幼馴染二人
もとは、俺の部屋。
そして現在は詩島邸において、泊まり込むことになった際に俺とルカ、俊の三人で寝る場所になったその部屋にて、俺はベビーベッドの中で穏やかに眠る息子に指を握らせていた。
「んブゥ。」
瞼の裏には、何を映しているのだろうか。
どんな風に自分の顔を見ているのだろうか。
背中に暖かさを感じながら、俺は我が子の眠り顔を愛おしそうに眺めていた。
「元ぇ。」
「ん〜? 」
「ごめんねぇ。」
眠りを邪魔しないように、薄く小さく、ルカが俺にそう言葉を差し出した。
勉強が忙しかった、夜泣きが多かった、保育園の人たちが最近当たりが強い。
ストレスを溜める原因など、いくらでも指を折れるのだろう。
にも関わらずそれを爆発させてしまったことを自分の責として謝るルカに、俺は申し訳なさと共に、誇らしさを感じた。
我が子に掴ませていた指を、ほんの少しだけ揺らす。
聞いているか、息子よ。 お母さんは、こんなに素晴らしい女性だぞ、と。
そんな惚けに嫌気がさしたのか、握りしめられていた指先が放されてしまった。
閉じられた目はまだ夢の中だけを見ていることを確認すると、ベビーベッド横に敷かれた布団に座り込んだ。
背中に抱きつくルカを片手でずらし、自らの胸元に抱く。
見下ろせば、薄い照明にも関わらず艶やかに光を跳ね返す黒の糸。
撫でる手のひらにはふわふわとしたパジャマの手触りと、指の背に触れる水かと思うほどの滑らかな髪の流れ。
いつものシャンプーとコンディショナーの匂い。
寝る前の化粧水と、クリームの香り。
それらに隠れるようにほのかに漂う、ルカ本人の香り。
そして、大学、高校、中学、いや、小学生になる前から感じていた、命を主張する拍動。
五感を刺激する全てに対し、変わらぬ愛しさが、積み上がる愛しさがある。
「ありがとう、流歌。」
俺を許してくれて、ありがとう。
「ごめん、流歌。」
もう少し、うまく吐き出させられたかもしれないと謝る。
「大好きだ、流歌。」
毎日形を変えて、そう思い続けている。
「っ!」
身を竦ませるルカを抱きしめる腕に滲む体温がほんのりと温度を上げたような気がする。
喉を鳴らし、低く唸る声が可愛くて、改めて体を
「反則っ。」
ぐり、と頭を喉元に柔らかく押し付けられる。
一本一本の髪の感触が、背筋にえも言われぬ快感を流す。
そのまま体を倒し、布団に身を横たえる。
「お疲れ様、流歌。」
引け目を感じることなんかないと、名前を呼ぶ。
その声が相手に届くことが、受け取ってくれる相手が反応してくれることが、本当に嬉しくて仕方がない。
目尻が緩む。肩が垂れる。
胸に湧く暖かさに反比例するように、体からは力が抜けていく。
流歌をおおう腕が粘体にでもなったように感じてしまう。
腕の重さがそのまま乗ったことで重みを感じるようになったのか、流歌が腕の下でモゾモゾと動き、ちょうどしっくりくる位置を探す。
しばらくああでもないこうでもないと小さく身動ぎを続けていたが、なんとか及第点の場所が見つかったのかその動きを止めた。
んふぅ、と、胸板に鼻息が当たる。
そのまま数度の呼吸、その後に伏せられていた顔が上げられた。
重力で片側に寄せられた髪、場の空気だけで酔っていたのが冷めて、だんだん恥ずかしさが勝ってきたのだろう赤い頬。
潤む目が、遠い日の夏空のように思えた。
「元も、お疲れ様。」
真正面、至近距離からの言葉に、俺の額を流歌の額にくっつけることで応える。
何に対してとか、何度目だとか、多分そういうことじゃない。
あなたを見ているよ、と、そう伝えるための仕草でしかないのかもしれない。
感情をストレートに、それでいて分かり易く相手に伝えること。
男として、女の前で格好をつけて見せること。
喧嘩してるようでいて戯れあっていて、好き勝手やっているようでいて相手のことを見続けている。大切な友人から学んだ、俺なりの格好の付け方だ。
寄りかかること、支えることも隣にいてくれた二人のおかげで、随分と学べたと思う。
学ぶべき相手がいて、失敗例も成功例もお互いに共有して。
二人がお互いの親に挨拶をしたと知った時など、徹さんを巻き込んで酒盛りをしたものだ。
あの二人からしてみればとるに足りない日常の欠片を浴びて、流歌との日々がキラキラと輝いた。
