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幻想アンダーグラウンドⅠーⅢ

カナエはライブハウス『meta』を見つけるのに苦労した。携帯の電源は切れているし、道行く人に話しかける勇気もなかった。


地下へと続く薄暗い階段は、地獄の入口に見えた。

人通りはない。毒々しく光るmetaのネオンパネルだけが、そこに入口があることを示している。

カナエは階段に近づいては離れ、入口付近を行ったり来たりと繰り返した。


カナエがパネルを凝視していると、背後から下品な笑い声が聞こえ、弾かれたように階段を駆け下りてしまった。笑い声が近づいてくる。もう後戻りはできない。


受付カウンターでは、タンクトップを着たヒョウの女性が退屈そうに携帯をいじっていた。

カナエは恐る恐るチケットを差し出す。

ヒョウはカナエをチラリと見ると、面倒くさそうに掌を出した。


えっ?とカナエが戸惑う。

ヒョウは長い爪で壁のポスターをコンコンと叩いた。


「ドリンク代」


カナエの財布には、もう五百円玉一枚すら残っていなかった。

どうしよう。逃げ出してしまいたい。羞恥心で脳がパンクしそうになる。


「電子マネーでもいいけど」


カナエはブンブンと首を横に振った。もう帰ろう。踵を返そうとしたその時、ヒョウがこちらを覗き込んだ。


「あんた、もしかしてなぎの知り合い?」


ナギ?

声をかけてきた男の名前だろうか。カナエはなんと答えていいのか分からない。なんて言えばいい?目が綺麗だったから?チケットをもらったから?


「えっと、あの……髪が、ボサボサの」

「髪が?……ブッ、アハハハ!そうそう!あのボサボサヘアーの凪ね!」


ヒョウはテーブルをバンバン叩きながら爆笑する。何が起きているのか分からない。


「ごめんごめん。凪からドリンク代、預かってたわ。入っていいよ」


気づくと後ろに人が並んでいた。慌てて防音扉に手をかけるが重くて開かない。ヒョウは手伝いもせず、ニヤニヤとカナエの背中を見つめていた。


えいっ、と全身でドアを押す。


途端、凄まじい風圧と共に、暴力的な音圧が中から飛び出してきた。

ステージでは既に演奏が始まっており、ダックスフンドが猛烈な怒りをマイクにぶつけていた。


カナエはその轟音に圧倒されながらも、薄暗いフロアで凪の姿を探した。

幸か不幸か客席はガラガラで、全体を見渡すのに時間はかからなかった。彼はいない。


ステージ上のダックスフンドの怒りは、大学生活への不満からバイト先の店長、果ては実家の両親への恨みつらみにまで及んでいるようだった。


「I love PUNKs !!」


Vサインを決めて、ダックスフンドのパフォーマンスは終わった。

まばらな拍手の中、カナエはため息をついた。とんでもないところに来てしまった。


私ならなんと怒るだろう。帰りたい!帰りたい!もう帰りたい!とマイクで叫ぼうか。


でも、「帰りたい」って何処に?

実家の景色が頭に浮かぶ。あそこから逃げだしてきたのに。そう思うとカナエの口から乾いた笑いが漏れた。


「楽しそうじゃん!」


ドン、と背中を叩かれた。突然のことに全身の毛が逆立つ。振り返ると受付にいたヒョウが立っていた。


「アハハハ!あんたって最高!」


ケタケタと笑う彼女と対照的に、カナエは冷めた視線を返した。何が最高なのかさっぱり分からない。


「ねぇあんた、さっきのコイン持ってる?ドリンクと交換できるよ」


ヒョウに連れられてバーカウンターへ行く。


「あたしはサチコ。ダサいからサチって呼んで。あんたは?」


カナエと答える。サチは緑のビンに入ったビールを注文すると、前歯で王冠をガコッと開け、ふっとゴミ箱に吐き捨てた。カナエはコーラを注文する。


「乾杯!」


ビンをぶつけられ、コーラの入ったプラスチックのコップがベコッと凹む。指に冷たい液体がかかったがカナエは気にしなかった。


「どこで凪と知り合ったの?」

「駅前で声をかけられて」

「それで付いてきたんだ」


ニヤニヤとサチが表情を探ってくるのでバツが悪い。


「次が凪の出番だよ。前に行く?」

「行かない」


いいから、いいからと背中を押され、抵抗する間もなくステージの最前列まで来てしまった。背後からの視線が突き刺さる。


ガラガラのライブハウス。人の少ない客席。サチと二人、ぽつんと最前列に立つ。


こんなはずじゃなかった。


後ろ指をさされないように、目立たないように、それだけを願う人生だったはずなのに。


あの時だってそうだ――


高校での出来事がフラッシュバックする。

私が望んだわけじゃない。

勝手に告白されて、勝手にあることないこと言い振らされて、勝手に怒鳴られて。

気づくと私はクラス全体から「いないもの」として扱われていた。


カーテンが閉じられたままの暗いステージの前で、カナエの目から自然と涙がこぼれた。


「えっ、ちょ、ごめん!!そんなに嫌だった!?」


サチが慌てる。

そうじゃないと言おうとした瞬間。


ライブハウスの照明が落ち、BGMがプツリと止んだ。

静寂。


シンバルの音が4回、鋭く刻まれる。

ステージの照明が一気に煌めき、バンドが一斉に音を叩きつけた。


カナエの目の前で、赤いライダースを着た猫がモニターに足をかけてギターを掻き鳴らし始めた。


その瞬間だった。


カナエの心はなぎの音にさらわれ、空の彼方まで吹き飛ばされた。

まるで、この世界に二人しか存在しないように。

そのギターは、カナエのためだけに叫んでいるように聞こえた。


音楽に詳しくないカナエにさえ、バンドの演奏が下手くそなのは分かった。ボーカルのブルドッグはバウバウと吠えているだけで歌詞なんて聞き取れない。


凪はそんなこと何も気にしていないようだった。

ズレたリズムの中、騒音のようなボーカルの中、凪のギターだけが鮮烈な光を放って自由な旋律を歌っていた。


(そうか、これでいいんだ)


カナエは初めて許された気がした。心を縛り付けていた鎖が音の波に洗われて消えていく。

サチが顔を近づけ、大声で何かを言った。


「どう!?」


カナエはサチに向かって、喉が裂けんばかりに叫んだ。


「最高!!」


サチは最前列の鉄柵をバンバン叩きながら大笑いした。


「やっぱり、あんたってサイコーだね!!」


サチはビール瓶を放り捨て、カナエを全力で抱きしめた。

瓶の行方に肝を冷やしたボーカルのブルドッグは、バウッと一瞬、声を止める。

凪のギターはさらに唸りをあげ、三人の夜は熱狂の中に溶けていった。


(続く)

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