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キラーズオブザルーレット  作者: 亞沖青斗
四章 殺人鬼
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十二話

 多彩に色分けした付箋で飾られる六法全書と判例書を読み耽っている間に、バスはロータリーから出て多数のヘッドライトが行き交う交差点を抜けていきました。僕としては、大阪まで帰郷するこの八時間で一度も睡眠に落ちることなく、勉学に集中しようと心に決めてもいました。

 遠く果てのどこかから、耳奥まで響く煩わしい高音が鳴っていました。風鳴りか、はたまたは高速道路上を走る自動車から発生する他の現象か、と集中力が散漫になったせいでか、決意も虚しくいつの間にか寝落ちしていました。喉に渇きを覚えて、無意識にドリンクホルダーへと手を伸ばし、愕然とします。いつの間にか飲み干していたようです。今はどこだろう、と窓から外を覗きました。経由する愛知県はとうに過ぎ去っていたようで、ほぼほとんどの乗客が降車していました。再び大阪へと向かって高速道路を走る高速バスと料金所の案内看板を目にして、にわか焦りが沸き立ちます。まだまだ道のりは長い。

 車内は消灯していました。現在バスにどれほどの乗客が残っているのか気になり、僕は薄暗闇の中で首をめぐらせました。斜め後ろのガラの悪そうな男とそのほか前方に老婆が一人、最前列の席にスーツ姿の男性が一人、そして最後部席にはあの可憐な女性がまだいるようでした。その瞬間、奇妙な胸騒ぎが増幅しました。潤いも枯れた喉を絞って、吠えたい欲望にかられました。いったいなんの予兆だ、としかめた顔を窓ガラスに写したその矢先。

「君、すげえ可愛いよね。超好みのタイプ。連絡先、教えてよ」

「え?」

 小さな驚嘆が聴こえて反射的に振り返ると、斜め後ろ席に座っていたはずの男が最後部座席に移動し、ポニーテールの女性の隣席を陣取っていました。

 眠っていたのではないでしょうか、睡眠を破られた我が身の状況を把握しきれず、ひどく当惑する揺すり音が僕のもとまで届いてきました。我が耳を疑うところでした。このような公共の場で、ナンパ行為をはたらくなど、正常な倫理観を持つ人間なら到底理解できかったのです。

「いえ、ごめんなさい。困ります」

 当然だが、女性はきっぱり拒絶していました。交際相手がいるのだから至極当然の反応です。それでも女性の声は、か細く怯えきっていました。

「いやいや、俺、こんな可愛い女の子見たの初めてだって。じゃあ、友達になろうよ。あれ? 怖がってる? そんなふうに見える? 全然そんなんじゃないんだよ」

「いえ、そんなんじゃないです。でも、ごめんなさい」

「じゃあじゃあ、ちょっと喋ろうよ。超暇してんたんだよね。地元どこ? 俺さ、友達が大阪にいてんの。名前教えてよ」

「ごめんなさい」

「名前くらい教えろよ」

 男の口調が荒くなりました。

「ごめんなさい」

 女性の泣きそうな声。

「ごめんなさい」

 もう一度繰り返されました。

「大阪のどこら? ツレと遊びに行っちゃおうかなあ? 何の用事で帰ってるの? 教えてよ」

「あの、あの、家族に言わないで帰っていて」

「どうして言わねえの?」

「いや、あの、連絡しないで帰ったらみんなビックリして、喜んでくれるかなって」

「えー、なにそれ可愛いなあ。いやあ、俺ほれたわー。ねえねえ、俺たちマジ相性いいと思うんだけど、ちょっと試しに付き合ってみない?」

「わたしあの、彼氏いるんで、ごめんなさい。もうやめてください」

「はあ?」

「やめて」

「はあ?」

「やめ」

「ちょっと黙れ」

 歯を食いしばれど、僕の身体は動こうとしませんでした。楽観視していたのかもしれないです。放っておけば事態は収まるだろう、よもや最悪の状況となるはずもなかろう、まして勉学にしか興味が無かったしがない自分が悪漢から女性を守れるなど叶うはずもないとも思っていたのです。

 小さな悲鳴が塞がれました。衣擦れ、そして床に何かが落ちる物音。前方座席の老婆と中年サラリーマン風の男は、強張った顔でチラリと後方を見ただけで元の姿勢へと戻ってしまいました。

 握りしめる六法全書の表紙縁が折れ曲がりました。動かぬ目線の先は判例集参考書。あらゆる事件を取り扱った『事後』の裁判所判決の内容が克明に記されていました。その過去の事案は、実際現場に立ち会えば正視するも躊躇させる、恐ろしい状況だったのではないでしょうか。両手指で掴む分厚い本から力が流れ込んでくる。そんな気がしました。そのような錯覚を頭から追い出そうともせず、僕は立ち上がっていました。それでも膝は震えていました。

