十五話
浅井は基本的に無口だった。自分からは話しかけてこようともしない。明言したまま優しくするというより、邪険にしない度合いのあつかいで、はるばる東京から来たわたしにしてみれば、大して重要視されていないと感じさせられる堂に入った態度だった。その彼が、あからさまに低姿勢となっている。
「すみません、園田さん。ちょっと今夜も無理そうで。というか、ちょっとの間は行けそうにないです」
『本当か。なにかあったのか?』
「ちょっと、めんどくさいことがありましてね」
『なにがあった?』
「あんまり人に言うことじゃないです」
『言えよ。相談にのるから。今からみんなと飲みに行くんだけど、そこでどうだ』
「無理です」
『どうしてもか?』
浅井は当惑していた。恐らく目上の人だろう。兄貴肌で面倒見が良い人間に頭が上がらないと、車内で言っていたその通り、堂々としていた威風も気持ち萎んで見えた。
「七年前の、あの女が来たんです」
電話越しの園田とやらは、絶句した様子だった。
「なんでちょっと、今から二人で積もる話ってやつを」
『わかった。また明日、話しきかせろよ』
スピーカーからもれる銅羅声は、まるで近くにいるわたしにも言って聞かせるような迫力があった。ようやく通話を切った浅井は、長いため息を吐き出した。
「今の仕事の師匠や。みなまで言わんでええやろ。明日会うし」
「あまり、優しそうには聴こえなかったんですけど」
「元ヤクザやけど、優しいで」
つまらなそうに浅井は続けた。
「出所してから短期間でいろいろと仕事したから、ヤクザ云々、物騒な連中との繋がりも確かにできたよ。けど、違法なことはしてへん」
「それは、どんな仕事です」
「何でも屋みたいなんとかな。で、なんにする」メニュー表を流し見する浅井は、唐突に話を打ち切ってしまう。「ここは出すから、好きなもん頼んでもいい」
「本当ですか」話の流れも忘れて、わたしは自分がもつメニュー表に飛びついた。「えと、じゃあ、フグ三昧御膳とかいうので」
和服仕様の店員を見上げて注文する。そういえば、と彼の日焼けた顔や筋肉質な身体を見回す。
「今の仕事って」
「林業」
「りんぎょう?」
「山の木を伐採したりとか、運搬したり。あとは副業の警備。昨日ここに来るときに見んかったかな。大型総合病院の跡地も取り壊し日時が雨で延期になりそうやけど、ちょっと前まで夜勤ありで警備してた」
「廃病院ですか。怖くなかったんですか?」
「詰所で監視カメラの映像観て、一時間に一回、内部を巡回するくらいやからな。俺は、他の警備員がシフトに入るのを嫌がる土曜に入ってたていどやし」
「土曜の夜から日曜日の朝まで?」
「そう、いまはちゃう場所やけど」
「それで昨日は」
「さっきのショッピングセンターの夜勤警備やった」
「あの……廃病院にしのび込んで寝泊まりとかは、さすがに無理ですかね」
「好きにしてもええけど、不良連中がきたとき、あんた自分の身も守れんやろ」
「あ、わたしひとり? 浅井さんは?」
「なんで、俺があんたとわざわざ廃病院に泊まらなあかんねん。意味ないやんけ」
浅井は、馬鹿を見るような目つきでいった。
やがて、下関名物トラフグが主役の懐石料理が届き、広いテーブルへ次々と並べられていく。精細な模様の上等な器にも遜色ない料理の数々は、ふぐしゅうまい、ふぐ刺身、てっちり鍋、ふぐ茶碗蒸し、ふぐ唐揚げ、赤だしと普段は口にできぬ絶品ばかりである。わたしは「わあ」と手を合わせてわざとしく感嘆した。遠慮なく香りを楽しむ。「食べ切れるかなあ」何年ぶりのご馳走だろう。興奮も抑えられず胸は高鳴り、感動で涙ぐみさえした。
浅井は無感動に言う。
「明日から林業会社でアルバイトしてもらう。社長には昼間に電話したから。今日のところはこれで英気でも養いな」
