父の苦悩
ノイラの居ない間、エレナはただ食べて、動いて、寝るだけの生活に心底では納得していなかったのですが、領主様の代行であるご子息様にはっきりと「君に掛ける労力をこれ以上増やすつもりはない。大人しくしていたまえ」と宣告され、ただ茫洋と過ごしました。
だからでしょうか、夜中、旅に出たときのようにひっそりと森の中から帰ってきたノイラが、旅装も解かずに別館に飛び込んで、真っ直ぐエレナの所に帰ってきて言った、ただいまの一言が嬉しくて笑顔でお帰りなさいと返したのは。
「久しぶり!エレナの良い匂いがする……お腹空いた!」
「私の匂いじゃなくて魔力に匂いですよね、夕飯は召し上がられました?」
「食べてきた。魔力食べても良い?」
期待に瞳を僅かに輝かせ、鼻息荒く迫るノイラですが、エレナはそれをやんわりとやり過ごします。
「久しぶりで食べたいのは解りますがまずはお風呂に入って、服を着替えていらしてください。私もその間に準備します」
「うー、今すぐは駄目?」
「駄目です。さ、いってらっしゃいませ」
「すぐ!すぐ済ませてくるから!待ってて!ディジィ、お風呂入る!」
お母さんに手を洗ってきなさいと言われた子供のようにディジィを引き連れて部屋を出て行ったノイラの背中がドアの向こうに消えてから、エレナは安堵の吐息を漏らしました。
それというのも一ヶ月の討伐、どんな行程だったかはエレナには解りませんが色々苦労もあっただろうに、元気にノイラが戻ってくれた事に心底安心したからです。
ソレはさておき準備しておくとは言ったものの、する事と言えばノイラが部屋に飛び込んでくる前に運ばれてきた桶の湯で身体を清める程度です。
手早くソレを終えるとエレナは一ヶ月ぶりの魔力を与える瞬間を心静かに待ちました。
そうしているとしばらくして多少草臥れたズボン姿の旅装から、白いネグリジェに着替えたノイラが部屋に戻ってきました。
まだ乾ききっていない髪で蝋燭の灯りの中に尾を引きながらエレナの近くへ駆け寄ります。
であった当初のノイラならここで飛びついている所ですが、この時はノイラはエレナの傍に寄り添うだけに留まりました。
そして聞いたのです。
「あのね、食べてもいいよね?」
そういわれたエレナは、すぐに食べさせてあげたい気持ちと、旅の中どんな事があったのか聞きたい気持ちが争って、ノイラの無事を本当に確かめたくて、旅の話をほんの少しだけ聞く事にします。
「食べる前にちょっとだけ。討伐の旅はどうだったか聞かせてください」
エレナに旅の事を聞かれたノイラも、早く魔力を食べたいという気持ちと同時に久しぶりに顔を合わせたエレナと話したいという気持ちが湧き上がってきて、それを不思議に感じながらも旅の話を始めたのでした。
「特に変わったところはなかった。魔獣も一口で全部平らげた」
「何か困った事はなかったですか?」
「無い。魔力食べられなくてお腹すいたくらい」
そういうととうとう我慢が聞かなくなってきたのか、エレナに抱きつくノイラの頭を撫でながらエレナは言いました。
「そうですか。それなら良いんです。それじゃあ、召し上がってください、お嬢様」
「うん!」
エレナの許しに僅かに表情を緩ませ、ノイラはエレナの背中に腕を廻してからその全身を忌み子で包みました。
そして自らの足元にも忌み子を出現させ、それを蠕動させ滑る様に移動しエレナを寝台に寝かせます。
寝台の上に寝かせたエレナに抱きついたまま、ノイラも眠りにつきました。
「エレナ、エレナ、久しぶりのエレナ」
と呟きながら。
いまだ月が空高い内に再び目覚めたエレナ、何かにまとわりつかれている感覚に自分の身体を見てみると、しっかりと抱きついたノイラを見つけました。
久しぶりに感じる一つ下の少女の身体の感触に、安堵を覚えて再び眠りに就くエレナでした。
そうして夜が明けてまだ別館を朝霧が包む時間にエレナとノイラが目を覚まします。
「おはようエレナ」
「おはようございますお嬢様。早速召し上がりますか?」
二人とも寝ぼけ眼を擦りながら、お約束の朝の挨拶をこなします。
「うん。あぁ、ゆっくり魔力を味わえる方法があればいいのにな。魔力は一口でしか食べられなくて、すぐ味も消えちゃう。あの味がずっと続けばいいのに」
「続かないなら回数で補えばよろしいのでは?さぁ、どうぞ」
「何度でも味わえばいいなんて、贅沢な言葉だ。きっと今の私、どんな王様よりも凄い贅沢してる」
そう言って、ノイラは忌み子をエレナの身体に広げていきます。
「今日もエレナを食べられる。私は幸せ」
そうしてエレナは影に覆われ、すぐに元に戻りました。
後は朝食が運ばれてくるまでエレナは夢も見ない休息の中です。
「エレナ、エレナ。私のエレナ。美味しくて、優しい、空腹と言う無限の苦痛を安らぎの満腹感で消してくれる私の天使。大好き」
熱に浮かされたように言葉を紡ぎながら、ノイラは四つんばいでエレナの上に身体を重ね自らの頬をエレナの頬に重ねます。