「お願い、やめて。誰か」

「殺すぞ」

 耳を塞ぎたかった。しかし、僕の意識は逆に鋭敏となっていました。ポロン、と小さな電子音が鳴りました。

 下唇を噛み締めました。飽くまで念のため、携帯護身具を尻ポケットに捩じ込みました。僕の右足が、一歩踏み出されました。二歩三歩と続きました。日本国の法律にのっとって悪事を裁くシンボルともいえる、手の中の物体が臆病な心を鋼に変えようとしていました。将来、夢見る検察官になれたとして、このような危急ある事態を避けているようでは、決して悪を裁く強靭な精神は備わらないでしょう。それどころか、自らに素質無しと挫折してしまいます。

「お、おい、やめろ」

 最後部座席は、すぐ前のシートに隠れて通路側からはどのような様相となっているのか、まるで視認できなかっただけに、想像を絶する光景でした。床に否応なく背を着けて両頬濡らし咽び泣く女性の口は、四つん這いに覆い被さる男の右手で、喋れないように押さえ付けられていました。

 ポニーテールはほどけて、乱れた髪が顔面へと無惨に落ちていました。純白のブラウスの襟から下のボタンは乱暴に引きちぎられ、乳房までもがあらわになっていました。ヌイグルミが転がっていました。プリーツスカートは、ショーツが露出するまでたくし上げられていました。それだけではなく、今にも下着が足下へとずらされようとしていました。

 左手のスマートフォンでその状況を録画していた様子の男は、振り向き様に睨みを利かせて「殺すぞ、黙ってろ」と唸りました。魂胆を察しました。恥辱となる彼女の姿を録画して、世間に晒す、と脅せばここで解放しようがのちに従わせることができでしょう。

「バス降りたら、俺のダチ呼ぶからよ。駅に到着したらお前を拉致ってボコって山に埋めるからな」

 尋常ではない目付きでした。

「誰か特定できないように、手足の指も切断して歯を全部抜いてやる」

 恐怖のあまり呼吸を忘れました。

「両目潰した状態で、顔面がグチャグチャになるまで殴ってやる。生きたままでな」

 後ずさりしました。想像してしまいました。バスを降りた瞬間に逃げようにも大勢の悪漢が押し寄せ、車に押し込められ、踏みつけられ、殴られ、歯を折られ、指を折られ、目も潰され、喉も壊され、助けも呼べずに生き埋めにされるでしょう。公共の場でこのような異常な行動に出る人間ならその脅迫に現実味も増します。

 男の右手が女の口から離れた。それから白い肌があらわになった下半身へと伸びようとして、寸前で女性自身の手につかまれ制止されます。だが、力では敵わず触れることを許してしまいます。

「や、やめろって、いうてるやろ」

 僕は、彼の左手からスマートフォンを奪い取りました。これで男の思惑は実行不可能となりました。

「てめえ、雑魚が」

 男は立ち上がり様、僕に拳を飛ばしました。鋭く重い拳は、本能的に掲げた六法全書の面に当たり、さらに勢い余って弾き落としてしまいました。床にゴツンと落ちたハードカバーを男のブーツが踏みつけました。

 それを目にした僕の脳髄から頂点まで瞬時に血流が漲り、勢い沸き上がりました。知性は蒸発しました。次なる拳を振りかぶろうとしていた男の右目に、僕が左手に握るスマートフォンの角が刺さっていました。人の眼球を潰す手応えは初の経験でした。先ほどまで恫喝していた男のものとは思えない甲高い悲鳴が弾け、バス車内にこっぴどく響き渡りました。バスは高速道路上の走行を止めようとしませんでした。

 襲われていた女性は窓際の壁に背を着けて、身を丸くし、両手で顔面を覆っていました。

「わかった。やめてくれ」

 眼鏡の位置を冷静に整えた僕は、手を伸ばして助けをこう男の右目にもう一度スマートフォンの角を振り下ろしました。今度は獣のような奇声が、断続的に繰り返されました。長時間の勉強で疲労していた僕の思考は、既に正常ではなかったのだと言い訳しておきます。この男を徹底的に潰さなければ、いずれどこかで復讐される可能性もありましたし。

「もうやめてあげて」

 遠くの席から、老婆が制止しようと声をふり絞っていました。加速する猛威の如くエンジン音が、僕の内で沸き起こる原始的本能を鼓舞していました。

 この日、僕は初めて『殺さなければ殺される』という、エンターテイメント作品でありふれた陳腐な言葉に酔いしれました。

「やめてください、頼むから」

血まみれとなった男が懇願するのです。

「助けて、助け、誰か」

 無視した僕はスマートフォンを放り捨てて、ポケットから手の平サイズとなる金属棒をここぞと抜き放ちました。三段伸縮警棒を振りかぶり、シートの背もたれに倒れて苦悶する男の口へと全体重を乗せて横薙ぎにしました。重量あるチタン合金鋼警棒で何度も打ち重ねられ、床にいくつもの歯がボロボロと落ちては跳ねていきました。面白かったです。

「死ね」

 笑えました。笑いませんでしたが。

 正木英雄の頭蓋骨骨折部分は、一箇所だけではなかったはずです。右耳鼓膜は破れてたでしょう。顔面のあらゆる箇所に裂傷がもたらされ、鮮血が吹き出、内部の肉が露出し、右目のみならず左目からも血を流す正木英雄が、最後に言いました。

「おかあさん、助けて」

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