六話
「矢部よう」
興信所のソファに背中をあずけ、ぼんやりと腕時計の秒針を眺めていた俺は、名を呼ばれたことに気づくまで数秒間もを要した。デスク縁に腰を傾ける所長は、苦笑いを禁じ得ないようだった。
「お前、山岡静子に惚れてんだろ」
弁明もできない。依頼人と業務外で深く関わろうとするなど、いかに助手であろうと興信所に属する者として御法度だ。本来、明敏な俺なら言わずとも胆に銘じている事柄であるはずだが、今回に限り、寛容な所長も責任者として口に出さずにはならないと、この変わり果てた様子を目にして思ったらしい。
「綺麗なお嬢さんではあった。けどまあなんだ。慰めるわけじゃないけど、山岡静子は違うんだよ。お前じゃ相手にされない」
「どういうことですか」聞き捨てならなかった。
「お前も俺に劣らず変わってるやつだけど、山岡静子はそれを遥かに凌駕している、ってことだ。単純に容姿が綺麗な女なんぞその辺にいくらでもいるだろうけど、あれはそんなもんじゃない」
「分かっていますよ。あの人には俗物的な要素がない。薄幸というか、生きることに必死なんです」
「そうじゃない。あれは、逆に生きることに疑問を抱いているとかそう言った種類のもんだ。お前みたいな人間じゃ到底理解できないよ。問題解決はできるだろうが、深い部分は沼の中だ」
「俺は沼の中に頭まで浸かっても構いません」
「矢部はまだぬるい。忘れろ」
山岡静子がこの興信所に訪れてから、早くも十日が経過していた。所長はこれまで築き上げた人脈を駆使し、過去に罪を犯して刑務所に収監された経験のある人物から、捜索に関して有力な情報を聞き出したそうだ。
既に任務は完了して昨夜のこと報告完了がなされたそうだが、つい今しがた、彼女から一報があったらしい。しかも、内容は依頼人の要望通り、俺には全く知らされていない。となればもう二度と会うこともないのか、と矢も盾もたまらない想いとなっていたのだ。
気持ちは薄れるばかりか、ひとしお募る。彼女の顔が頭に焼き付いて離れない。感情の乏しい面持ちであるのに、眼の力だけは熱い魂を宿していた。
自らが選択して所属した興信所、そして山岡静子との出逢い。これこそ、生涯で培った能力を存分に発揮できる事件ではないのか、と息巻いているのに当の彼女に出鼻を挫かれてしまったとなれば、不完全燃焼もいいところ。
所長は、木製ハンガースタンドにかけた革ジャンパーから煙草の箱を取り出し、それから一本抜いて挟んだ指の間で弄びながら言葉を選んでいた。
「あの子は恋愛だとか、夢心地なことには興味無いんだよ。もっと深い深い、淵で苦しんでるわけだ。それを果たす機会がちょうど訪れた。じゃあなんで七年間も燻っていたかってところ、お前はそこが分かってないんだよ」
「トラウマを残した相手が怖い。もう忘れようとしていた。いずれは立ち直れると信じていた。心疾患が、完全に治まった後でも遅くないと思っていた」
「ダメだ。零点」
意味がわからなかった。
「相手からの拒絶が怖かったんだよ。あの子にはそういう重責がある。そりゃあそうだ、相手の男が過去に起こした事件の経緯やらを山岡静子の口から詳しく聞いて、色々と調べて知ったら、山岡本人が直接会うに臆する気持ちもわかる。それでも、会うために明日には出発するんだってよ」
「明日?」
「いくらぞっこんだからって勝手に動くなよ。助手とはいえ探偵技能を教え込まれた従業員が、依頼人に惚れ込んでストーカー行為なんぞしたら、この弱小興信所はすぐにつぶれちまう」眉間を険しくさせた所長から釘を刺される。「それにあの山岡静子な、警戒心が相当強いぞ。防衛本能的な癖が出てる」
「どういうことです?」
「最初に依頼に来た日、お前は気づいてなかったかもしれんけど、無意味に首の裏を触っていた。率直に聞いたんだけど、トラウマに関係があるらしい」
所長は煙草をくわえて、発音を濁しながらもゆっくりと続けた。
「トラウマ男が起こした事件。それから、今になって再会を決意させた事案……心のどこかで引っかかっていた何かが、今になって発露してしまったんだ。切羽詰まって動かなければならないことが」
「それは要するに山岡さんの身におよぶ、脅威?」
「俺は、依頼以外のことを詮索したりはしない」
煙草に火を点けた彼は、俺の質問を無視して続け様に数回煙をふかした。天井に溜まる紫煙をしかめつらで眺めつつ言う。
「けれど、依頼任務を調べている間に、流れ上どうしても知ってしまうことだってある」
「だから、それは」
「気づけよ。お前じゃないんだよ。今のトラウマ男の写真を見た、山岡静子の顔を見ればわかる。恐れと同時に、自分にとって唯一無二の存在と再認識させられたんだろう。だから、ポッと出たばかりのお前には興味も無いし、印象にも残っていないだろうな。それに、事態はまあまあややこしいことになりそうだ。これは、俺やお前ごときが関わるこっちゃない」
そう広くはない応接室に沈黙が落ちる。わかる。冷めた目で首を傾げる彼は、俺からの色良い返事を待っている。
「なら、諦めます。ちょっと、入れ込み過ぎました」
所長は、安堵して小膝を打った。
「まあ、あれだ。たぶん大丈夫だよ。うちにある護身用具もいくつか買ってくれたし、それに問題が解決したらなら、もうあの子はこっちには戻ってこないかもな」
「え」と愕然とした。もう何も返せなかった。ソファから立ち上がる。挑戦も叶わず敗北を期しなければならないのか。「すみません、今日はもう帰ります。また明日きます」
「元気出せよ。矢部だっていつまでもこの仕事するわけじゃないだろ。始めた頃はちょっとロマンとかなんだとかで脳味噌の中が膿んだりしちまうけど、リアリストが向いてる殺伐な世界なんだよ。大学卒業して、真っ当な仕事につけるように就職活動は怠るなよ」
「わかってますよ。今日はありがとうございました」
俺は一礼してから興信所をあとにした。