序章 ― 名もなき巫女と五尾の狐 ―
プロローグよりも前のお話です。
この物語の始まりの序章。
九尾の狐視点。
私は、ずっとこの場所を見守ってきた。
名もなき巫女が、月明かりのもとで祭壇に立つ。
風は止み、森は息を潜めて、彼女の声を待っていた。
「……はじめに、光ありき。」
その声は澄み、夜気を震わせる。
言葉が発せられるたび、祭壇の古符が淡く光を帯びた。
私は、その光を尾の先で受け止める。
私の尾は、まだ五つ。
神に仕える眷属としては、未だ半ばの存在にすぎない。
けれど、巫女は言った。
「いつか、あなたの尾は九つになるでしょう。 すべての願いと祈りを見届けたときに。」
私は答えず、ただ尾を揺らした。
意味など、そのときの私には分からなかった。
――昔、神がひとり、光の中に在った。
孤独を恐れ、影を生み、そこから世界が生まれた。
光と影、昼と夜、生と死。
二つの力は離れながら、決して切れぬ絆で結ばれていた。
私は、その狭間から生まれた。
神の影と人の祈り、その交わりが私の原点だった。
ゆえに私は、どちらのものでもない。
神の声を聴き、人の涙を知る。
そのあわいを渡ることが、私に与えられた役目だった。
巫女は祈る。
「光が影を赦しますように。」
その言葉は、どこまでも静かで、どこまでも切実だった。
私は、その祈りが風に溶けていくのを見送る。
そして知った。
――この祈りこそが、私の“六つめの尾”となるのだと。
月が傾き、夜が終わる。
巫女の儀式が終わったあと、私は森の奥へと姿を消した。
やがて長い時が流れ、巫女の名も、祈りの言葉さえも、
人の記憶から消えていった。
けれど、消えたのは形だけだった。
祈りは、灯のように世界のどこかで息づいている。
そしてそれが、いつかまた――新たな心に宿る日を、私は待っていた。




