十九話
「ついさっきまで知らんかったけど、郡沢が殺されたらしいな」
一瞬反応に迷った。わたしは、つくり笑顔を浮かべた。
「あのニュースに出てた殺人事件。まさか知り合いですか」
片眉を上げてしばらく黙っていた浅井は、やがて低い声で言った。
「覚えてへんのか。あの時の高速バスに乗ってたデブ弁護士やんけ」
上空の強い風によって散り散りに流されゆく薄雲から、穏やかな晴れ間が覗き始める翌朝のこと、未だ眠気が払拭できないわたしは、車の助手席から山間部へと向かう道の先を瞠目して思案にあぐねた。
「わたし、その辺りのことは代理人におまかせしていたんで、全然知らなかったんですけど」
「知ってるのは俺の名前と、正木秀雄のことくらいか?」
「すみません。どんな人だったんです?」
「裁判の証言台に立ってた。正木のことが怖くて、自分はなんもできへんかったとか、情けないこと言うてたわ。弁護士でもそんなもんなんやな。いや、正確にはそのときは、もうちゃうかったらしいけど。想像の範囲内やけど、殺され方からしてわけありなんやろな」
やがて街並みには住居が薄れ、雄大な山々に囲まれていく。浅井の職場に到着するまで、四十五分ほど要する。進むにしたがって視界に入る色合いには緑が潤いに満ち、細くなる道路のそばを流れる清流までが強くなる陽光で輝きだす。
「ところで、他のニュースのことに関しては、山岡さんはみてへんのか」浅井の口調は相変わらずかたい。
「なんのことです?」
わたしは朝が弱い。かけられた言葉の意味を反芻理解して、徐々に焦りが顔の皮膚を硬化させていく。
「東京で探偵やってた人が死んでたらしいで。ドラッグの過剰摂取とかで」
血の気が引いていた。記憶が混濁する。
「山岡さんが、俺を探すために依頼した探偵さんも、そういう悪い連中に狙われながら仕事してんのかな、と思ってな」
「そうですよね」静子が付け加える。「その所長さん、真柴さんっていうんです」
「今朝、マスコミが公表してたな」
「そうじゃなくて」
生唾を吞み込んだ静子は、その真柴蓮一郎こそが浅井太一探しを依頼した探偵である、という事実を恐る恐る告げた。それを聞いた浅井は、特に驚いたふうでもなく、単純明快な考察を口にする。
「となると、真柴蓮一郎のドラッグ過剰接種は疑わしいな。調査依頼前、山岡さんに怪文書送ったやつの仕業、と考えんのが自然やな」
「やっぱり、そうなりますかね」
「君ちょっと抜けてへんか。呑気すぎるやろ」
浅井からの白眼視に、わたしはしおしお項垂れる。
「同じ日に殺されてたらしい郡沢の事件にもつながるかな。となると動機はなんやろ。俺に対する対する単純な復讐とも思えんな」
「ははは」
「何がおかしいねん」
「浅井さんを頼ってきてよかったです。こんなに冷静に考えてくれるなんて。わたしなんて現実を突きつけられてほら、手が震えてしかたがないです」不満もまとめて吐き出す。「今だから言いますけど、実は真柴さんの助手、苦手だったんですよねしつこくて。自宅まで来られたり」
「助手……ほう、自宅まで。いつ? 正確な日はわかるかな」
「ええと、わたしが東京を出る前の夜でしたから、三月十三日、ですね」
東京の住所は、と浅井から真剣に問われたので、正直に答えた。
「同じ世田谷か。なんかあるな。その助手、郡沢殺人事件に関することを目撃してるとかないかな」
矢部光明。あの顔、声。思い出すだけで、胃の中がむかむかしてくる。
「わたし、あの探偵さんの助手が嫌い」
「さっきも聞いたけど」
「なんかこうキリッとしていて、あなたを大事にします、みたいな誠実な態度」
「それ、ええとこだらけやん」
「自分でそう思っているだけなんですよ。そのくせに、自覚なしゴリ押し感があるんです。他人の問題に平気面して口を挟んだり、果てには勇ましく助けに入ろうとしたり、それが誰にでも通用すると思ってるみたいで虫唾が走る。社会のルールに適合して、そんな優位なポジションから弱者に与えてあげる。それが容姿と才能に恵まれた俺の使命、みたいなね。吐き気がするんですよ」
「だいぶうがった目で人を見てんなあ。あながち、幸せな人間はそういう妬まれてること気にせんと生きてるんやと思うで」