そこから続く道の中に恭香さんがいて、改めて流歌を好きになって。
チラリと、背中越しに後ろに視線をやる。
いつも通りならあと三十分後にむずがる我が家の新入りがいる。
背中と、胸と。
不思議な暖かさに挟まれている自分がどれだけ幸福なのかを、こういうなんでもない時に思い知らされる。
感謝をかけらでも伝えられたらと、腕に力を込めて流歌を抱える。
二度深く呼吸をされた後、流歌が胸に手を置いた。
少しばかり惜しく感じるが、胸と流歌の間を開ける。
抱きしめたおかげで上がった体温で、こちらを見上げる頬がほんのりと染まっていた。
「ねぇ、元。」
「ん?」
「私、すっごい幸せ。」
何回見たか、もうカウントする気すら起きないほどに見てきた流歌の笑顔。
子供の頃から変わらず、人を幸せにする笑顔だ。
流歌自身が幸せを感じる心を素直に育ててきたからだろう。
いつものように、頬が緩む。
いつものように、髪を撫でた。
笑顔一回分、流歌をまた好きになる。
「ルカのおかげかな。」
「え?」
顔を見られたくなくて、流歌の頭を抱きしめる。
顎に額がついた気がする。
「俺も。」
これからも、そうなるように積み重ねていく。
そんな決意表明をするつもりで、宣言する。
「ずっと幸せだって、言い続けるよ。」
少しだけ首を回し視線を向ける。
寝息を聴かせてくれる我が子にも誓うように。
子供が産まれて、愛する人が増えて、気づけば注ぐことができる愛が倍になっていた。
自分がここまで人を受け入れられるなどと予想できなかった。
それは、間違いなく育ててきてくれた環境のおかげだ。
人が、場所が、運が良かった。
悪意と害意を感じたことがないわけではない。
それでも、だからこそ、自分に注がれる優しい願いと思いが自分を育ててくれた。
だから、強がってでも、歯を食いしばってでも、笑ってやると改めて思った。
ルカを幸せにするために、俺は幸せだと、示してやる。
俊が大きくなって、もしかしたらその妹や弟も大人になって。
俺が受けた沢山のものを子供に、友達に、そしてルカに返し切るまで。
少しだけ、格好付け続けてやろう。
脳を緩める酒精のおかげか、再度覚悟が決められた。
そんなタイミンングで、とん、と胸に手が置かれた。
「元、また勝手に何か決めてない?」
的を射た言葉に、びく、と背筋が震えた。
それで確信したのか、流歌の手が顔に伸び、頬を摘まれた。
「私がおばあちゃんにお説教されたの、忘れた?」
「おおえれあふ(覚えてます)。」
二人とも、我慢の閾値はちゃんと高い。
だけど、それでも一人で頑張り続けるとどこかで歪みが出る。
そう、ルカに言いながら俺にも言ってくれたことを思い出す。
『また、溜め込みすぎないように甘えちゃいな。
そして、その分ちゃんと支えてあげられるようになりなさい。』
井草の香り、抹茶の香。
光が差し込む障子と、天井の空調の音。
覚えていなかったはずの日常のひと時が、こういった時に目の前で流れてくる。
『助けて、助けられて。
打算が入ったって、そうやってお互いに支え合うことができれば、楽しくやっていけるさ。』
目尻のシワを深くしながら、ルカにそう語りかける清ばあちゃん。
小さな頃から変わらない、俺の方がもう背も高いのにまだ大きく感じるその姿勢と声が、俺とルカの中にしんと染み渡っていく。
『そうだね、うん、ありがとう、おばあちゃん。』
言葉を返すルカに微笑むと、じっと俺の目を覗き込まれた。
背筋を正し、頷くと彼方もこくりと頷いた。
いつもの、よくあるお小言だった。
「さ、元。
明日からもお仕事、よろしくね!
お父さん!」
「あぁ、そうだな。」
タイミングよく、なのか、悪くなのか。
むずがる声が聞こえた。
その声に目を合わせ、笑い合うと音を立てないようにベビーベッドの横に二人で陣取る。
声を漏らす俊を、二人で覗き込む。
寝言か、起きてるのか、じっと見つめていることに幸せを感じる。
常夜灯に照らされる俊の寝顔と、隣に感じるルカの体温。
あぁ、やっぱり幸せだ。
積み上げてきたものが、これからの苦労が、あの暖かな一席に繋がるのなら。
またあの夕暮れの下、みんなで集まって。
よいのくちより ともがたり
完