのこと待ってたの」
にこり、とほほ笑む少女の笑顔は思わずウルフの右手をその小さな頭に乗せさせる程の威力があった。
ウルフは自分の行動に気づいて心の中だけで照れた。
「…使用人…セリムは?」
「わかんない。セリムも、たまにひとりでどっか行っちゃうから」
「仕方の無い奴らだな…」
あの男が手塩にかけて育てたといってもまだ幼い少女。
上流階級の者の考えはほとほとわからないと、ウルフはため息をついた。
「だいじょうぶだよ!どんなことがあっても、運があれば乗り切れるって父さま言ってた!」
「…運かよ」
娘に適当な事を教えるんじゃない、とウルフは思った。
誰かこの娘に世間というものを教えてやらねばならないとも思って、謎の使命感がむくむくと起き上る。
どうも最近、他人に引かれやすくなっている気がした。
人に心を許しやすくなっている気がするが、別段悪い気もしない。
「ねぇねぇ、ウルフ。この街を案内してよ」
「だめだ。今は危険だ。お前は狙われているんだぞ」
子供の目線に合わせてそう言うと、フィーネは頬を膨らませて眉を吊り上げた。
「だいじょーぶだもーん。フィーネのこと、ウルフが護ってくれるもん」
「…余計な手間は煩わせるな」
ウルフがそう、言うと、眉尻を下げてフィーネは唇を突き出した。
「んー…ん…あたしのせいでウルフが戦う事になっちゃったらヤだもんね…ごめんなさい」
「…わかれば良い」
この少女がどれだけの事を思ってそう言ったのかはわからないが、ウルフにとっては満足以上の回答だった。
誰かの言葉で心に灯が付く。
意図せず口元に笑みがこぼれる。
「驚いたな…お前もそんな顔をするか」
その声に我に返ってハッとする。
急に恥ずかしさがみあげてきて、顔を隠すように背を向けた。
「ムスタファ…」
「子供の力っていうのは凄いもんだな。お前もこの街から出る決心がついたろ」
ムスタファは相変わらずグラスを拭きながらそう、言う。
彼の表情はやっぱり無表情で、淡々としている。
ムスタファはウルフと同じく家族がいない身であったので、なんとなく近いものがあったのだが、今のムスタファのセリフにはウルフとの決別が含まれている気がした。
「…ああ。おれはこの街を出る事にする」
「そうか…この街はもう駄目だ。さっさとどこへなりと、行っちまえ」
「アンタ…」
ムスタファは気が付いていたのだ。
この街がすでに、手遅れな程に人の心を捕えて蝕んでいる事に。
長くこの街に住んできた彼だからこそ、栄光の時代を知る者だからこそわかるのかもしれない。
「アンタはどうするつもりだ」
「…」
ウルフの問いに、ムスタファは何も答えなかった。
事が動き出したのは、昼過ぎだった。
ロマンの面倒をみる代わりにと、出された金で食べた昼飯を片してコーヒーを飲んでいた。
「大変ですよ!」
突然大声で入ってきたのは使用人こと、セリムであった。
セリムはいつもより髪を乱し、息も切れ切れ、目を見開いていた。
「どうした…」
セリムは何も言わずに足早に店内に入ると、ムスタファに一杯の水を要求した。
ムスタファから水を受け取ると何も言わずに腰に手を置いてイッキに飲み干す。
「…ふう!」
「何だ、急いでんじゃないのか」
「急いでますよ!この街に賊が押し寄せてきているのですから!」
セリムが大声で言ったその発言は、酒場の空気と時間を止めるのに充分な破壊力であった。
おそらく、頭の中で皆さまざまな思考が駆け巡った事だろう。
「それって…どういう事?」
ぽやり、と言ってのけたのは子供の高い声。
その声を合図にして先ほどより倍は大きな声で人々が騒ぎ始めた。
続々と店を出て行く男たち。
残されたのはフィーネと、セリムと、ウルフと、店主ムスタファのみ。
「いやー。効果抜群でしたね」
なんとも軽い調子で笑うセリム。
しかし笑いごとでは無い気がする。
「おい、今のいったいどういう事だ」
「そのまんま、言葉の通りです。この街に賊が攻めてこようとしているんです。まぁ、ああは言いましたけど…実際は謎なのです」
「謎…?」
「偵察の話に依りますと、武装した集団がこの街に向かっているとの話です。
しかし武装しているとは言うモノの、銘々武器も防具もバラバラでとても統一された軍隊には見えないようです」
「賊か?」
厄介な賊がすでに街中にいるというのに。
いったいこの不毛の土地に賊が列をなして何の用だ。
「まだハッキリとはわかりません。しかし賊であろうと何であろうと…もし、彼らが街中に攻めてきたらどうでしょうか」
「街中?市民街という事か…?戦える者はおれらぐらいしかいないが…言っておくが使い物にならんぞ」
どうせ貴族も教会も助けてはくれないだろうし。
セリムはうなづいた。
「そうですね。なので、僕はこの街を棄てて逃げる事をお勧めします。民衆も、貴族も、教会もです」
「どういう事だ?」
「民衆のみなさんはまず、真っ先に逃げるでしょうね。もし賊のお目当てが金銭だとすると今度は貴族を狙うでしょう。あそこには兵士がいますけど、あそこも腐敗が相当進んでいるようですし、駄目でしょうし。もちろん教会が協力なんてしないでしょうね」
愈々この街も崩壊と終息に向かっているという事か。
ウルフは自分でもわからない感情を吐き出すように息をついた。
「それなら…良い」
「良いのですか?」
「この街にはもう、希望が無いだろ。預言は幻想の呪いだ。預言さえあれば、と思って奴ら自身は何もしようとしない」
「困りものですね。もし、この街から貴族が居なくなれば、彼らは戻ってくるかもしれませんが、貴族の統治…というよりか、武力無くば、賊たちの格好の餌食にされてしまうかもしれないですし」
人の力というものは、なんて弱いのだろう。
結局大きな力に頼ることしか出来ないのであろうか。
何かの力が欠ければ、こうまでも脆く崩れ去ってしまう街。
いがみ合っていても、結局はお互い依存していたのか。
「…おれがこう言うのも何だが…国は何故、この街の貴族の横暴を許していたんだ?」
「割と単純な話なのですがね…数度にわたり、この街にも視察の者が訪れていたのですが…ま、僕も経験した通り、買収されたか殺されたかのどっちかでしょうね。だから僕たちのような変わり種貴族が召されたわけですが」
「買収もされないし、殺されもしないという事か」
「その通りですね。しかし一足遅かったようです…実に申しわけありません」
彼は背を向けて、語尾がわずかに消えるようにそう言った。
セリムは為政に関わる者としての恥を感じているのかもしれない。
彼のような為政者ばかりならば、この街も或いは。
それこそ幻想の話だと思い、ウルフは自嘲した。
「お前もやはり、まだ子供だな」
今まで彼が気丈に振舞っていたのは、後悔と恥を隠すためなのかもしれないと思い、ウルフがそう言った。
「僕もまだまだ精進中の身だって事です。さて、お嬢様、ウルフさん、少しお仕事ですよ」
振り向く少年の顔からは既にあどけなさは消えていた。




