少女幻想
「お兄ちゃんお兄ちゃん、どうして空が青いの?」
「俺が知るかよ。真奈の方が詳しいだろ」
「ぶー……私しらないもん」
「はぁ……調べておいてやるよ。また今度な」
「やたー!」
夕日が灯る河川敷で、兄妹は歩いていた。季節の頃は二人の服装を見る限り初夏だろうか。少し涼しげな恰好をした少女が、ジーンズを履いて暑さを我慢している少年について歩いている。少年の手は塞がっていた。片方は買い物袋で、もう片方は少女の手で。しかし彼は幸せそうだった。表情自体は曇っているものの、その目の輝きから察するに、彼は妹である彼女の事を好いていた。勿論家族的な意味で。
高山直登・真奈兄妹。近所ではそれなりに名の知れた仲の良い兄妹である。二人の両親が共働きだった事も影響してか、直登は真奈の親代わりとでも言える様な存在だった。それほどにまで大きな存在だった。
河川敷から道路を渡って歩いた場所に二人の家はある。一戸建ての家で、築数年の新築だ。高山夫妻が二人の為に、と購入したのが数年前。真奈が丁度小学校に入学する直前だった。それ以来、真奈の兄である直登は真奈の散歩に付き合わされているが、彼にとってこの光景は素晴らしいと表現出来るものだった。彼にとって妹とは、かけがえのない家族であり、共働きで両親と中々会えない彼にとってはたった一つといっても過言ではない存在。互いが互いに依存していると言う状況に気付いていない。
「お兄ちゃーん!早く早くぅ!置いて行っちゃうよー?」
「バカ、手ぇ離すなっつったろ。危ねぇじゃねぇか」
青年は少女が自分を離れて走っていく様を見ながら、優しい声で叱った。この河川敷を渡る横断歩道にはガードレールが存在しないのだ。下手に歩かせるととんでもない事が起きる。慌てて一方の手に持っていた買い物袋を手繰り寄せて腕の仲で固定し、妹を追いかけた。信号は赤。小学生の妹と言えど、信号機の機能くらいは分かっているし、危険も承知しているだろう。そう高を括っていた。
真奈は横断歩道の前でジャンプしながら直登を待っていた。その姿はまるでウサギだな、と心中思った直登は足を遅めて笑みを溢す。
そこで直登は異常を視界の隅に捉えた。進行方向に、トラックが走って来ていた事を確認する。しかも、速度を考慮せずに、ガードレールのない河川敷を跨ぐ道路を車体が若干ながら歩道に侵入していた。その侵入距離はおおよそ10cm。たかが10cmだと侮る事なかれ、10cmでも、小学生女児に直接衝突するのであれば、弾丸となんら変わりない。しかもトラックときた。入院だけでは済まないだろう。
「真奈ッ!」
直登は買い物袋を地面に落として放置し、足に爆発的な力を込める。ありったけの、火事場の馬鹿力だと言われればそうだったと答える事しか出来なさそうな反応と脚力だった。地面を蹴る足がミシミシと音を立てて悲鳴をあげるのを、直登は無視した。家族を殺すのと、足が泣くのとどちらを取るのだ、と自身に言い聞かせて鞭を振るった。
「わぁお兄ちゃん早ーい!どうしたのそんな真剣な顔して?」
「舌噛むぞ真奈ッ!口閉じろッ!」
直登は妹に指示を出すと肩を強引に掴んで自分の走ってきた後方へと投げ飛ばす。その行為によって発生した妹真奈の移動距離は1m程。そして、慣性の法則によって兄直登の移動距離は、妹を投げ飛ばした事によって更に前へと進んで行った。瞬間、
ごしゃぁっ、と骨と肉を砕く音が周囲に木霊した。
「お兄ちゃ──────」
真奈が声を漏らした時にはもう遅かった。変形していく兄の肉体を丁度その目に焼き付けてしまい、その異常性から小学生女児の理解能力を越えてしまう。轢かれた?何故?兄がどうしてそんなことに?