「あながち、踏み込み過ぎて足下をすくわれるんですよ。褒められるばかりで失敗を知らないから、押しが強い。だから、失敗したとき失意の底から助けてくれる他人の優しい言葉に弱い」
「山岡さんも外見は恵まれてるよ」
「ありがとうございます」
照れ臭くなるわたしを横目にして「単純やなあ」と浅井は呆れ果てる。
そんなやり取りが、偽りない笑い声を自分の心底から生んでいた。伸びをして自然豊かな景色へと視線を移した。わたしは、控えめに賛嘆した。
「いい景色ですね。なんだかここ好きになれそう」
「そら良かった。そういや、心療内科とかにかかっている時は、都会から離れたりしてなかったんか。キャンプもしてたんやろ。どこ行ってた?」
「え?」静子は思い出そうとした。咄嗟に地名が浮かばない。
からかわれている、と感じたのか浅井は横目にする角度を鋭くさせた。「せやから、どこにキャンプにいってたんや、って」
「地元のキャンプ場ですよ。そんなに山奥ってわけじゃないです。ここに来る前も寄り道して、一人でキャンプしたんですよ」
「狙われてるかもしれんのに、無茶苦茶やな」
確かに一人でキャンプするには、奇妙と言っても不思議ではない場所だった。内心恐々とする。横を見ると、浅井はいつものしかめ面をつくっていた。変わった男だ、と思った。愛嬌を振る舞う容姿の良い若い女性に特別視されば、一般の男性は自分に脈があるのではないかと都合良く勘違いし、簡単に油断する。経験則も加味して多少なりとも期待していたが、彼は一向に色目を使おうとはしない。むしろ、昨日より不機嫌となっていく。
「心配するな。ちゃんとフォローするから」
と、彼から声をかけられて納得する。ああこの人は自分を職場の人に紹介するため、失敗しないよう真剣に考えてくれているのだな、と。
「乗り物酔いはないか? この先、ちょっと道が悪んなる」
いつの間にか民家もまばらとなり、車の対抗が困難と云えるほどに道幅も狭く、それどころかガードレールすらも消えていた。脱輪すれば、木々が鬱蒼と立ち並ぶ谷間へ真っ逆さまに転落するだろう。陽の光さえも遮る薄暗い山中を突き進む軽自動車内は振動が激しくなり、つづら折りの山路も含めて乗り心地が悪い。やがて、樹木の壁がひらけて明るくなる。そこには、ノウサギグループ林業、という立て看板を入り口門にする古い木造建築の建物があった。
「小学校の廃校舎をそのまま使っててな。過疎化が進む十年くらい前までは、この辺りももうちょっと民家があったらしい」
「へえ、こんな山奥に。みんな大変」
「実は、従業員のほとんどが地元の人間とちゃう。鬱病から脱サラで人生やり直したりだの、借金まみれで夜逃げしてきたやつだの、孤児院出身だの、元ヤクザだの、中卒の鑑別所出身だの、元引きこもりだの」
「ははあ。わけありばかりだと」
「社長の方針やな。みんな恩義は一生あっても返せれへんな」
「じゃあ、昨日から電話してる人も恩義あると。師匠とか言ってた」
「園田さんや。俺に社長を紹介してくれたんも園田さんやし、仕事に必要な体力や筋力づくりを手伝ってくれた。あの人がおらんかったら、俺は今頃のたれ死んでるわ。見た目は厳ついけど、ええ人やから心配せんでもいけるよ。ほら降りるで」
元は屋外運動場であったらしい千五百平米と広い赤土の敷地内には、積み上げられた丸太の山や角材の束が一時置きされ、他にもダンプカーなどの運搬車に加えて巨大な油圧式アームを備える重機が駐車されている。屋内体育館を流用した格納庫は、従業員のひとりが開け放っている最中で、中にはミニショベルカーがいくつも並んでいた。裏庭には事務員の趣味でもある菜園が広がり、夏の収穫が待たれている。既に出社している従業員の車もあり、後からも続々と駐車していく。建物内へと向かう浅井が言う。
「いいか、社長や園田さんらも含めて、他の従業員に詮索されても今回の面倒事は誰にも言うな。さっきも言うたけど、俺も含めて皆がまともな人間やない。どこでどんなやつと関わってるかわからんし、皆が仲が良いわけやない」