そしてその感触を感じながら目を瞑り、何度も何度も魔力を食べる瞬間の快感を反芻します。
エレナと出会う前のこの部屋は正しく牢獄でしたが、今のノイラにとっては幸せな二人の世界なのです。
しかしそんな世界も朝食が運ばれてくるまでの間の僅かな命。
食事を運ぶメイドによって世界の扉を開き他人が現れ、今日も二人きりの世界は消え去るのでした。
一方、領主様はそんな二人の関係をきちんと把握していました。
そして、悩んでいました。
「オルス。今のノイラと糧の少女の関係をどう思う」
朝食を食べ終わりご子息を執務室に呼び出した領主様は自分と同じ銀髪長身の青年にそのような事を問いかけました。
「一見良いように見えます。ですが先のこと、それは一年後かもしれないし何十年の後かもしれない、そんな先の事ですが……その時に危険であると思います」
「そうだな。あの娘を失い魔力の供給が途切れた時、ノイラは最悪の災禍となって世界を襲いかねん」
「あの娘、魔力が回復したと解った直後に殺すべきだったのではありませんか」
「……理でいえばそうだったかもしれぬ。だが私には哀れなあの娘への救いのような気がしたのだ」
「あのような者!母を奪った奴のような者など飢え続けていれば良かったのです!」
領主様がノイラへの同情を示した瞬間、ご子息……オルスはカッと顔に紅をさしたように端正な赤く染め怒りを示しました。
「オルスよ、アレが母の命を故意に奪ったのではない。神が召し取っただけだ。そのようにノイラを恨むな……将来はお前が自身で使いこなさねばならぬ相手だぞ」
「……はっ、出すぎた事を申しました。申し訳ありません」
「アレもお前と血を分けていると言う事を忘れるな。お前ももう母の恋しい年ではないのだしな。と、それはそれとして将来的に万が一ノイラより先にエレナを失った時の事を考えねばならん」
威儀を正して話の流れを修正する父の発言に、オルスは冷たい声で言いました。
「殺してしまえばいいのです。獣は腹がくちくなって油断している間に殺してしまえばいいのです」
「……お前にノイラが殺せるか?以前は私と拮抗していたが、日々魔力を喰らい続けたアレはすでに私の力を大きく超えているぞ」
父の言葉に苦い顔をするオルス。
彼も優秀ですが、魔法の力と言う点で言えば父に一歩譲りますし、何より影で即座に相手の所へ不可避の食いつきを行う忌み子の力は正しく魔法使い殺しです。
それにノイラはあれで戦闘に対しては抜群の才能を示します、恐らく不意打ちも効かないでしょう。
「私で無くとも暗殺の手の者を使うなり食事に毒を仕込むなりすれば……」
「今のノイラの状態ではエレナを失った瞬間に自棄になるやもしれん。一番簡単な展開なら全てを投げ捨て後追いで飢え死にしてくれるというものだが……確実とはいえんな」
「ではどうなさるのです父上、どうしようもないではありませんか。アレが暴走して世界に仇成したなら、我らの血統の名誉は地に落ちますよ」
オルスの言葉を機に、沈黙が下りる室内、父も息子も口を閉ざし考えを巡らせます。
それは俗に言う奸計というものでしたが、いつしか腕を組み思考に沈んでいた領主様が口を開きました。
「毒を、用意しよう」
「毒ですか?ですが父上は先ほど毒は確実ではないと……」
「あの娘へのノイラの執着を利用する。そして確実に服毒するように誘導する」
「その方法は?」
そのような巧い方法があるのかという疑問をありありと浮かべた表情でオルスが領主様に聞きます。
「ノイラに何かは言わずにエレナが死んだら飲むべき物として毒を渡す。死んだエレナが行く場所にお前を運ぶ薬だとでも言ってな」
「それは……それでどうにかなりますか?」
領主様の難しい顔に疑問を呈するオルスですが、領主様は解らぬという風に首を振りながらも言いました。
「何も手を打たぬよりは良いだろう。策の要はノイラがどれほど私を信頼しているかと……エレナを一時的になんとかノイラから引き離し、怪しいと思わせぬ事。あの娘はノイラ贔屓が過ぎる」
「もしもの時の凶手にはできぬと?」
「うむ。それに私達は万が一エレナがノイラより先に死んだ場合を話しているのだ、万事こちらで仕込むしかなかろう」
「そうですね……毒の入手は?」
「私が信用できるものを使い行う。オルス、お前も信用できる配下を作っておくのだぞ」
「承知しております。それが家門を守るためならば」
「よろしい。では下がれ」
「はっ」
話が終わり、オルスが出て行くのを確認すると領主様は深いため息をつきました。
そして執務机の前の椅子に身を沈め苦悩の表情で呟きました。
「何故ノイラがああ生まれたのか、なぜエレナなどという娘がアレの前に現れたのか。そもそも神はなぜ魔力喰いなどという者を……いや、これ以上は言うまい。」
そこに残ったのは実の娘の排除まで考えねばならない立場に疲れ果てた、孤独な父親の姿でした。