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姿を失くした月に獣が嘆く地に、
夜明けを纏う聖なる馬が、
黄昏と闇夜の合間を駆け抜け、
燦々たる陽の光を齎すであろう。
「さぁ、諸君」
男は、今にも燃え尽きてしまうかのように痛く輝く星空を背に、両手を広げた。
見せてみろ、と笑う風が男の髪と衣服を揺らす。
「破壊しようでは無いか。虚ろな夢の中の、哀れなる愛しき獣のために」
睫毛の先に星の光は落ちて舞った。
星の無い夜、この世界は闇の中に包まれる。
やさしい暗黒に包まれながら、この世を深い眠りへと誘う。
風はやさしくこの時を待ち、わずか頬を掠める熱がやがて過ぎるものを告げる。
漆黒の衣を身にまとった男がわずかなろうそくの揺らめきを灯す光を瞳に映した。
地面に突き立てる白銀の剣が光をじわり、と飲み込む。
「…やるぞ」
今日こそこの世界の歪の扉を解放するための鍵を開けるのだ。
扉は軋み、吹きさらしの室内には今にも足の折れそうな机と椅子がまばらに置いてあった。
無造作にその椅子に座りながら粗末な身形の男たちが昼間から酒を飲んでいる。
いつもと変わらぬ風景であったが、ウルフは少し違和感を覚えた。
「ムスタファ、昨日より人数が減ったか」
「ああ、また街を出たらしい」
「そうか…」
このボロボロの屋敷の主であるムスタファは白い髭を揺らして無感動に言った。
元はただの酒場だったが、今は一応自警団の本拠地という事になっている。
民衆が組織した腕に自信のあるものの集まりであったが、当初より頭数は半分減り、賑わっていた頃の酒場の様相は既に失われている。
ウルフはいつものようにカウンター席の隅に座った。
「今、教会の奴らは信者の教会離れを防ごうと必死だし、金持ち連中はそれに対抗しようと躍起だ。
おかげさんで最近じゃ荒れ具合が冗談じゃない程だな」
「おれたちも同じ穴の狢だ」
ムスタファはウルフを見ずにただ黙々とグラスを磨いた。
良い酒が手に入らない今、酒場として営業する事は不可能であるのに、彼はそうせずにはいられなかった。
その様子をウルフは横目で眺めながら、哀れだなと思う。
今この街は、3つの勢力が武力を有し、それぞれ対立している。
街の東側、貴族や金持ちの住む高級街にはこの街を統治する貴族が持つ警備隊。
この街を見下ろす北側の山には教会の有する守護騎士連隊。
そして西側には民衆が住む一般住宅街を守護する自警団。
そもそもこの国では普通、街を守護するのは王から爵位を与えられた貴族が権力を扱う警備隊である。
街やそこに住む人々をあらゆる災厄から守るための組織であるが、この街ではそうではなかった。
街を統治する貴族が私腹を肥やすために組織を使った。
民衆は搾取され、逆らうものには容赦なく暴力をふるった。
耐えかねた民衆はいずれ、救済の道を教会へと求める事となる。
教会には神聖と呼ばれる異能者を守るための守護騎士が居る。
守護騎士の一連隊を有するこの街の教会は、充分貴族と対すだけの武力があった。
最初は民衆の助けとなっていた教会であったが、徐々に別の顔も見せ始める。
教会は民衆を助けるための見返りを求め始めたのだ。
いずれ、教会とも袂を分かった民衆は、既に己の力のみしか頼るものは無かった。
そのために作られたのが自警団である。
最初はまだやる気と気迫に溢れていた自警団であったが、それも失われていくのにそう時間はかからなかった。
信頼の道を断たれた二度の裏切りは痛烈に民衆の心を切り裂き、荒廃させるには充分であった。
街は段々と機能していかなくなり、じわり、と廃れていっている。
今も滅びに向かい続けるこの街には既に希望を意味する光は失われていた。
人々の半数はこの街からすでに去っている。
顔も見せぬ月に、輝きを忘れた星、太陽だけが愚かだと嘲笑う。
「やる気が無くなるのも無理はねぇな。お前もさっさと見切りつけてどっか行っちまえ。若いんだからなんとかなろうよ」
最近、ムスタファはウルフの顔を見ればそればかり言う。
しかしウルフは決まって苦く笑いながら言うのであった。
「おれの居場所がいったいどこにあるっていうんだ」
以前は壁一面に貼られていた依頼書も、今やその数は両手で数えられる程だ。
もはや人々は助けを求める事さえ忘れている。
ウルフはざっと眺めて一枚の紙を手に取った。
「そいつはお勧めしねぇな」
ため息をつきながらムスタファが言った。
ウルフは嘲笑いながらその紙を丸めてムスタファに投げた。
「暇つぶしにゃ丁度良い」
ムスタファはグラスを磨く腕を止めてちらり、とウルフを見た。
「あんまり自分を過信すんじゃねえぞ。お前は危なっかしくてなんねぇ」
「あんたが心配する事じゃない」
冷静に言葉を交わしあって、ウルフは店を出た。
依頼に書いてあった、約束の場所はすぐそこだ。




