失恋者代表
紙のシートを読み込むピアノが二人しか人のいない部屋に淑やかな音を奏でる。
マスターであり、バーテンダーでもある最上さんの伊達と酔狂だけで作られたこの地下の酒場で、私は電球のフィラメントから放たれる光を受けながらアルコールを嗜んでいた。
「チェイサーを。」
微かに乳白色の雫が付いたポンタルリエグラスをカウンター向こうに寄せそう言うと、入れ違いに錫のコップに入った常温の水が出てくる。
側面に彫られた精緻な紋様を指先で楽しみながら口をつけ、柔らかな口当たりの水を一口含むと舌の上に残っていたニガヨモギの風味が胃の腑へと流れてゆく。
「今日の元さんとルカさんは、どうでした?」
私の前に立ち、グラスとスプーンを片しながら灰の髪をオールバックに撫でつけたバーテンダーがそう声をかけてきた。
常ならあまりしてこないあちらからの問いかけに、私はんふ、と堪えきれない笑みを溢した。
「今日もどうでもいいことで甘えてきてね。
ノンアルコールで酔えるのは、やっぱり女優だね。
それで、この前より仲良くなってるように見えたよ。」
不思議だね、と言いながら伊万里の小皿に乗せられたピーナッツを摘む。
心地よい歯ごたえに、バターの香りとほのかな塩味。
私の返しに、バーテンダーの目尻の皺が深くなる。
きっと、彼の頭の中には昔連れてきた時のルカと元君が浮かんでいるんだろう。
まだ子供もいなかったあの時しか知らない目の前の彼に、今の二人を見せてみたい気もした。
「そろそろ、ギムレットでもどうですか。」
「ん、あぁ、もうそんな時間か。」
カウンターの上に伏せていたスマホを裏返せば、随分とのんびりと時間を過ごしていたようだ。
思ってもいなかった数字に流石に席を立つか、と配車アプリを起動し、迎えを呼ぶ。
後部との仕切り有りで、会話は無し。 いくつかのオプションを付けて依頼をすれば、承諾の返信が返ってきた。
到着予定時刻は、およそカクテル一杯分だろうか。
「そうだね、最後は……」
薦められたものでも、と思ったところで通知欄に上がってきたルカの名前に目が行った。
タップをすれば、元君が俊君を抱き抱えている姿。
目を瞑り、シャツを握る姿はおねむなのかな。
きっとルカが撮ったそれに、胸いっぱいに暖かなものが溢れてきてしまった。
浮かれるような熱というよりは、微睡むような暖かさに二秒だけ目を閉じる。
「キャロルを。
レモンを浮かべてね。」
「はい、喜んで。」
ガラス瓶を抱え出す時の鈴のような音を楽しみながら、舌の根が思い出す味と共に、私はすでに次へと思いを馳せていた。
コルクを抜く音、カウンターに染み込んだ薫香を孕んで薫ってくるほのかなスパイスの香り。
あまりにも短い間に、あまりにも沢山のことを押し付けられたここ数年。
それらを瞼の裏に流しながら、澱みないステアを眺めた。
また、みんなでお酒でも飲みながら、或いはみんなで楽しさに酔いながら。
お互いのことを話し合えるあの席を願い、私は規則的な氷の踊る音に目を閉じた。