屋内へと続いて入るわたしに鋭く注意喚起する浅井だが、表向きは臆するわけでもなく飽くまで堂々としていた。緊張でわたしの顔色が悪いと察してのフォローを、早速発揮している。二人だけの秘密と暗に伝える彼の背中が、やたらと頼りに感じた。離れずついて歩く。
小学校の校舎といっても、当時は数少ない児童人口を見越して建造されたようで、老朽化した木造校舎を補強したのみで手狭であることには変わりない。色褪せる白壁には所々ひび割れの補修跡があり、使いならされた古い建物らしく匂いも独特で今にも走り出す子供たちの歓声が聴こえそうだ。艶光ひとつない黒ずんだ木製廊下から二階に上がり際、目算年齢四十過ぎの口髭をたくわえた男性が煙草をふかしながらあからさまに疎ましげな目つきを向けてきた。
「おはようございます。しげたさん」
浅井のほうは丁寧に頭を下げるが、壁に背をつけた彼は返事もせずに見る目をいっそう険しくさせる。
「山岡さん、主任の繁田さんや。重機械の整備や格納庫の管理してる。繁田さん、山岡さんです」
わたしは敵意ある目付きに耐えられず、ささっと浅井の背中に隠れる。
「よう、浅井。池上と同じで、お前もお気に入りを紹介するつもりかあ」
今度は前方から大股で歩いて近づく三十過ぎらしい偉丈夫が、遠慮のないだみ声で言う。心底から恐れをなした。わたしは、とうとう浅井の左腕へとしがみついてしまう。
「おはようございます。たがみさん」
反面、至って平然と挨拶のみ返した浅井は、たがみ、という名の男が舌打ちしようがお構いなしだった。
「さっきのは、可愛い子の前でイキりたいだけの勘違いオジサンや。案外ルールには忠実だったりするから、めんどくはないよ」
小声で耳打ちする浅井の顔面が急に近づき、精神的にほとんど限界だったわたしは、ここで別方向に焦ってしまう。鼓動が早くなっていた。彼は次に元校長室である『社長室』の表示扉前に立ち、控えめにノックする。
「浅井です。おはようございます。昨日電話で言った人を連れてきました」
「入っていいよう」
間延びする明るい返事があり、浅井は左腕にまとわりついたわたしを手振りで離れさせてから、ゆっくりと扉を開いていった。両袖デスクに座した状態で窓からの後光を受ける恰幅の良い男性は、柔和な笑みを浮かべて手招きする。
「日浦さん、こっちが例の山岡です。わがままを通していただいてありがとうございます」
「いいよいいよ。ちょうど、人手が足りていなかったから」
答えた日浦洋一という男は、車中での浅井の説明によれば、ノウサギグループ林業の創業者でどのような人間かと他人に尋ねられると差し当たり「七福神の恵比寿様みたい」と、言っておけば容姿と雰囲気ともども間違いはない。人生経験の豊富さをあらわす往年の深い皺もあり、年齢も五十六となる。ともすれば、従業員同士の揉め事にはあまり関与しない日和見主義な性格であったりもする。しきりに関心声を出す彼は、三日月目で直立不動のわたしをじっくり値踏みしてから、自己紹介と経歴を求めた。そして、小膝を打つ。
「よし、とりあえずじゃあ、試用期間としてアルバイトから始めてもらうね。体調の方は無理しないでね。教育は女性従業員をつけるから、まあ気楽にやってよ」
何度か繰り返し唾を飲み込んだ。わたしは、両肩に頭を埋めるようにしてお辞儀する。
「あ、ありがとうございます。あの、早く慣れるように頑張ります。あとそれと、浅井さんが住んでいる倉庫のフェンスを壊しちゃってすみません。社長さんの持ってる物件だって聞きまして、わたし、弁償しますんで」
「いいよいいよ。どうせ古くなってたから、別に気にしなくても。浅井くん、池上さんと桶口さんに話は通してあるから事務室に連れていってあげて」
「ありがとうございます。では、失礼します」
未だ動きもおかしいわたしは、うやうやしく低頭した浅井に引きずられて元校長室から出ていった。廊下では五人ほどの男性がこの時を待っていた様子で、遠巻きにして物珍しそうな目を向けてくる。社長との面談を盗み聞きしていたらしい先ほどの繁田と田上は、その中でも揃って険しい表情となっていた。表情ひとつ変えない浅井は、周囲の反応を無視して一階へと降りていく。
「ま、待ってください」
