幻想アンダーグラウンドⅠーⅡ
痩せた猫は目を伏せたまま、動かなかった。
電車の硬いシートに沈み込むようにして、ひどく悲しそうに見える。
「ほっといてよ」
ポツリと、その猫――女の子は呟くと、青いライダースの襟に鼻を埋めた。ポケットに手を突っ込んだまま、寒そうに小さくうずくまる。
「もう終着駅なんです。申し訳ないのですが……」
駅員猫が声をかけると、彼女の目がギロッと鋭く光った。
睨まれた駅員猫は「ニャッ」と短い声を上げ、僕の背中に隠れる。
女の子と目が合った。
吸い込まれるような瞳。とても綺麗な顔立ちだ。それなのに、野生動物のように威嚇する。
「どうして降りないの?」
「……行くあてなんかない」
言葉が出なかった。僕と同じだ。
未来なんてない。ここまでの道のりすら覚えていないのに、今さらどこへ行こうと言うのだろう。
「よかったら、話してくれないかい?」
「どうして?」
女の子の視線が僕を射抜く。背中に隠れた太った猫が僕の服を掴む手に、ギュッと力を入る。爪が背中に食い込んで痛い。
「ここまでどうやって来たのか、僕も覚えていないんだ。君は覚えてる?……もしそうなら、話したら少しは楽になるんじゃないかなって」
猫の耳がピクンと動いた。
彼女は恥ずかしそうに俯き、迷った末に、ゆっくりと顔を上げた。
「……そうね。いつまでも、ここには居られないし」
列車の走行音が遠ざかり、彼女の声が車内に響き始める。
「私がまだ高校生だった頃に色々あって、東京に来た。
その頃はお金も無かったし、知り合いもいなかった。でも新宿に行けば、同じような子がたくさんいたの。
私は群れるのが嫌だった。
あそこなりにも統率はあったし、そういうのから逃げてきたはずなのに、どこにでもルールはある。だから私は新宿を出た。あの時も、どこにも行く宛なんかなかった。
そんな時に、どうしたの?って。
アイツはそう言って、話しかけてきたの――。」
†
カナエは駅前の広場にいた。
時刻は夕暮れ時。歩き疲れてベンチに座る。
同じ場所に留まり続けるのは嫌だったが、賑やかな繁華街の真ん中にいると、自分の孤独が少しだけ紛れる気がした。
笑いながら過ぎていく人たち。自分にこんな時はあったのだろうか、とカナエは過去を探った。幼い頃、母と手を繋いで歩いた自分。あの時、見上げた笑みを思いだした。
一人の「猫」が近づいてきた。
毛づくろいもしていない、ボサボサの頭。
赤いライダースを着て、ポケットに手を突っ込んでいる。
「どうしたの?」
カナエは答えなかった。目を閉じて、この男が通り過ぎるのを待つ。
「俺、バンドしてるんだけど。よかったらチケット買ってくれない?」
カナエは俯いたまま動かない。そんなお金はない。そもそも、昨日の夜から食事さえろくに摂れていない。
「……チケット、いらないよな」
男は苦笑すると、カナエの隣にスッと軽やかに座り、同じように俯いた。
しばらく沈黙が続く。
カナエはチラッと横目で隣を見る。
黒いスキニージーンズ。細い足がより細く見えた。腰につけたウォレットチェーンの金属が、ジャラジャラと安っぽい音を立てる。
(この人も、お金が無いんだな)
そう思いながら横顔を見ていると、ふいに目が合った。
背中の毛が逆立つ。
ボロボロの身なり。けれど、その瞳だけは異様に綺麗だった。飢えた野良猫のような、それでいて純粋な野心だけを宿した目。
「もしよかったら来てよ」
男はベンチにチケットを一枚置くと、立ち上がった。
カナエは少し考えて、断ろうと口を開きかけたが、男はすでに繁華街の喧騒の中へ消えていた。
ベンチには、チケットと赤い残像だけが残されていた。
(続く)




