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キラーズオブザルーレット  作者: 亞沖青斗
第九章 夢心地
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二十八話

 太一さんは、元校舎の昇降口に当たる正面玄関から、降りしきる大雨の中へと、危うい足取りで踏み出したところだった。軽量でストレッチ性能を有するレインスーツを太一さんほか、格納庫で待つわたしと園田も同様にして身に纏っている。長靴含め全身真っ黒だ。少し距離を開ければ輪郭も把握不可能なほどに、闇へと溶け込んでしまう。勿論、それが狙いでもある。

 園田、わたし、そして太一さん以外誰もいない、殺人にうってつけの夜。善悪の境界線、それすらも溶かしてしまう。自らの存在ごと。

 手を振り、開いた手でスピーカーを作り叫ぶ太一さんの声も、騒々しい雨音に掻き消されて何一つ耳に届きはしない。園田が運転手席に乗る、黄色のミニショベルカーを荷台に積載したトラックのエンジン音までも。レインウェア姿でトラックの二列目に乗り込むわたしのポケットには、元家庭科室から盗んだ包丁が収められているが、三木谷含む複数人の襲撃者を返り討ちするには準備としては心許ない。しかし、策はある。

 助手席に乗り込むと「準備はできたか?」と無表情の園田が低い声を出した。普段の仕事中には欠片たりとも見せない、攻撃性を秘めた感情だけが表に出ている。今となっては、わたしも尻込みしない。「大丈夫です」言い終わると同時、ヘッドライトが伸びて山奥へと潜る道を広範囲に照らす。

 大型のエンジンを奮い立たせて、格納庫からトラックが発進する。獲物を得たかのような一斉に降り注ぐ雨粒に晒されて、進む車内は騒音一色に支配された。

 太一さんは声を張るでもなく、落ち着いた調子で言った。

「池上さんには、どう説明したんですか?」

「香奈には、問題の調査に当たっているって言っておいた。嘘じゃないだろう。軽く口裏合わせてくれよ」

「わかってます。わかってますけど、巻き込んでしまって本当に申し訳ないです」

「気にすんな。太一が俺を頼ってくれてんのは、俺のためにもなってる。脱線したところから、まともな人生に戻ったんだって実感させてくれんだよ。妹尾も高柳も同じだ。今の危機的状況で見はなせるか」

「けど、また犯罪まがいなことを」

「太一、刑務所でもこんな話を聞かなったか?」視界不良でも淀みなく山奥へとハンドルを切っていく園田の声は、恐ろしく冷えていた。「法律を守って生活する平和な日常と、薄汚い犯罪の被害者になってしまったあとの日常。そこに明確な境目なんてのはない。人生は薄い薄い、ちょっとした力加減で踏み抜いちまいそうな氷の上を歩いているようなもんだ。ちょっとした判断ミスで、息も出来ない凍え死にそうな冷水に落ちて二度と這い上がれない」

 園田が唐突に言葉を切る。フロントガラスの向こ側では黒い山が揺れていた。風の勢力が少しゆるくなった頃合い、再び口を開く。

「油断、失敗、過失はなくとも、隣を歩く人にぶつかって転倒させてしまうかもしれん。その時には、転んだ人は起き上がれず、そのまま氷の下に真っ逆さまかもしれん。中には足下が割れて氷の下に落ちて行こうとしているのに、冷たさや痛みまでも気づかず笑いながら沈んでいく変質者だっている。誰とは言わんが、異常者のことだ」

 俺はな、と園田は言い添える。

「とっくの昔に氷の下に落ちて、まだ這い上がれていないんだ。香奈も同じで、必死にもがいているところだ。世間一般様の言うところにゃ、元暴力団組員なんざ危険でしかないんだろうが、それでも俺は這い上がれると信じている。太一もだ」

