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エッセイ

将棋界に残る塚田の名前

掲載日:2026/03/04

わたしは公立中学1年ではチェス部に所属していた。


なぜかそのときは囲碁・将棋部がなかったのである。


日本にはチェスのプロはいない。


アマチュアだけである。


一応、担当は英語の教師であったが、課内活動であっても教師は行かなくていいという暗黙の了解があったようで、殆ど来たことはない。


だが何もしないのは、格好がつかないと思ったのであろうか、アマチュアの人を連れてきたことがある。


その人は何の仕事をしているのか知らないが、ルールを教えると、定跡まで教えた。


詰めチェスも教えたことがある。


一回だけ、日本のチェスのチャンピオンが来たことがある。


その名は宮坂幸雄みやさかゆきお


将棋のプロである。


連絡が悪かったのか、宮坂先生はルールを教えただけで帰ってしまった。


中学2、3年では、将棋部または囲碁将棋部に入った。


わたしは将棋の研究ばかりやってた時期があり、父も従兄弟もわたしと一切将棋をしなくなった。


折しもわたしが好きだった大山康晴名人が中原誠八段に名人位を奪取された。


わたしは大山、升田の将棋をよく見ていたので、振り飛車が好きなのだが、中原名人の時代になると矢倉の渋い将棋ばかりになり、わたしは将棋に興味を失った。


わたしがまた将棋に興味をもったのは、大学3年の頃、ゼミの男とやったからである。


わたしは高校3年の頃から、同級生にも負けるようになっていた。


だがゼミの男とは1勝2敗であった。


しかも「だるま流四間飛車」と呼ばれた森安秀光もりやすひでみつ八段が活躍するにつれ、再びテレビでNHK杯将棋トーナメントを見るようになった。


宮坂幸雄八段は、木村喜孝きむらよしたか五段に勝った。


のちに知ったのだが、宮坂八段は故・山田道美やまだみちよし九段の研究会に参加していたそうである。


木村五段の振り飛車穴熊に山田流で勝った。


この棋譜はノートに記し、何度も盤に並べて研究した。


宮坂幸雄は塚田正夫名誉十段の弟子であり、木村喜孝は木村義雄十四世名人の弟子である。


そういう意地の張り合いもあったであろう。


塚田正夫は木村義雄と名人位を争い、名人2期の実績をもつ。


わたしは「若き太陽」と呼ばれた中原誠が、A級順位戦で全勝を続けている時、塚田正夫九段が中盤まで有利になり、晩飯を「うどん」と言ったのを小学生のとき、新聞で読んだ記憶があった。


塚田正夫は終盤になり中原誠に逆転負けした。


その後、塚田正夫は胃がんになり、60代で物故した。


葬儀委員長は大山康晴であった。


その後、全くの赤の他人ながら、塚田泰明つかだやすあきという新鋭が現れ、王座というタイトルを獲得した。


テレビ将棋の時間の司会者、永井英明ながいひであき(近代将棋社社長)は、塚田正夫未亡人が「また将棋界に塚田という名前が出てきて嬉しい」といったことを紹介し、感動したと語った。


だが塚田泰明はそれほどの活躍をしなかった。


わたしも期待を裏切ったのかなと思った。


しかしその娘、塚田恵梨花つかだえりか女流二段がいる。


母親は高群佐知子たかむれさちこ女流四段(退役)である。


塚田という名前の棋士は他にはいないようである。


また永井英明(故人)はこんな逸話も紹介している。


塚田正夫は弟子・宮坂幸雄に対局料の一割を持って来いと命じたそうである。


宮坂は真面目にお金を師匠に渡しに行ったらしい。


それを貯めておいて、宮坂が家を建てるときに全額返したそうである。


(文中、敬称略)




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