「いいか、しっかり覚えろよ。それとここじゃ一応、社長の方針でセクハラだのとかは御法度になっているけど、もし誰かにそういう行為をされたらすぐに言えよ。どついたるから」
「あの、社長さんは、わたしと浅井さんの関係を知っているんですか?」
「当たり前やろ」
「あの、い、一緒に住んでることも?」
「一泊しただけやろ。保護者つきみたいなもんや」ふと思い当たったふうの浅井が、そういえば、と言う。「山岡さんの親は大丈夫なんか」
「父がどうしました?」
「心配してへんのか」
「さあ。どうでもいいんじゃないですか」
「同じ世田谷で郡沢が殺害されたんやで。東京の方が危険とちゃうんかな」
「だいたいの事情は知ってますから、自分で判断しますよ。逆に、浅井さんといれば安心できます」
「まともに喋れるのが俺だけやから、そう感じるだけや。せやけど、ここではそうはいかへん。他の男性従業員とも普通に会話してもらう。ここや、入れ」
今度はノックもせず無造作に開け放ち、教室であった今は備品だらけで狭い事務室内へと、わたしの背を押し込む。中では、二人の女性が何事かと目を丸くしていた。
「池上さん桶口さん、あとはよろしく」
「ちょっと待ってくださいよ」
心の準備もまだで、慌てふためくわたしがすがり付こうとするも、廊下側から容赦なくスライド扉を閉め切られてしまった。
「こんにちは、とりあえずゆっくり話しましょう」
桶口と名乗る気の強そうな女性と、一般的に見て美人の類いに入る容姿の池上なる女性が、優しく微笑んでいた。二人に促されて、表面が傷んだ革張りのソファに座る。差し出されたティーカップ内のアップルティーに唇をつけると、それだけで温かみある甘味が鼻腔より奥のほうまでじんわり広がった。簡単な自己紹介と仕事の説明を受けたあと、ここからが本題とばかりに、
「ね、初対面からいきなりだけど、浅井くんとの話しも聞かせてよ」池上が邪推ない温かな声で言う。
わたしは臆しながらも話した。七年前の事件から、同性の友人関係が全て崩壊してしまったわたしにとって、黒い経緯を知った上で素直に受け入れてくれる環境がとても非現実的に思えた。桶口や池上からも、簡単に過去の黒歴史とやらを語られ、それでいよいよ納得した。彼女らは、浅井太一や他従業員と同じく再起を目指して尽力しているのだ。
ここに来て僅か数十分足らずだというのに、わたしは彼女らを羨ましく感じた。自分にもこのような道があったのではないか。もし、もっと早くから浅井太一との再会を試み、今と別の立場として行動を起こしていたら救われていたのではないか。彼には、そう思わせる強さと条件が兼ね備えられている。アップルティーの液面が揺れる。映る自分の顔も揺れる。
──あれ、誰の顔?
世界が揺れていた。亀裂のような疑念が走る。
「しずちゃん、大丈夫?」
池上から心配そうに覗き込まれ、我に返る。
「すみません、たまにぼんやりしちゃうんです」
もう、後戻りはできないんだった。気を取り直して、浅井太一の身辺関連を質問する。桶口によると、田上も主任の繁田も現場作業に準ずる他従業員の多くが、いわゆる体育会系高圧的態度を好むのだが、異質的な浅井太一にだけは爆発の恐れを抱いているようで、遠巻きに冷やかしたり侮辱を繰り返すのみとする。今や理不尽かつ横暴な行動にまで出ることはないが、入社当初から従順ではない浅井に皆が手を焼いたらしい。浅井側が社会的理念や法的知識で論破し、捻じ伏せた揉め事とて一度や二度ではない。加えて、浅井が尊敬するある男の存在が抑止力ともなっている。この職場でもっとも、実力、権威、信頼をつかさどっていると評して決して過言ではない、強烈なカリスマ性を誇る人間に加護されているとなれば、決定的な行動にも出られないだろう。流れ的に、わたしもおそらくその傘下に入る。
その日は、つつがなく時間は過ぎて日が没する前に、わたしと浅井は、無事に山から降りた。晩は、駅前の小さな大衆居酒屋を場にして、女性従業員のみが参加する歓迎会が催され、そこでは池上や桶口との会話が盛り上がった。ほろ酔い後の帰宅時には日帰り温泉に連れられ、ここでもサウナなり瀟洒な内装の大浴場を満喫した。池上の車で平屋に帰宅したときには、心配そうな顔した浅井が外まできて出迎えてくれた。