 わたしはもとより、太一さんは物言わずただ相槌を打っていた。それから、間も無く第一地点に到着した。時刻は二十三時過ぎ。ノウサギ林業が管理する敷地内へと入るためには、停車したトラックのヘッドライトに照らされる幅長い鉄門扉を越えなければならない。快適さでは天と地ほど差がある車外に躊躇なく飛び出た園田が、滂沱に打たれながら南京錠を解除して中心から門扉を押し開けた。片手にはいざという時に備えて、金属バットが握られている。道が開かれる。日常からかけ離れた深淵世界へ誘われる門だ。

 運転手席に移った太一さんはアクセルを踏み込み、親指を立てる園田を残して先へと進み行く。サイドミラーへ目線をずらす。後方では門扉を管理敷地側から閉める園田の姿が遠くなり、直ぐに闇へと溶けて消えた。昼間、事前に門扉付近の茂みに設置しておいた折り畳み式テントにて園田が待機し、門番役をつかさどる構えだ。不審者が現れた場合、携帯無線機を通じて、太一さんに報せる手筈となっている。

「誰もいませんね」助手席に移動したわたしは、落ち着きなく身体を揺すり、辺りを見渡し、うつむき、そして運転する浅井に視線を止めた。「でも、園田さんが協力してくれるし本当に良かった」

「あの人は口に出してないけど、たぶん不審者を見つけたら一人で撃退するつもりや。そうでなかったら、まず最初に矢面に立つあんなところで待つはずがない。俺が知ってる三木谷は、しょせんは卑怯なチンピラや。そら正面から園田さんにかかったら一瞬で捩じ伏せられるやろうけど、巻き込んで怪我させたない。さっさと掘って迎えに行くで」

 正面から、なら確かに敵わないだろう。

「まさか、わたしたちが今こんなところまで来ているなんて、不審者も思っていませんよ。自分たちが罠に嵌められるって警戒するでしょうし、そこは大丈夫なんじゃないですか」

「言ってることが二転三転してへんか」わたしの支離滅裂とした言動に気づいたようで、太一さんは呆れた声を出す。「こっちも最悪の事態を想定して警戒すべきやろう。けど、平和に終わるにこしたことはない」

 方針の擦り合わせが曖昧であると念頭にはあったが、太一さんが考えをあらためる気配は一切無い。

「不満か?」

「そんなことはないです。ただ、今夜決着すればいいな、って思ってるだけ」

「理想で言えばな」

 ところでや、と曲がりくねる幅細い山路に沿って、せわしなくハンドルを切る太一さんが言う。

「あのバスの中で、実は録画には映ってない、裁判でも言わへんかったことがあるんや」

 またかそれか。わたしは内心で苦笑した。今更、どうでもいいことだ。いや、そうではない。とも焦りがにわか噴き出た。自分が知らない事柄だとすると辻褄が合わなくなる。

「前に言ってたポニーテールのことじゃないんですか。何ですか?」

 好奇心から食いついたふりをする。

「ちょっと待て、もうすぐ着くから」

 人里からかなり離れて、道らしい道は既に途絶えていた。泥濘地で、随所に細かい岩面や樹木の根が剥き出す。まともな走行も厳しい。奥まるごとにタイヤ跡すら残るか定かではない疎林の中へと、突入していく。人が入り込むことも滅多にない、いわゆる辺境の地だ。昼間のうちに下調べしたその際に、いっそのこと穴まで掘ってしまえばいいのではないか、との提案も太一さんからあった。けれども、わたしは「誰かに見られたらまずいし」と懸念し、ここに来てやたらと慎重になる園田までも「社長や繁田が急に来るかもしれんし、無断で重機を持ち出しているところを見つかってもよろしくない」と夜間の決行に賛同した。

