第3話 極上の『鴨(ウォレット)』は炎をまとってやってくる
翌朝。
俺は、これまで生きてきた十六年間で最も快適な、いや、快適すぎて逆に恐ろしくなるほどの目覚めを迎えた。
俺を包み込んでいるシーツは、手で撫でるだけで指先がとろけそうなほど滑らかな最高級の絹だ。
無駄に広い特大ベッドのマットレスは、俺の背中の形に合わせてふんわりと沈み込んでくる。スラム特有の冷え切った土の冷たさや、背中に刺さる小石の感触など微塵も感じさせない。
部屋の温度は魔力空調によって常に最適な春の陽気を保ち、窓から差し込む朝日は、磨き上げられたクリスタルガラスを透かして絨毯の上に虹色のプリズムを落としていた。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
俺が寝返りを打つ暇もなく、白髪の初老の給仕長が、車輪の音すらない魔力浮遊式の銀のワゴンを押して入室してくる。
「アルト様。おはようございます。本日の朝食をご用意いたしました」
給仕長は恭しく一礼し、ワゴンに乗せられた銀のドーム型のフタを開けた。
「焼き立ての白パンに、マッシュルームとトリュフのポタージュ。メインは厚切りの燻製ベーコンと、半熟の卵料理でございます。食後の果物もご用意してございますので、ごゆっくりお召し上がりください」
ワゴンから漂ってくる暴力的なほど香ばしい匂いに、俺の胃袋がぎゅるるとけたたましく鳴りかけた。
危ない。
三日ぶりの残飯を見つけた野犬のような、情けない本能的反応を見せるわけにはいかない。
「……ご苦労。そこに置いておけ」
「はっ。それでは、のちほど制服の着付けにお伺いいたします」
「不要だ。俺の身体に他人の手が触れるのは好まない。自分でやる」
「承知いたしました。では、失礼いたします。良い一日を」
給仕長が深々と一礼して退室し、分厚いマホガニーの扉がカチャリと完全に閉まった瞬間。
俺はベッドから文字通り跳ね起き、テーブルの上の銀のトレイに飛びついた。
(う、美味えええええええええっ!)
なんだこれ。なんだこれ。
焼きたての白パンの、ふんわりとした柔らかさと口溶けの良さ。
口いっぱいに広がる芳醇なバターの風味。
燻製ベーコンの極上の脂の甘みが、今まで硬い黒パンの切れ端と泥水しか知らなかった俺の舌細胞を強烈にショートさせる。
ポタージュの一口ごとに、生きている喜びが細胞の隅々にまで染み渡るようだった。
俺は涙が出そうになるのを必死でこらえ、たった三分でスープの一滴、パンの欠片一つ残さず平らげた。
(最高だ。マジで控えめに言って天国だ。こんな生活を知っちゃったら、絶対にスラムには戻れねえ……!)
