二十九話
物陰から覗き見て、僕は愕然としました。鋭い影が彼女のレインウェアを貫いていたのです。しかと見ました。雨ざらしになる自分の荒い呼吸と鼓動音が、世界の全てとなっていました。ナイトビジョンゴーグルもかなぐり捨てていました。浅井さん、とつい先ほどまで呼んでいた彼女の胸に、矢が深々と突き立っていました。
駆ける足が、地面を弾く。急接近している。一人はフロントバンパー側から、もう一人は足を引きずりながら荷台側から、つまり挟み撃ちを狙っている。手の届く距離に戛然と矢が突き立つ。屈んでいたが、トラック傍からからまろびでて、木々の狭間を走り抜けました。心臓が悲鳴を上げている。太い木の幹の裏にて身を隠しました。トラック方面へと顔だけ出す。発煙筒だろう。未だに弾ける火花と立ちのぼる煙が確認できました。
続けて追ってくるかと思いきや、彼ら二人は向き合って、何やら物々しい言い争いを始めていました。
一人は泣き叫ぶように怒鳴る。
「なんてことをしてくれた!」
「うるせえ手元が狂ったんだ!」
一方は、刑務所を共にした元相棒の懐かしき声だった。三木谷と二人で探偵まがいの依頼を受けて生計を立てていた時代は、お互いの本性が浮き彫りになるにしたがい瓦解していき、必然的な終焉を迎えたのでした。
僕は、丈夫な厚手生地の靴下に足下の泥と砂利を急いで詰め込みました。囚人仲間から聞いた武勇伝をもとに作製した簡易的な武器だが、頭部に当たれば生身の人間くらい一撃で仕留めることができる。隙をうかがう。
「てめえ、ふざけんなよ。最悪だ。終わった」
クロスボウをゆっくりもたげる男。
「やめ」
一方の一人が、矢を頭部に受けて地に崩れ落ちる。その瞬間、僕は唯一の明かりがもたらされる場所を目指し、無我夢中で駆けました。右手に持つ泥入り靴下に円運動を加え、勢いもって跳躍する。雑草に埋もれて動かない女性へと屈み込んでいた男が、気付いて振り向く。
着地と同時、渾身の打撃がその頭部へ見事に命中していました。意識を絶たれた男は、あっけなく倒れ伏せる。
肩で息をしていました。気絶した方の男にはやはり、見覚えがなかった。もう一人、ペイントに汚れていても分かる。矢が眼窩から脳へと深く突き刺さり絶命した男は想像したまま、かつての刑務所仲間である三木谷斗真でした。
そしてこの数日、寝食を共にした彼女。恐怖に目を見開き、口元からは噴き出した血液で赤く濡れているのに、止まらない雨に打ち流されようとしていました。首筋に触れる。脈は無い。
「助けられへんかった、か」
何度確かめても脈は無い。左胸に一本、矢が刺さる。次の言葉が出ず、代わりにこみ上げようとする嘔吐感に堪えた。
「どうにかしてやりたかったのに、すまん。もし話しておけば、死なずには」
せめて、喉からそう絞り出す。止めるべきだった。訳のわからない理由をこじつけられ、同調してしまった結果がこれだ。他にも手立てがあっただけに悔いが残る。ことを荒立てず、穏便に終わらせたかった。二度と同じ過ちをおかしたくはなかった。判断を誤った。
目に入る冷たい雨水など意にもせず、延々と立ちすくむ僕の濡れしきった衣服の下で、急にブンブンと振動が走りました。このような山奥でも最近は電波が届くのか。場違いな感心と共にディスプレイ上の表示を凝視する。
なんと新井信吾が、直ぐ近くまで来ていると言う。あらかじめ教えていた住所を頼りにノウサギ林業に訪れ、こちらの不在を確認したのち居ても立っていられず勘だけを頼りに、怪しい道筋を辿って車を走らせてきたという。