 通常より大きいタイヤが、腐った細かい倒木をへし折って進む。林立する木の幹が密度を増す直前で停車し「ここで待て」と太一さんは降車するため防水フードを被った。

 この機を逃してはならない。

「あの、わたしのナイフ、返してもらえませんか」

「なんでや」

 すぐには、理解が追いつかなかったようだ。車内に独り残る状況に恐怖している、と遅れて納得してか、懐中から取り出したバタフライナイフを返してくれた。

「俺に向けるなよ」

 ぞんざいに言って太一さんは降車した。足下はぬかるんでいる。そして目元には、業務中緊急時に使うらしい、特殊部隊仕様を想起させる武骨なゴーグルが装着される。

 バタバタと、全身のナイロン生地を激しい雨粒がつぶてのようにいつまでも降り当たっては、右から左からと強風で煽る。太一さんは渦巻く雨嵐の中、それでも勇ましく立っていた。わたしが理想とする芯の通った立ち姿、そしてその身体に縋りたくなる欲求が高まる。しかし、山が見ている。圧倒的巨影が、巍然と蠢動している。怒りを買ったかのように、雨足がいよいよもって強まる。

 ミニショベルカーに乗り込み稼働させ、トラックの荷台から降ろした太一さんは、あれだけ逡巡の素振りを見せていたのに、ここにきてまるで迷いない操縦で林の間を縫って進んでいく。

「気が変になりそう」

 車内でボソッと呟いた。わたしの本音は、騒々しく回転するキャタピラーの動作音に吸い込まれていった。

 明かりの乏しい環境下での操作で、少々手間取っているようだった。トラックのヘッドライトに照らされるアームがゆっくり動き、先端の力強いショベルが勇猛に固い地面をえぐる。同じ動作を繰り返すうちに作業は進み、二十分足らずで用途に沿った深さもサイズも満足とされる穴が形成された。

 トラックの荷台に、太一さんがミニショベルカーを積み戻す。見計らって、わたしは、懐に収めたバタフライナイフを取り出そうとした。その時、スマートフォンが指に触れる。視界にも触れた。恐恐と見る画面には、揺れる炎が映っていた。

「違う、これは、幻覚」

 ごくり、と生唾を飲み込む。目眩がしただろう。はい。山奥だ。はい。電波がつながりにくい。はい。にも関わらず、はい、真っ暗の画面から、はい、声が、はいはい、低い音の風、はい、高い音の風、はい、騙せばいい、はい、復讐、はい。

「おい」

「はい!」

 運転席の太一さんが間近から、わたしの顔を除き込んでいた。

「俺の顔を見ろ」

「はい」

「なんか目がおかしいで。スマホ見たら気分悪んなるやろ。しまっときや」

「はい。いや、だ、大丈夫です」

 素直にスマートフォンを収める。見守っていた太一さんは分かりやすく眉をひそめた。

「それより、浅井さん。さっきの録画に写っていなかった話って、もしかして人には言えない秘密とかですか」

「そうや。状況からしてあんたも知らんやろな」

 内心ほっと胸を撫でおろした。

「どんなことです?」

「バスに乗り込む前、ポニーテールにしてたあんたの首裏に黒い染みがあった。いや、染みと思ったけど、あとで色々と知ったはなし、もしかしたらネズミのシールタトゥーやったんかもしれん」

「シールタトゥー? いえ、知りませんよそんなの」

「ほな、ただの汚れやったんかな。あんたの首の裏には、それらしい痣とかなかったし」

 太一さんはあっさり引き下がった。

「仮に、ネズミのシールだとしたら、どうだったんです?」

「シールは、ドラッググループの証明みたいなもんやったらしい。男はヘビ、女はネズミのシール。女のネズミのシールは、ドラッググループの幹部らへの生贄、みたいな意味があった。あんたあのとき彼氏にバスまで見送られてたやろ。そのときから、あんたがシールをつけてたなら正木英雄がとった行動からして……意味わかるやろ」

「ドラッググループの一員だった正木英雄とわたしの彼氏が、最初からグルだったと? わたしは生贄にされた?」

「身に覚えがないなら勘違いかもな。ドラッググループも結局、摘発されずじまいらしいから、都市伝説に近い逸話になってる」

「それ怖いですね。その話が本当なら、絶対に許せないですよ。女性を食いものにするなんて」

「あくまで逸話や」

 にわか正木英雄の顔が、頭に浮かんだ。やはり、死んで当然の男だったのだ。煮え滾る血流のせいで目眩までが起こる。死ぬべきが浅井太一、であるなど間違っている──いや違う、浅井太一のせいだ。眼の前に、炎が──手を伸ばす。熱いわけがない。幻覚だ。消えるはずの幻覚。あの声だ。しつこくこびりつくあの男の声が、耳朶によみがえる。