意味の無い言葉がぐるぐると真奈の頭の仲を巡る。理解が追いついていないせいでぼんやりとその変形した兄のいた地点をぼうっと見ている事しか出来なかった。
ゆっくりゆっくりと状況を整理していく。兄、トラック、通過、兄がいない。これらの材料から真奈は判断を下す。
──────兄は、車に撥ねられた。
「あぁ……うぐっ……ひっく……」
嗚咽混じりに少女の泣き声が人通りの少ない河川敷に木霊する。理解したくなかった。だってそれは、少女の大切な家族が失われた事と同義だから。だってそれは、彼女が一人で生活する事を示しているから。だってそれは──────あってはならない事だったから。
べとり、と少女の頬に液体が付着する。液体と形容するよりは、肉片と形容するほうが正しいだろうが、その肉片は彼女の頬を赤く染めた。生温かくその肉片は少女の頬を伝う。呆然としている少女に、トラックの運転手が運転席から出てきて駆け寄った。トラックの運転手はもう少年の事を諦めているのだろう。少女に寄り添ってタオルを渡すと携帯を取り出して何処かに電話を始める。蒼白した運転手の顔色からして、彼は兄を殺した事をちゃんと償うつもりだろう、と適当に判断して、少女は呆然と虚空を眺めていた。
──────兄が撥ねられた?あの兄が?
未だに信じられない、と言った様な口ぶりで少女は呟いた。片割れ、依存対象、唯一と言っても過言ではない家族。その兄が撥ねられた。事実だけが彼女を叩きつけて、彼女は事実に呆然とするしかなかった。
「ごめんよ嬢ちゃん……謝って済む話でもねぇけどよ……悪い事しちまった」
その声だけ聞くと、少女は意識を切断した。浮遊感が彼女を襲い、彼女は思考する事を止めた。
「嬢ちゃん?おい嬢ちゃん!?しっかりしろよ嬢ちゃん!!くっそ……」
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少女が目を覚ましたのはベッドの上だった。周囲は白い壁床に覆われていて、小学生ながらもこの状況に対して正しい判断を下した。ここは病院なのだ。何故自分は病院にいたのだろうか、と。
起き上がろうと腹筋に力を込めて布団を剥がすと何やら白い服装。病院のものではない事は理解出来た。しかし、この白い服装に何故変わったのかが理解出来ない。
「真奈、起きた?」
病室から出ようとして扉を開けるとそこには見慣れた母の姿があった。服装は漆黒。気味が悪い程に一色に統一された母の服装に吐き気がした。
「起きたよママ。ここは何処?」
「病院。あなた、寝たまま六時間も目を覚まさないんだから心配しちゃって。ママったら大人なのにね。恥ずかしいわ」
母が抱えている黒色の写真立てに違和感を感じる。
「……それ、何?」
「あぁ、これ?」
そう言って、真奈の母は写真を少女に向けた。額に入っているのは、ついさっき見た兄の顔。にこやかに笑っていた写真がなかったらしく、その笑顔はどこか引きつっているように感じる。
「ほら、真奈。お兄ちゃ───」
「嘘だ」
母の言葉を強制的に断ち切って、言葉を被せる。否定した。その異常に、母は驚愕する。目の前で見た光景を否定した事に対して疑問が浮かんだ。何故否定したのか、その思考だけが回り、仕舞いには母は再び備え付けのベンチに横たわってしまった。
「何故あなたは、否定出来るの……?私には出来ない。あの子の死なんて認められないけど……事実だもの」
「嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ────ッ!」
少女は力いっぱいに叫ぶ。ここが病院であって、大声を出してはいけない事くらいは彼女にも理解出来る。しかし、彼女にその理解を適応させろと言う方が難儀だ。彼女は今、精神的に不安定にも程がある。彼女が今この否定の行為を止めてしまえば、彼女は兄を追って自殺していただろう。
