四十二話
「待って! 待ってよ! 置いていかないでよねえ!」
泣きそうになりながらも、わたしは腹の奥から繰り返し全力で叫んだ。周りから失笑をかおうがお構いなく、羽田空港行きリムジンバスの運転手に大きく手を振る。間一髪、閉まりかけていた折り畳み式ドアが、プシュッと鳴って再び開いた。
荒い息づかいで足元もたどたどしく乗り込んでいく。他乗客の物珍しげな目が集まるのも無視して、最奥へと真っ直ぐ通路を突っ切った。そこでは、浅井太一が苦笑していた。
「置いていかんといてよ、あほ」
肩を怒らせて立ちはだかったわたしを、見上げる太一くんといえば特に動じず諦観した眼差しで鼻を鳴らすのみ。悪びれなく隣のシートをたたく。
──しいちゃん、最後部の席やで。
「分かってる」
彼は、スーツケースを足下にしていた。他は着の身着のまま、財布とスマートフォンのみ持って、わたしが寝ている間にマンションから黙って抜け出し姿を消した。直感のみで向かった場所が的中した。怒り反面、安堵と喜びが胸に迫る。
──帰ってくるつもりやったんやで。
「ごちゃごちゃうるさい。謝って。次にやったら刺すで」
斜め前座席の女性乗客が、一瞬振り向いてから別の空いた座席へと移動していく。嘆息した太一くんが、人差し指を上へと向けた。バスの天井には、説得力を呼ぶ半円形のガラス物体が設置されていた。
「これは、安心やね」
わたしは、それでも勿論、逃げようとした彼を許しはしない。乗車案内アナウンスのあと、リムジンバスが動き出す。窓際席の彼は、夜景へと目の向きを変えた。彼の心と次なる行動を読み取ろうと、挙動一つを見逃さずに凝視する。
「わたしのチケットは」
太一くんはおもむろに航空チケットを二枚分、ポケットから取り出して見せた。
「ねえ、ちょっとだけ寝るから。着いたら起こしてね」
包まれるような心地良い感覚に浸り、目蓋を閉じた。「なあ太一くん、同じ夢、見れたらええなあ」直ぐに朧げとなる意識の靄で、定かではない映像が蘇る。
ふと目を開ける。
「君、すげえ可愛いよね。超好みのタイプ。連絡先、教えてよ」
隠そうもしないあの煩悩を全面に浮き出した、憎き男の顔が眼前に迫っていた。拒絶する。しかし、欠片も臆すことなく密着しようと距離を縮めてくる。動揺を隠しきれないわたしは追い詰められ、窓際席の壁に背を着けていた。高速バスはその巨体で薙ぎ切る夜風に揺るがされ、悲鳴を大きく鳴らし、それが自分の焦る心を代弁しているようだった。男のにやけた両眼が、自分の身体をいやらしく這っていく。拍車がかかる欲望に晒され、とてつもない吐き気がした。
「じゃあじゃあ、ちょっと喋ろうよ。超暇してんたんだよね」
おぞましさで両腕全体が粟立った。頭から血の気が引き思考が閉ざされた。
「ごめんなさい」
自分はちっとも悪くはないのに、許しを請う。浅ましい悪意に敗北した瞬間だと、このとき自身の失敗に気づいた。案の定、男の要求は止まらない。いや、堰を切った。逃げ場などないのに退き、シートから床に尻を落としていた。衣服を乱暴に掴まれる。迫る顔面を必死に押し除ける。髪の毛を乱暴に掴まれ、結っていた髪の毛が乱れ落ちた。くくく、と卑しく笑う男の眼は狂気にとり憑かれていた。小声で囁きかけてくる。
「うらむ相手は俺じゃねえ」
伸びる舌が唾液を垂らしていた。恐怖で声も出ない。衣服を引きちぎられる。かろうじて絞り出す。「お願い、やめて。誰か」
「殺すぞ」
逆らえば、この男は本当に殺すのだろう。
「お、おい、やめろ」
過呼吸状態で視界もぼやけ、耳には雑然とする轟音しか届かない暗い暗い沼の底のような世界に、一筋の淡い光が生み落とされた。ここは高速バスの中で現実なのだと思い知らされるも、もう身体の機能は正常からはほど遠かった。今にも吐きそうで、意識を失いそうで、死んだほうがマシだと懇願したいくらいだった。その静子のぼやけて定かではない視界で、ゆらゆら怪しく揺れる人。
色白でひょろっとした、いかにも真面目そうな青年が顔面蒼白で立っていた。眼鏡の奥では怯えた両眼が、臆病な性格を惜しげもなくさらしている。暴漢の手によって痴態をさらす自分の様相を目にして、悔しそうに奥歯を噛み締め、次第にその色に怒気が灯っていく。それから、のちに名を知らされる正木英雄という男が、彼に顔面を潰されていく様を瞬きひとつせず直視していた。
脳に刻み込まれた。体温が急激に上昇していた。血液の激流、恐怖に氷漬けされた思考は一気に溶かされ、それどころか熱く滾る溶岩となって全身を燃やそうとしていた。
