幻想アンダーグラウンドⅠ
笑顔をなくしてどのくらいだろう。
仕事を終えて地下鉄の階段を下る。 長い、長い階段。 東京の街は白くて冷たい。 誰も知らない、誰にも知られていない。
今日は何月何日だっけ。 僕の思考はいつの間にか停止してしまった。 ただただ、下っていく――
ふと気づくと、目の前には延々と続く線路と、どこまでも深い闇夜が広がっていた。
闇夜?
僕は地下鉄に乗ろうと階段を下りていたはずなのに。
ぼんやりと階段を見上げた瞬間、声をかけられた。 「やあ、お客さん! 電車はもうすぐ来るよ」
丸々と太った猫の駅員が、そこに立っていた。
――そうか、残業続きで寝てしまったんだろう。
「やだなぁ! お客さん、そんなに顔をまじまじと見て。僕が珍しいかい?」
「そうだな……こんなこともあるのかなって」
「夢でもみているみたいじゃないか」
そう言うと猫は自分の業務に戻った。腕時計に目をやったり、線路の先を眺めたりしている。 いっちょまえに駅員の帽子を被った、まるっこい背中だ。
僕はベンチに腰かけて夜空を見上げた。故郷よりも星が綺麗な空だった。
「夢じゃないって?」
猫は聞こえていないのか、振り向かずに作業を続けている。
昼間の会社を思い出した。怒鳴る課長。コンプライアンス教育をした次の日だ。僕は徹夜明け。佐々木さんと目が合った気まずさ。記憶が断片的に明滅する。
「僕は死んだのかい?」
猫は作業の手を止めた。 振り返るとため息をつき、当たり前だと言わんばかりに話し始めた。
「ここは行き先を忘れたやつらが最後にたどり着く終着駅。あるいは始発駅だよ」
「答えに――」
遮るように、電車の警笛が鳴り響く。 猫が業務に戻る。
セルロイドの光を宿した、ぼやけたプラスチックの車体がホームに入ってくる。 プシュー、という音をたてて電車のドアが開く。
中には、青のライダースを着た瘦せ細った猫が座っていた。 痩せた猫は立ち上がらない。太った猫と目が合う。 特に言葉を交わしたわけではないが、太った猫が車内に入っていくのを見て、僕も後に続いた。
「おや、お嬢さん。どうしたんだい」
痩せた猫が、声にもならない声で返答する――
(続く)