だが、その強烈な「これ以上ないほどの幸福感」を、俺の視界の端で明滅する「それ」が容赦なく切り裂いた。
【猶予期限:58時間 12分 45秒】
【負債額:S級複合魔力(純魔力・衝撃・発光)相当+利息】
「……っ」
タイマーの赤い数字は、俺が温かいベッドでぐっすりと眠っている間も、優雅に極上の朝食を味わっている間も、決して止まることはなかった。
昨日俺が、魔力測定器をぶっ壊してS級特待生の座にあぐらをかいた「死のハッタリの前借り費用」。
その取り立ての時間が、一秒一秒、確実に俺の喉元へと迫っている。
このまま返済期限を過ぎれば、俺の身体や記憶……存在のすべてが世界のシステムに差し押さえられ、消去される。
「……美味い朝飯を食って満足して死のう、なんて柄じゃない。俺は泥水すすってでも借金を返して、この地位にしがみつく派なんでね」
俺は口元をナプキンで拭い、クローゼットを開けた。
そこには、俺のサイズに合わせてきっちりと仕立てられた、S級特待生専用の学園ローブが用意されていた。
ベースは深い漆黒。そこに、金糸で緻密な紋様が刺繍されており、見るからに特権階級の象徴といった威圧的なデザインだ。
生地の手触りだけでも、俺がこれまで一生で着てきたすべての衣服を合わせたより高価だとわかる。
その真新しいローブに袖を通し、俺は懐から「一つのアイテム」を取り出した。
王立魔術学園のS級寮という最高級の空間に、これ以上なく不釣り合いな代物。
——赤黒く錆び付いた、一本の生家の紋章短剣。
かつて名門と謳われたレーエン家から追放される際、「手切れ金」として俺の足元に投げ捨てられたガラクタだ。
だが、今は違う。
この因果律干渉のアーティファクトの欠片こそが、魔力ゼロの俺が見えない『システム』にアクセスし、莫大な前借りを引き出すための「物理的なログインキー」であり、「俺専用のクレジットカード」なのだ。
短剣の柄を握りしめ、ひんやりとした金属の感触で頭を冷やし、俺は鏡の前で一度だけ深呼吸した。
そして、あの『仮面』を顔に貼り付ける。
(背筋を伸ばせ。顎を引け。眼光には誰をも見下す冷たさを宿らせろ)
鏡の中に現れたのは、スラムの野犬ではない。
魔力ゼロの詐欺師でもない。
底知れぬ実力と傲慢さを兼ね備えた、絶対的な超越者たる「S級特待生アルト・レーエン」だ。
「……行くか。俺の極上な『鴨(ATM)』を探しにな」
俺は懐に短剣を隠し、ローブの裾を翻して部屋を出た。
◆
王立魔術学園は、一つの都市と言っても過言ではない広さを誇っている。
S級専用の孤立した特別棟から、本日の目的地である大闘技場まで歩くだけでも、二十分近く時間がかかった。
道中、すれ違う上級生や教師たちは、俺の漆黒と黄金のS級ローブを見ると、まるでバケモノでも見たかのような顔でさっと道を譲った。
すでに入学試験での一件は、学園中に尾鰭をつけて広まっているらしい。
「あれが測定器をオーバードライブさせた化け物か」「近づくな、魔力にあてられて死ぬぞ」というひそひそ声が、嫌でも耳に入ってくる。
(ハッタリの効果は抜群だ。この「超強力な威圧感」の前借りによる『利息』は痛いが、舐められて魔法の実験台にされるよりは百万倍マシだ)
胃の痛みをポーカーフェイスの裏に隠しながら、俺は堂々と大闘技場の門をくぐった。
大闘技場は、本来は高学年の実戦訓練や、学園対抗戦などの大規模なイベントで使用される巨大なコロッセオだ。
だが、本日は新入生専用に解放されている。
目的は、新入生たちの魔力の性質や実戦での立ち回りを見極めるための『模擬戦(実技演習)』である。
すり鉢状になった闘技場の観客席には、数百人の新入生たちが各々のローブの色(階級)ごとに固まって座り、不安と期待の入り混じった顔で中央の石舞台を見下ろしていた。
そこに俺が遅れて入場した瞬間のことだ。
闘技場全体を包んでいたさざ波のようなざわめきが、まるで水を打ったように波打って静まり返る。
「……あいつだ。昨日、平民のくせに測定器をぶっ壊したっていう……」
「なんて禍々しい魔力を隠し持っているのよ……底が見えないわ」
「目を合わせるな。精神を持っていかれるぞ」
モーセの海割りのように、観客席の階段にいた生徒たちが壁際にへばりつくようにして左右に避け、俺のための道を作る。
俺は誰の顔を見ることもなく、当然のように一番見晴らしの良い最前列の特等席を目指した。
