一話
尋常ではない発汗量だった。
「静まれ静子、ほんま頼む」
聴覚を支配するほどに激化したおのれの拍動は、微震する肉声で言い聞かせたところで、そうやすやすとは静まらない。記念すべきこの日のために整えたウブ眉毛が、流れ落ちた脂汗を食い止める。
「わたしは間違ってへん」
笑ってみる。
「あはははは!」
なにがおもろいねん。
目の前で、人の顔面を徹底的に破壊せしめた、そんな冷酷無比な人間にこれから会いにいくのだから、我知らず意味不明な独白がもれても仕方がない。というか、回想するときだけ、どうして標準語になるのだろう。
三月十七日、初春の空は追い詰められた心境とは裏腹に朗々としていて、長閑の一言に尽きる優しい青だった。まして、幅広い河川の堤防道を走行しているのだ。運転席フロントガラスから見上げれば、遮る障害物も無いので、視界のほとんどを占めることになる。吹く風は緩やかで、なだらかな角度の土手下へと広がる緑の斜面は、太陽からの恩恵によって生き生きとそよいでいた。
「お母さん、わたしついにあの人に会いに来ました。褒めてください」
固くハンドルを握り締めるわたしの手には、このとき、余裕のひと欠片すら残っていなかった。視野は狭くなり、窓外の風を切る音は小さくなる。ひひひひ、と漏れ出る唇は痺れていた。
『昼のニュースです』
つい先程まで、天候に似合うバラードがスピーカーから流れていたはずなのに、女性アナウンサーの一声で、狭い車内の空気が一変した。
『十四日未明、東京都世田谷区下北沢の民家で発見された遺体は、郡沢進一さん四十四歳、無職、と警察の調べにより判明しました。鈍器で繰り返し頭部を殴られたことにより遺体の損傷が激しく、本人の特定が遅れていました。警察は、依然犯人の行方を追っています』
ラジオをオフにする。操作した指先まで震えていた。
「誰に?」他者を貶めることばかりに知恵がまわるあの狡猾で悪逆非道たる郡沢進一がまさか。犯人は──誰?
「もっとヤバいやつやろそれ。どないするどないする。せや、わたしにはあれがあるやんけ。バタバタ、バタタタ」
車からは、およそ百メートル先にある堤防下の建物が小さく見えていた。ぐんぐん近づく。事前に報せ通り、オレンジ色の目立つ屋根だ。七十坪規模の砂利敷地に、わずか二十坪ほどの倉庫風平家がポツンと建っていた。まだ、気持ちの準備はできていない。
速度を落として一車線の堤防道路から斜めにくだるスロープへと逸れていかなければならないのに、ブレーキペダルを踏み締めようにも上手くいかず、しかし身体は嘲笑うように無視して、アクセルペダルを強く踏みつけてしまっていた。
グオン、と一気に加速する軽自動車のエンジン。両手に握るハンドルが、制御しようと焦る意識とは別に傾く。「あかんんんっ」白い車体は、猛速度で堤防下の中段層へと道を斜めに駆け下りる。身体が小さく跳ねる。それでも必死にハンドルを切り返す。そこでやっとブレーキペダルを踏むが時すでに遅し。
シートベルトに縛られた、わたしの身体は浮遊感に包まれる。時速、八十キロに達していた軽自動車は堤防中段層となる道路から逸れて、更に下へと踏み切り、宙へと跳躍していた。
後部座席ではこの日のために取り揃えた生活雑貨品や、その他がガチャンガチャンと派手な音を立てて跳ねた。切迫しているのに、こんな時でも上唇の端を舌先が這う。
「舌、かんでまうやろ。阿呆かお前えええ!」
脳からのドーパミン大量分泌のせいか、はたまたは現実逃避からなる乖離現象か、わたしは七年前となる彼との邂逅と事件の供述を断片的に思い出していた。それは平穏なる日常の破綻から始まる、底無しの悪夢だった。