「違う。浅井さんは悪くない。悪いのは、正木英雄、あいつが悪い」

「ごめんな、思い出させてもたな。とりあえず帰ろう」

 太一さんがギアをバックにスライドする。わたしは、次にハンドルの手を止めた。腹の中で、スマートフォンの振動を感知してしまったからだ。

「ちょっと待ってください。気分が悪くて、外で頭を冷やしてきます」

「山道で酔ったんかもな。俺も行こう」

 俄然、意志を固めてトラックから降りた。フードを深く被り、運転手ドア前の太一さんの方へ回り込んでいく。外は骨が悲鳴をあげるほどに冷たく、膝上まで丈のある雑草は長靴の足元に粘り付く重さがあった。膝に両手をつき、うつむくわたしに、傍らの太一さんは急かすことなく励ます言葉をいつまでもかけていた。

「浅井さん」

 雨足に紛れてもおかしくないくらいの小声で言ったが、「どした」と太一さんは確かに聴いていた。次には、大声を張る。

「予行戦闘演習しませんか! 敵を殲滅する実技です!」

「はあ? 演習? てか、声でかいねん」

「作戦はこうです。浅井さんが囮になってください。わたしが敵を襲う役です!」

「いや、こんなところで動き回ったら危ないやろ」

 わたしは、レインコートの中から黄緑色のボールを取って握るや否や、近距離から太一さんの胸に投げつけた。

「おいおい」

 トラックのエンジンを切って、ヘッドライトまで消すわたしの突飛な行動に、彼は余裕も失い慌て出す。つぎに、声を極限までひそめた。

「こうしましょう。身代わりを立てるんです。車の中に積んである寝袋に、浅井さんが着ているレインコートを被せてください。必ずです」

 光を失い完全に暗闇と化した雑木林の中、太一さんにぶつけて割れたペイントボール内の黄緑色液だけがぼんやり発光している。

「では、始まりました!」

 叫びあげたわたしは、トラックから脱兎の如く駆けて離れ、昏天黒地に紛れてしまう。

「おい! 気をつけろよ! そっちも見えてないんやろ!」

 今度こそ、強烈な雨音だけが聴覚の全てとなる。当惑する太一さんは立ち往生しているのだろう、先ほどのトラック前からペイント液の黄緑色がほとんど動かない。作戦の細かい手順を説明されていないのだから、それもそのはず、雨であろうと汚れが落ちやすいナイロン生地であろうと、蛍光防犯ペイントはそう簡単に流れて消えない材質だ。

 動かなければならないのは、わたしの方だった。しかし、意思に反して動けない。バタフライナイフの安全金具を外し回転させると、二つに分かれた柄からブレードがあらわれた。彼らは、いったいどこから現れるのか。合図するまで、攻撃は加えないはずだ。まず合流せねば、と息を殺して移動しようとしたその時だった。

 しい、と左傍らで聴こえて見ると、フードで顔の隠れた男が、クロスボウガンでトラックの方を狙い定めていた。

「俺がやる」

 戸惑うわたしを挟む形で、逆側の右にも別の男が現れてしゃがみこむ。その手にも、クロスボウガンがある。放火した倉庫から奪ったクロスボウガンは一つだけだったはずなのに、まさか新たに用意したのか、わたしは意表外の出来事を目にして思考がこおりつく。右の男が言った。