高揚感に包まれていた。応援していた。ぶち殺せ、と声を張り上げたかった。自分も加勢したかった。そして、その瞬間が訪れる。一心不乱に攻撃を加えていた彼が去ったあと、わたしは床に落ちた正木のスマートフォンを拾い上げ録画機能を停止した。
「僕の夢は終わった」運転席側からそう聴こえた。
正木英雄が、背を向け横たわる。首裏には黒色の蛇の印があった。その顔を覗き込む。血濡れの顔があった。その見開いた片目がギョロリと動く。声も出ない口を空虚に開閉する残息奄々たる正木の無惨な姿は、わたしの思考を沸騰、そして蒸発させた。まさか、このわたしに助けを求めているのか、と。お前が、わたしにしたように蹂躙してやる。
白色のぬいぐるみを、男の後頭部と床の間に挟む。これで音は消えるはず。足元に転がる警棒をハンカチで包んで拾い上げ、彼を真似て柄の底で正木の眉間を打ち据えた。勢いで血が弾け飛ぶ。
ぶるっ、と胸が震えた。芽生えた憎悪が喜び燃えあがる。もっとやれ、と求めている。吊り上げた唇の端に違和感を覚えて、伸ばす舌先で触れるとねっとりと鉄臭い不快な味がした。みっともないからやめなさい、と口酸っぱく母親に注意され続けた悪癖。お母さん助けて、とほざいたその言葉。そのとき厳しくも優しい我が母を、汚されたかのような屈辱感にまみれた。頭の中でなにかが瓦解していく。再び、強く打ち据えた。
正木はやがて終わりを迎えた。わたしにとっては始まりだった。踏み込んでしまった。沈んでいく。全身まで吸い込まれ、顔まで浸る。
母に助けを求めるも望み虚しく息絶えた正木英雄の情けない顔、真相を知らされたあとの母が涙ぐむ顔、腫れ物を扱う友人らの顔、生命の灯火を薄めていく父の老いた顔、山奥で首を刺されて目から鼻から鮮血を吹き出す藤野竜二の間抜け顔、そして微塵も動じずやってのけた宿痾に侵される冷えた顔が──わたしを鏡面から覗き込んでいた。
なんだ、あの顔は。僕は、運転手席フロントガラス付近にある車内ミラーに向けた目を離せなかった。
「僕の夢は終わった」
と、吐き出したあと嗚咽ながらに上げた視線の先、狭い世界で地獄が巻き起こっていた。最後部座席で死人同然に動かず、倒れ込んでいたはずの女性が暗がりの反転世界で動いていた。ゆっくり、緩慢な動作でヌイグルミを枕に使い、先ほどの男を寝かすや、床に転がる警棒を拾い上げ、当たり前のようにその頭部を打ち据えていた。
僕は唖然としていました。血を浴びた女の顔は、舌先でそれを舐め取り恍惚としていました。二度目に打ち据えたあと、彼女は声も出さず大きく開いた口で笑っていました。薄暗闇でギラギラ輝く二つの眼は、僕の血を頭からすべて引かせるほどの威力がありました。
小さなミラーから目が離せない僕は、胃の中の貴重な水分すべてを吐き出しました。脱水症状も含めた変調が、恐怖を助長させたのかもしれない。頭をもたげる彼女の乱れた頭髪が、前へと垂れ下がる。
あらわになったW型の生え際と首すじ、そして、黒い右向きに鎌首をもたげる蛇。
「君、すげえ可愛いよね。超好みのタイプ。暇だしちょっと遊ぼうよ」
彼の似合いもしないイントネーションが、悪夢を破った。冗談にしてはひどく趣味が悪いが、わたしへの七年越しの報復だと思ったら、この程度のことなら許せる。
「きみにひどいことをいう」
その目は、どこを見ているのかわからない。
「悪い結果ばかりを生み出した俺は、これからも、失敗を思い返しては、自分の素質を嘆いて生きていく。何かしら行動を起こそうと思い立って、けれども、ちくいちそう痛感させるのが、きみの存在や」
見ようとしているのか、それとも見まいとしているのか──少なくとも、わたしを見ていないことだけは確かだった。
「どこを見てるの。成功した世界? それとも、助けなかった世界?」
「そこまでガキやない。せやな……せめて、成功も失敗も度外視して、俺にしかできへんことで、達成したやつらを見返したいな、とは思う」
「ええな。開き直った生き方やな。終わりもない沼に沈む人間の言いそうなことやけどな」
「ああ、きみにそれを言われたら、ちょっと泣けてきた」
太一くんは、かわいた眼を、わたしに向けて言った。
それでなにをして遊ぶの、と口にしかけたときだった。
いきなり窓を全開にした彼が、抱きかかえるスーツケースまでも全開にしたときには、今度こそ断末魔をおよぼす報復がもたらされるのだと、ほかならぬわたしだけは覚悟したのだった。