「お兄ちゃんは死んでなんかいない。お兄ちゃんはだって、生きてるんだッ!生きている人をそんな風に扱って恥ずかしくないのママッ!私は恥ずかしいよ。お兄ちゃんが穢されたッ!お兄ちゃんが侮辱されたッ!お兄ちゃんは、お兄ちゃんは──────」
一体、彼女の兄は最後に何をして彼女を守ったのだろうか。
「──────お兄ちゃんは、生きてるよ」
少女は訳もなく肯定する。少女は兄の死を受け入れられなかった。少女は兄の事を全てだと思っていて、少女は兄がいないとおかしくなってしまいそうだったから。
「だってお兄ちゃんは、ここにいるじゃない」
そういって、少女は虚空を指差して笑った。
「ね、お兄ちゃん?」
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「ショックから引き起こされる精神病の一種ですかね。良くある事だ」
「そ、それは、治るんですか?」
「当たり前でしょう?精神病の種類にもよりますけど、お子さんの種類の精神病は現実逃避だ。現実を受け入れられたら、この状態は脱する事が出来るでしょう。ただし───問題はここからだ」
医者は言葉を区切り、母に言い放つ。
「現実を受け入れた時、彼女が現実に耐えられない可能性がある。もっとも、この症状が起こる原因は現実を受け入れると不味いからです。つまりは、脱してから現実を受け入れられなければ、彼女は精神的に崩壊する」
しかし、医者が事実なので言葉をぼかす事をしなかった。当たり前だ。治る、とだけ言っておいて治った後の事のケアをしない医者は医者として失格だ。医者はできる限り母親に任せようと死力を尽くす。
「いってしまえば、私たちから手を出す事が出来ないんですよ。サポートは出来ますけど、結局は彼女自身の問題になる。彼女に任せましょう」
その声を聞き、少女は暴れようとする。少女は隣に座ってじっとしていたのだが、医者の言葉に腹を立てたのだろう。ピンク生地の中心にハートがあしらわれたタオルを振り回して、椅子を蹴飛ばした。
「あなたまでお兄ちゃんを否定するのッ!?お兄ちゃんは此処にいるでしょッ!ほらこのタオルを持ってるでしょッ!?これでも否定するのッ!?ねぇッ!ねぇってばッ!!」
「真奈、あなた少しは落ち着きなさいって何度言えば」
「違うよママッ!この人はお兄ちゃんを否定したんだッ!人の存在を否定したんだッ!だから、だから私は怒ってるんだよッ!!」
手を目一杯振り回しながら主張する彼女を滑稽だと言う者はいまい。理由は言わずもがな、彼女の目は真剣そのものだったからだ。彼女は誰よりも兄を愛していたし、依存していた。その依存するものがいなくなれば、代わりに偶像を使って現実を拒絶する事も仕方ない事だろう。
「お兄ちゃんはッ!お兄ちゃんはそれでいいのッ!?良くないよね。当たり前だよねッ!お兄ちゃんは人だもん。お兄ちゃんは人間だから自分の存在が否定される事なんて嫌に決まってるよねッ!」
「真奈!!」
母親として、彼女をこんな風にしてしまった責任として、彼女の母は彼女を制止させる為に抱擁した。母の肩が小刻みに震えている事が真奈には感じ取れる。零距離とはそのような距離なのだ。真奈はどれだけ母が悲しい思いをしてきたか、どれだけ辛い思いをしてきたかを悟った。
「お願い、もう止めて……!もう直登はいないの。直登は死んだの!」
しかし彼女には届かない。それだけ辛かろうと、どれだけ悲しかろうと、彼女の兄を否定したという事実だけで母の感情は掻き消される。兄を否定した。兄がいないと言った、ただそれだけの理由で。
「ママまでそんなこと言うのッ!?ここにいるじゃないッ!お兄ちゃんは私の隣にいるじゃないッ!」
彼女は虚空を一生懸命に指差して、宣言する。
「そんなものはないの。全部真奈の妄想なの!何度も言ったわよ?お兄ちゃんは死んだって。お兄ちゃんの骨まで見せて、その死亡時の写真も見せて!それでもまだ認めないの真奈!!」
