五話
カチ、カチ、カウントダウンが容赦なく刻まれる。最初のうち物音はそれが全てだった。主人の有り様など関係なく、微塵も狂いはしない回転の動き。抗えず目で追ってしまう。「名前は?」二重三重に後追いする声が、いつまでも頭の中に残響する。長い髪が歪んで見える。
「もう一度訊く。あなたの名前は?」
名前は矢部光明だ。
「どんな人生だった? 自分をどんな人間だと思う? 恥ずかしげもなく答えて」
俺は、幼き頃より利発的で同年代の誰より知性が長けていたため、家族含む大勢の大人から聡明な人間に育つだろうと多大な期待を寄せられ、それを裏切らず、学業にも人間関係にも全く躓くことはなく二十一歳を迎えた。
決して傲らず他人と接する際は明るく快活で、豊かな表情と穏やかな人柄は誰であろうと惹き付ける。容姿に関しては美しい母親に似て中性的かつ、父親からの雄々しさを受け継いだどこか野性的でおおらかな気質を見る者に感じさせただろう。身長も百八十センチあり、バランスよい自然な筋肉に包まれるすらりとした体格と、お手本のような姿勢は美しいと評される。
異性交際も男性ならば羨むような、美しい女性ばかりが相手だった。道も外さず、国内屈指の私立有名難関大学に現役受験合格後も変わらず東京に住み、それでも実家からは離れて精力的にアルバイトをこなしつつ独り暮らしを始める。
しかし、いかんせん俺は飽きが早い。裏を返せば、刺激を求めて絶えず新たな挑戦に渇望していた。その隠された本質ならぬ欠点に気付いた交際女性は自ら「荷が重い」と口を揃えて離れていく。とはいえ、俺は決して気落ちなどしなかった。恋愛観に関しては、冷めていた傾向すらある。だが、出逢ってしまった。それは刺激を貪欲に求めたがために両親の反対も押し切って始めた、新たなアルバイトを場にして起こるべくして起こった初めての非運だった。
「ごめんください。昨日電話をした山岡です」
三月、肌寒い雨天時の出来事だった。腕時計でちょうど正午を確認したときだった。入り口扉からおずおず足を踏み入れる飾り気の無い出で立ちの女性に、俺は陶然と目が離せなくなってしまった。
頭頂部センターから分けて肩甲骨まで真っ直ぐ落とした綺麗な黒髪は、湿気のせいでしっとりとまとまっていて、白くきめ細かい美肌によく似合っていた。興信所に依頼人として現れた山岡静子と名乗る女性は、あえかな雰囲気をもっていた。年齢は二十五らしい。両手首には、マジックテープにて固定する仕様の黒色サポーターが巻かれる。
「飲み物はどうされます? 珈琲か紅茶か、ミネラルウォーターもありますが」「じゃあ、あの、紅茶で」所長は、硬直して動けぬ俺に「おい、紅茶だよ」と偉そうに怒鳴りつけた。
飴色ソファに所長と向かい合って座る山岡静子は、カワソコ興信所の名刺を遠慮がちに受け取り、何度も頭を下げていた。ティーカップを受け取ったその手は、中身の液面が波打つほどに震えている。「ありがとうございます」遠慮がちに可憐な唇を白い陶器の縁につける。
依頼内容は人捜しだった。聞けば彼女は七年前、その捜している男にトラウマを与えられてからというもの、人との関わりを避けてきたのだという。立ち向かって克服すべきが、そうできなかった理由は心疾患傷害に苦しんでいたから。彼女の決意に感極まった俺だったが、逆に怪訝にも思う。七年前といえば、彼女は十八歳だ。
「どのようなトラウマだったのでしょうか」尋ねたは俺。
それは、と言葉を濁した彼女は首の後ろへ手を回し、しきりに触る。
「おい、矢部」所長が睨みながら咎める。しかし、俺は構わず熱情を押し通した。「トラウマとは別路線で精神安定をはかれば、克服する必要なんかないのでは。たとえば新しい出逢いとか」
「それは病院でも言われたことです。でも、そんな問題ではないんです」
「危険な男なんでしょう。克服とは別に理由があるのではないですか」
山岡は黒髪を揺らして「お答えできません」ときっぱり断った。所長までも「余計なことを訊くな馬鹿」と、むさ苦しいひげ面をさらに渋面とさせる。それでも俺は、山岡の内情を知りたくて仕方がなかった。協力したい。そして、深く関わりを持ち、俺こそがこれからも続く彼女の人生に力添えしたい、とそんな強い願望に囚われた。ゆえに引き下がるわけにはいかなかった。
「さがし人が見つかったあかつきには、俺が同行します。俺ならあなたを守れるはずです」
「いえ、結構です」
彼女はにべもなかった。俺からすればこれも想定外だった。女性に助力を申し出てこうもあっさり拒絶されるなど、ついぞ経験がない。と食い下がろうとした矢先、所長に「いい加減にしろ。今日、ちょっとおかしいぞ」と叱咤されてしまう。
「所長、俺にも手伝わせてください。すぐにでも動けます」
「あの、すみません」このやり取りを見ていた山岡がこう希望を伝えた。「所長さんと二人で話をさせてもらえませんか。他にも付随する事情がありまして」
俺は失意に落ちた。まるで信用されていない。しょせん助手としか見られていない。
「矢部、依頼人の要望だ。あとでお前にも情報を共有するから」
「すみません。所長さんだけに話したいんです」
口を挟んだ山岡の意向は、依頼案件から俺を排除することだった。所長は心得たとばかりに頭を下げる。
「矢部、今日は帰れ。今回は俺一人でやる」
よりにもよって退室までも命じられた。俺は意気消沈しながらも出ていく。その際、山岡静子の姿を数秒足らず刮眼した。彼女の決意はやはり、面持ちのまま並々ならぬのか。口を着けていたのに、ティーカップに満たされた緋色の液体は少しも減っていない。
「それで事情とは?」
「トラウマとは言いましたが、それだけとちゃうんです」
「矢部」
所長に睨まれ完全に扉を閉め切る。帰路につく足が重い。これまでにないほどの強い恋慕を自認していたからこそ、対象である彼女からの不信と軽視は、この俺に深い挫折感をもたらした。ふと顔を上げた事務所前の道路傍には、女性らしい丸いシルエットの白色軽自動車が停められていた。