「でも、今日再会したばかりのわたしに、こんな贅沢させてくれるなんて」まずフグ刺身から口に入れる。「おいし、きて良かったあ」
それから食事も終わり、帰宅後に浅井に夜を越す案を与えられた。シャッターから軽自動車を倉庫内に収納し、ドアを施錠して眠れば、体裁上ならびに心理上のセキュリティ面も万全となる。浴室から出て寝間着姿に着替えたわたしは、座席シートを倒した軽自動車に入っていく。その間際「浅井さん」戸締まり確認する浅井を細い声で呼んだ。「もう少しだけ、話を」
「いいけど」
「事件のとき、なんですけど」
「ああ」と、返事した浅井の顔から感情が抜け落ちていく。
「あの男に襲われている、わたしを見ましたよね」
「一瞬やけど見たよ。ほとんどは、正木ばかりだった。裁判でもそう言った。それが?」
「わたしは、浅井さんを見てPTSDになりました。逆に、わたしはどんなふうに見えたのか知りたくて。つらいから忘れようとして、でもしっかり逃げずに向き合いたくて、これは浅井さんしかできないことで」
「ここで、男の俺の口から克明に言え、とでも?」
わたしは頷いた。短い沈黙が降りたあと、地を這うような低い声で浅井が語り始めた。
「裁判で言った通り、髪の毛は乱れて顔は半分以上が隠れてた。強引に衣服を剥ぎ取られそうになってた。口も塞がれて悲鳴もあげれず、そんな怯えて泣いてた両目が暗がりから光って見えた。あとは、正木だけ見てた」
「やっぱり」
「可哀想な姿やったから、直視したらあかんと思ったしな」
「可哀想……ですか。浅井さん、わたしの気持ちを聞いてくれませんか」
「どうぞ」
「ずっと、もやもやと考えてたんです。みんな、たまたま流れてきた良い風にのほほんと乗せらてるだけで普通の幸せをつかんでる。運がいいだけ。じゃあ、わたしは?」
浅井は頭を振った。
「そういうことは、ひとりで考え過ぎへんほうがええ」
「じゃあ、聞いてくれますか」
「また明日な。せっかく来たんやから全部言葉にして吐き出そう。どんな失敗談でも俺は馬鹿にしたりせえへんし、否定せえへんから。経験者の俺がいうんやから間違いない」
「ありがとうございます。おやすみなさい、浅井さん」
しかし、浅井は直ぐに離れなかった。打って変わって真剣な声で言う。「質問の意図とちゃうけど、裁判で証言してへんことが実はある」
「え? なんです?」意識は冴えた。
「ポニーテールを見たい」
「ポニーテール?」
「バスに乗る前、あんたはポニーテールにしてた。けど、正木に襲われてるときは結んでた髪はとけて落ちてた。ゆるく結んでたんかな。それとも、正木にヘアゴムかなんかをもぎ取られたんかな。そのヘアゴムはどこにいったのか、気になってたんや。再現性をとりたい」
わたしの動悸は落ち着きを失いつつあった。「再現性ってあの、まさか」逃げ場のない暗い車内の隅で縮こまる。
「阿保か。あのバスの中と、同じ結びかたのポニーテールを見てみたいだけや」
「それくらいなら、まあいいですけど」
すると、浅井は棚から輪ゴムを持って直ぐに戻ってきた。どうしても、ポニーテールにさせたいらしい。内心まんざらでもなかった。わたしは素直に従って、手早くポニーテールに結った。首の裏を見せて欲しい、との浅井の要望に応えて、うなじをあらわにした。わたしは凝視されてちょっぴり恥ずかしかった。にも拘わらず彼は、ふん、と鼻を鳴らす。
「だいたい分かった。もうええ」
なんだそれは、と鼻白む。振り返ったときには、要諦は心得たとばかり浅井はもう背を向けて「ちょっと外を見回りしてくる」と既に離れかけていた。不貞腐れて車内で身体を丸めるわたしは寝袋に埋もれて、顔を隠す。そして、フグ料理を頭の中で反芻しながら眠りについた。