母親は精一杯の力を込めて彼女の胸ぐらを掴み、足を地面から離した。空中で成す術の無くなった彼女は必死に抵抗しようと腕を振り回して母親の胸を叩く。固く握られた拳から感じるのは、彼女の思いだけ。彼女が信じきった架空の兄の存在だけ。重みは一切感じられない。母の胸部へと衝撃が吸収されて骨を叩く音すらも出ない。
「いるって言ってんでしょうがッ!いるってッ!ここにお兄ちゃんがいるのッ!いるのォォォォォォォォッ!!」
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「お兄ちゃん、ほら、ご飯だよ」
少女は虚空に向かってスープの入ったスプーンを差し出す。その丁度正面に兄がいるかの様に振る舞っている。食卓を囲むのは、彼女の母と彼女のみだ。父は仕事があると言って帰宅しない。もっとも、母に彼女の世話役を押し付けたと言って仕舞えば否定出来ないのだが。
「ほらほら、直登?折角真奈が食べさせてくれるんだから、早く食べなさい?」
母は諦めていた。医者に言われたように、結局は個人の問題でしかないのだ、と自分に言い聞かせて、架空の兄を認める事で母は彼女との距離を保っていた。
「もう、お兄ちゃんったら。私が頑張って作ったんだよ?食べてくれないの?」
真奈は猫撫で声でそういった。母はその声に苛立ちではなく諦めを覚える。そういえば、自分が家に帰れていなかったせいで真奈の世話は全て兄である直登に任せていた。だから兄には懐いていて、母である私に対してはあんなにも冷たかったのか。
「むぅ……今日だけだからね?ちゃんと食べてよ?」
スプーンをスープ皿に戻して、真奈は食事を再開する。架空の兄を挟まない会話は成立しない。辛うじて真奈は母の存在を認めているものの、会話をするまでに心を許していないようだ。
「………ねぇ、真奈?」
「話しかけないでママ」
ぴしゃり、と真奈は母の言葉を冷たい声色で断ち切った。これ以上会話を繋げる方法を思いつかず、母は口を開く事を止めて、食事を再開する。
「真奈、お兄ちゃんは今何処にいるの?」
耐えかねて母は口を開く。
「嘘つき。もう死んじゃえ」
兄を肯定していた事が嘘だと感じ取ると真奈はそう吐き捨てた。
「…………」
母は、この数日後に首を吊って死んだ。その目の前には、『ごめんなさい』とだけ記されたメモ用紙が置いてあった。
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「えへへー。お兄ちゃん、もうこれで二人きりだね」
虚空に向かって少女は照れる。
「んもう、別に大した事してないってば。私はお兄ちゃんと今まで通りに接して来ただけだよ?」
虚空に向かって少女は笑う。
「お兄ちゃん……私を助けてくれたんだよね」
虚空に向かって少女は呟く。
「お兄ちゃん、私の為に、死んだんだよね」
虚空に向かって少女は事実を再確認する。
「ううん。分かってたんだよ。お兄ちゃんは死んでるんだって。でもね、認めたくなかったの。お兄ちゃんが死んじゃったら、私、私……独りぼっちになっちゃうんだもん」
虚空に向かって少女は涙を溜める。
「お母さんは分かってくれなかったよ。自殺なんかしちゃって、私、悲しかったな」
虚空に向かって少女は手に持たれた包丁に視線を向ける。
「うん。もういいの。私は満足したよ。だから、ここにコレを用意したんじゃない」
虚空に向かって少女は笑い、包丁を喉元に当てた。
「さよなら、私のお兄ちゃん」
虚空に向かって少女の血液が宙を舞った。
いつか僕はグッドエンドを書けるようになるんだ。バッドエンドは甘えだと思ったんだ最近。だって、バッドエンドって要するに、上手く話を転ばせる事が出来なかったんでしょう?確かに、望まれたバッドエンドは存在するけれど、どうして上手く転がらなかったのかを、僕は考えてみるべきなんじゃないかな。軽く愚痴る。脚本はこれで作ったからなんとも言えない。演劇部との共同企画で脚本を書いたんだけど、僕はハッピーな話を演劇部にはやってほしいな。それじゃあ今回はこの辺で。今年更新分の『サイコパスシンドローム』もよろしくお願いします