そこに座っていたA級のエリート貴族どもを、冷ややかな、虫ケラを見るような一瞥だけで後列に追い払い、どっしりと腰を下ろす。
(よし。ここが特等席だ。鴨の品定めには一番いい)
俺は足を組み、腕を組んで、ひたすらに「この世のすべてがつまらない」という顔を作って石舞台を見下ろした。
石舞台の中央には、百戦錬磨の傭兵のような顔つきをした屈強な実技担当教官が立っている。
「これより、新入生の実技オリエンテーションを開始する!」
教官の怒声が、魔力拡声器に乗って闘技場全体に響き渡った。
「ルールは簡単だ。番号を呼ばれた者は石舞台に上がり、互いに得意な魔法を撃ち合え! 致命傷に至る前に、我々教官陣が結界で保護する。だから余計な手加減は不要だ、己の魔法の全力を示せ!」
その言葉を合図に、次々と新入生たちが舞台に上がり、模擬戦がスタートした。
「いっけえぇぇ! 『水流烈弾』!」
「甘い! 『土壁』!」
生徒たちの手から、赤や青の魔力の光が放たれ、闘技場に爆音と閃光が入り乱れる。
詠唱の長さにばらつきはあるものの、十代半ばでこれだけの実戦魔法が飛び交うのは、さすが最高学府と言ったところだろう。
一般的に見れば、十分に将来有望な若き才能のぶつかり合いだ。
だが、俺の眼には、彼らの戦いはまったく別のものに見えていた。
(……薄い。ちーっとも実入りがねえな)
俺は心の中で、彼らの放つ魔法を『借金返済パズルの対価』として値踏みしていた。
(あいつの水魔法が全弾直撃したとして、俺の借金口座の『300ジュエル』分にしかならない。利息分すら相殺できない。……ゴミだ)
(あっちの風の刃もダメだ。せいぜい『500ジュエル』といったところか。あんな中途半端な魔法を百発食らったところで、S級相当の爆砕分にはまるで届かない)
そう。
俺は彼らを「同級生」として見ていない。
ましてや「ライバル」でもない。
自分に対して最高の殺意とエネルギーを向けて撃ち込んでくれる、極上の【現金自動預け払い機】を探しているのだ。
(条件その一、一撃で俺の莫大な借金を半分以上は返済できる、A級以上の特大火力の持ち主であること)
(条件その二、俺を殺す気で、ルールや結界を無視して全力の魔法を撃ち込んでくれる『短気でバカでプライドの高い奴』であること)
(そんな都合のいい奴が、どこかにいないか……ん?)
退屈な模擬戦が五試合ほど終わったその時。
石舞台に上がった一人の男に、俺の眼が釘付けになった。
「ははははっ! 手加減は無用と言ったはずだぜ、平民ども! 俺の極上の魔力の前では、結界など紙クズも同然だと教えてやる!」
金髪をオールバックに撫でつけ、A級を示す真紅のローブをまとった高慢ちきな男。
男の両手から生み出されたのは、ただの炎ではない。
空気を灼き焦がし、数十メートル離れた観客席にいる俺の肌までジリジリと熱くさせるほどの、極限まで高圧縮された真紅の火球だった。
「消し飛ぶがいい! 『爆炎連衝』!!」
ズドォォォォンッ!!
男が放った火球が対戦相手の足元で着弾し、小規模な火山が噴火したかのような大爆発を引き起こす。
教官が慌てて保護結界を展開したため直撃こそ免れたものの、あまりの熱量と物理的な爆風により、対戦相手は舞台の端まで吹き飛ばされ、そのまま白目を剥いて気絶してしまった。
衝撃波で石舞台の床がパラパラと崩れ落ちるほどの威力だ。
「……そこまでっ! 勝者、グランヴィル・フォン・ハイデマン!」
教官の制止の声が少し上ずっている。
その宣言が響く中、グランヴィルと呼ばれた男は、気絶した相手を気遣うこともなく、観客席に向かって両手を広げて高らかに笑い声を上げた。
「見たか! これこそが名門ハイデマン家の血に流れる炎の極地! A級筆頭……いや、実質この学園で最強の魔力を持つ俺様に平伏せい!」
観客席からは、平民たちの怯えたような悲鳴と、取り巻きらしき貴族たちの熱狂的な歓声が入り混じって響き渡った。
(……ビンゴだ)
俺の顔に、邪悪な笑みが張り付いた。
グランヴィルというあの男の頭の上に、デカデカとネオンサインのように輝く『大金脈』の文字が見えた気がしたのだ。
(あいつのあのアホみたいにデカい爆発魔法。あれなら、ノーガードで直撃を受ければ俺の借金の半分——いや、上手く煽り倒してさらに出力を引き上げさせれば、7割以上は余裕で返済ラインに届く!)