「叫んで引きつけろ」

「み、三木谷」

「叫べ、早く。引き付けてからだ」

「はい」つい、勝手に口が動いていた。「浅井さん助けて!」従ってはいけないのに──口が勝手に動く。「浅井さん、ここ!」

「どこや!」

「浅井さん! 助けてえ! 痛いっ、やめて! 捕まってる!」

 混乱する思考の下でも、下手な演技だと自分でも思った。暗闇と騒音の中で、黄緑の発光ペイントが大きく揺れた。

「俺がやる」

 三木谷の制止をふりきり、左側の男が引き金に指をかけた。

 甲高い風切り音が、わたしの左耳元を掠めたや否や、バスンと立て続けにトラック方向から鈍い音が短く鳴り「あああっ」と悲鳴から泥に何か重い物体が落ちる。続けざまに、三木谷からのクロスボウガンからも矢が射出された。そのあと、うげっ、がはっ、ごぼ、と地面を掻きむしる悶絶の物音と雑ざり、とうとう潰えた。

「やったか」

 左側の男が言う。

「浅井さん、あ、あさい、さ」

 直撃した。

 左側の男が低い姿勢のまま、草木を掻き分け前進していく。ボウガンの矢に貫かれ、もう二度動きはしない彼の姿が雑草に埋もれているのか、確かめるために。もし、虫の息ならとどめを刺しに。

 呆然としている暇もなく、わたしは我先に茂みから飛び出、雨合羽の男を追い抜き、トラック脇の地面に転がる影に駆け寄っていた。背後から強い光を浴びる。続いて来た三木谷が照らす懐中電灯からの光線は、生々しく突き立つ二本の矢に定まる。

「あ」呆気にとられていた。発光ペイントが付着する雨合羽は、確かに貫かれていた。それは間違いないがしかし、中身は丸められた寝袋だけで、見渡せど浅井太一の姿はどこにもなかった。作戦が成功したのだ。

「どこだ」「勘付かれたか」

 後から来た二人は口々に言って、散開していく。彼らの手元から伸びる二本の懐中電灯の光は、雨闇の辺り一帯をくまなく照らしていく悪魔の目のようだった。

「さがせ」「ころせ」

 立ち尽くすわたしは、やがて怒りに打ち震えた。烈火の如く憤りが、幻の炎を今度こそ覆い消す。

 裏切るな。

「いやだ」

 作戦が成功したのは途中まで。次は自分の番だ。わたしは、憤慨に任せて勢い緩まず駆け出した。向かうは、懐中電灯とクロスボウガンを構えながら慎重に移動する、片割れの男だ。

「うわあああ!」

 固く握り締めていたペイントボールを、力まかせに投げつけた。一人の顔面に直撃して弾けると、その被弾者は悲鳴をあげた。

「なにする!」

 こっちは三木谷だ。もう一人は、おいそれと攻撃してこまい。思惑は当たった。バタフライナイフを振りかぶる。驚きを黄緑に塗り潰される顔面は、右半分の骨そのものが酷く変形していて皮膚にも無惨な傷跡が残る。いつ見ても化け物のよう。放火魔と呼ばれるに相応しい卑屈っぽい目を、無理矢理こじ開けてもいた。

「おい、やめろ!」

 力一杯振り下ろしたナイフの切っ先は、彼の肩口を掠めた。標的は突然の襲撃に焦り、体勢を整えきれず泥に尻を着く。二度目の鋭刃が同じ軌道で襲う。

「くそ」

 手応えがあった。バタフライナイフの切っ先が、倒れた三木谷の太ももに深く突き刺さる。柄まで達していた。次こそ息の根を止めてやろうと、ナイフを引き抜いた。

「山岡さん逃げろ!」

 どこからか、心から求めていた彼の声がした。

 わたしは、膝から地に落ちました。自分の胸に深く刺さる細長い棒と、眼前でクロスボウガンの発射口を向ける化け物を交互に見返しました。信じられなかったのです。

 そして、本当の闇に閉ざされました。同時に一呼吸も許さない熱いものが喉奥から込み上げて、口から「あさいさ」と、最後の言葉を、たぶん吹き出る吐血が塗りつぶしました。耳元で、いや、はるか遠くで、わたしの名前を呼ぶ声がしました。お母さん、わたし、添い遂げたい人ができました。

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