幻想アンダーグラウンド1-10
駅に停車中の電車は、漆黒のオーラに支配されてガタガタと音をたてて揺れていた。
ヘドロのように車内にこびりついた闇はイブの身体にまとわりつき、今にも『影』を引き離そうとしている。
「八木山は私を売ったの。契約譲渡することで、あいつは多額の金を手に入れた。映画の話が来た時からバンドを解散させるつもりだったんでしょ」
イブが黒い涙を流すと、ドロドロと闇と一体化する。
猫の形を失い、彼女の身体が溶けていく。
僕は必死にイブの肩を抱き寄せた。凍てつくように冷たくなったイブは手から溢れてしまいそうだ。
「君は悪くない。悪いオトナに嵌められただけだよ。……凪には連絡した?彼はなんて言ってた?」
「何度もメールした。何度も何度も電話もした。でも凪は出なかった」
まだハテナのシルクハットを被ったままの猫が近づく。
「死神くん。もしかして、『アイツ』の正解は八木山と思ってるかニャ?それはイブにとっての『都合のいい正解』に過ぎないニャ。ほんとの正解は、真実は、違う」
駅員猫は鋭い爪をイブに向けた。
「それは、イブ。お前自身だ。お前はずっと誰かのせいにして生きてきた。イジメに遭ったのは、告白した男のせい。嫌がらせは女子グループのせい。家にいれなかったのは家族のせい。バファリン解散は仲間のせい。凪やサチが離れたのは八木山のせい。」
駅員猫はさらに爪を喉元に近づけて追い詰める。
「ほんとにそうなのニャ?お前が意思をちゃんと伝えていたら、誰も傷つかなかったんじゃないか?嫌なことに嫌と言えず、被害者を演じ続けてきた。お前という毒さえなければ、『お前』さえいなければ……よかったんじゃない?」
「やめろ!」
イブが消えていく。
僕の手から彼女の感覚が無くなっていく。
僕にできることはもうないのだろうか。
僕は最初の猫の言った言葉を思い出していた。
(ここで魂の相手をしてほしい。魂が生きるか死ぬか見定めてほしいーー)
目を閉じて、死神としてのイメージを研ぎ澄ませていく。
死の絶望を与えるだけではないはず。
もし、僕に生きる希望を与える力があるのならーー
(イブ、聞こえるかい。君の過去を見てきたように、僕の死神としての力で、いま君のことを想う人たちの心を集めてきたんだ)
車窓の向こうに無数の小さな光が現れる。
それは蛍のように、あるいは遠い銀河のように、輝きを放つ。
「見てごらん。あの光は君の歌に勇気や希望を与えられた人たち。君が真っ直ぐに歌に向き合い、君に支えられた人たちの想いだよ。」
光の中には、映画館のスクリーンを見つめる人、イブの歌にヘッドホンをして目を閉じる少年、ツアーを観に来ていた高校生。そして、実家のリビングで娘の活躍を誇らしげに見届ける両親の姿が映し出される。
「……それだけじゃない。ほら、あそこ」
無数に輝く中、ひときわ強く、けれど震えている光があった。それはサチの姿がだった。
「いまなら、僕らもサチの心に触れることができる。伝わるでしょ。サチの後悔が。感情的になってしまい、一方的に気持ちをぶつけてしまった罪悪感。彼女も自分を許せないでいる」
そして、小さく小さく光る凪の姿があった。
「凪は誰よりも君の優しさを知っている。連絡を返せなかったのは怒りじゃない。凪に現実を受け入れる力が足りなかっただけなんだ。彼もいま消えてしまいそうになっている。」
イブの闇を無数の光が照らしている。
「君はもう一度会いに行かないといけない。もう一度会って君の想いを伝えなきゃ。君は死んではいけないよ。」
その瞬間、手にたしかな重みが戻る。
僕はイブを強く抱きしめた。
「……不思議。死神が私の命を繋ぎとめるなんて」
「よかった。戻ってきてくれて」
「私は、私の意志で、私の声を届ける」
いつの間にか黒いオーラは消えて、古ぼけた電車の車内に戻っていた。
高らかに警笛が鳴り響く。
「もうすぐ電車が出るニャ!」
「もう行くのかい?最後にひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「早くするニャ!」
僕は疑問に思っていたことを口にした。
「どうして、猫の君が、猫の声優をしたの?」
「猫?……あなたには私がそう見えるの?」
僕は駅員猫を見る。
「だって……そうだろ?」
「猫には、イブはイブにしか見えない。ただの人間ニャ」
「へ?」
「お前には認知の歪みが生じてるニャ。もう人を人して見ることができなくなってるんじゃないか?よく目を擦ってみるといいニャ」
言われた通りに、目を擦る。
「あっーー」
プシューという排気音がして、電車の扉が閉まる。
僕と猫は駅のホームから始発列車を見送る。
車内からこちらに手を振るイブ。
そこには、まだ若い人間の歌姫が希望に満ちた顔でロングシートに座っていた。