(しかも、あの自信過剰でプライドの塊みたいな態度。ちょっと煽って鼻っ柱をへし折ってやれば、間違いなく顔を真っ赤にして俺を殺しにくる!)
これ以上の条件はない。
まさに因果律のシステムが俺に用意してくれた、極上の救済措置だ。
俺はゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、俺を中心にして観客席の空気が再び強烈に凍りついた。
「おい、あいつが動いたぞ」「まさか、グランヴィル様の挑発に乗ったのか……?」というざわめきを完全に無視し、俺は足音を高く響かせながら、石舞台へと続く階段を真っ直ぐに降りていく。
舞台の真ん中で勝ち誇っていたグランヴィルが、歩み寄ってくる俺の威圧感に気づき、ムッと眉をひそめた。
「……なんだ貴様は? 俺の勝利の余韻に水を差す気か?」
グランヴィルが威嚇するように俺を睨みつける。
俺はその視線を真っ向から受け止め——そして、周囲の全生徒と教官の耳に届くように、わざとらしく、大きく、呆れ果てたようなため息を吐いた。
「——なんだ。どこぞで小規模な『マッチの火』がくすぶっていると思ったら……」
俺はグランヴィルを一瞥し、虫ケラ以下のゴミを見るような冷ややかな視線で言い放った。
「ずいぶんと可愛らしい線香花火だな。そんなもんで、よく大口を叩いて『最強』などと口走れたものだ。恥を知れ、三流」
「……………………は?」
グランヴィルの顔から、先ほどまでの高慢な表情がすっと抜け落ちた。
周囲の教官や生徒たちも、あまりの暴言と無謀さに文字通り息を呑んでいる。
一瞬の完全な静寂の後——グランヴィルの顔が、自らが先ほど放った爆炎よりも紅く、グツグツと沸騰するように染め上がっていくのが見えた。
「きっ、貴様……今、俺の至高の炎を……マッチの火だと、言ったか……ォォォォォッ!?」
ギリリ、とグランヴィルの奥歯が砕けそうな音が聞こえた。
彼の両手には、教官の制止すら耳に入っていない状態で、先ほどよりもさらに巨大で、不安定に明滅する危険極まりない火球が膨れ上がり始めている。
舞台の石畳が熱でドロドロに溶け出していた。
(よしっ! 食いついた! めっちゃブチギレてる! 最高にチョロいぞお前!)
内心で盛大なガッツポーズを決めながらも、俺の外面(仮面)はどこまでも冷酷に、傲慢に、彼を見下ろしていた。
「耳が遠いのか? そんなチャチな火遊びで最強を名乗るなど、俺に対する最大の侮辱だと言ったんだ。……悔しかったら、俺にその『火遊び』をぶつけてみろよ」
大きく両手を広げ、ローブの胸元を開いて無防備に晒しながら、俺は悪魔の笑みを浮かべて宣告する。
「そのふざけた炎を受けて、一歩でも俺が後ろに下がるようなことがあれば——貴様の『火遊び』を少しは認めてやろう」
さあ来い。
お前の全存在とちっぽけなプライドを懸けた最大の殺意(魔力エネルギー)を、俺の借金返済パズルにはめ込ませろ。
心臓が早鐘を打ち、胃液が逆流しそうな強烈なプレッシャーを、俺は冷徹な笑みの裏に隠し切る。
誰よりも弱く、魔力ゼロだからこそ、誰よりも傲慢に振る舞う。
命懸けの自転車操業が、今ここから、ついに本格的に加速する。




