19 幕引き
私が以前来た時に喜んでいたことを覚えていてくれたのか、飴細工を纏わせたイチゴを乗せて出されたロマノフ。
それをコースの締めたるデザートとして舌鼓を打ち、二人でホテルの階を降りる。
登った時に感じたようなドキドキも、高揚感も既に無い。
ただ、気づくまでもなかった罪悪感と焦りのような気持ちも失せていた。
そういった躁の気が治まるのに反するように、お祭りの後、興行を終えた後のような満足感と安心感という穏やかな感情が私の胸を満たしていた。
降りる時は登る時とは違い、一本のエレベーターでグランドフロアまで直通する。
二人でエレベーターを降り、マットに足を踏み出す。
次の一歩を踏み出そうとした時、ぐ、と体が引かれる。
私が抱えていた山上君の左腕に引かれた形で彼を見ることになる。
足を止めた彼、半歩だけ先に歩き、その半歩分マットの柄の外に出た私。
彼の目を見る。
優しく覗き込むその目に、思わず惚れ直してしまいそうになりながら、苦笑して自然と抱き込んでいた腕を離した。
絡ませていた腕を解き、半歩分、足を進める。
色の境を踏み越え、彼を見る。
手を伸ばせば届くような距離、空気しか存在しないその空間が、柔らかに私と彼の間を分けるように感じた。
私が足を動かすと、続くように彼の足音も続いてくる。
隣に体温が感じられない。
ただ、前に戻っただけの現状がなんとも胸を刺してきた。
痛みとも言えない違和感をプライドで抑え、一人と一人で歩を進めた。
「今日は、ご馳走様でした。」
「なになに、ただの気まぐれだよ。
それで、一番美味しかったのは?」
「メインの羊は、やっぱり良かったですね。
丁寧に作られてるのが噛む毎に感じられてあぁ来て良かったなって思いました。」
「うん、私もそう思った。
ソースにも混ざってた血のクセが特長になってたよね。」
「後は、やっぱり最後のティラミス、ロマノフでしたっけ?
あれすごいですね。」
「そうだね
あ、そうだ、あのマスカルポーネ、九州の水牛使ってるんだって。」
「え、マジですか?」
「うん、前にシェフの人に聞いたんだ。」
煌びやかなドレスと、着こなされたスーツスタイル。
手前味噌ながら、大学生レベルとしては洗練されたと思える私たちがまるで何の気兼ねもなく、軽々と話す姿は、他の人にはどう見えたのだろう。
ただ、私にしては珍しく周りの人を気にせずに話に没頭していたと思う。
軽く話し、反射で反応し、難しいことを考えずに笑う。
そして、ホテルの入り口の大きな自動ドアを抜ける。
敷地の境まで続く配車用の通路と庭園が目の前に広がり、あぁ、ここから、今から私は帰るのか、とそう感じさせてきた。
思い切り遊んだ帰り道。
思う存分に練習をし、疲れ切った帰り道。
今までの人生で何度も歩いた、帰るのをもったいなく感じる帰り道。
今日の道が、それらの中の一つに加わることを嬉しいような、悔しいような、複雑な気分だ。
「ねえ、元君?」
「はい。」
息を吸う。
アスファルトの匂い、フロアの匂い、庭園の草と、土の匂い。
そしてほんの微かな、紅茶と香木の香り。
「楽しかった。」
体を彼に向ける。
私の足音から、その動作を感じたのか、彼も私に体を向ける。
「ありがとう。」
悔しさを隠し、虚勢で固めて。
精一杯の楽しさで、最高の笑顔をして、彼にそう言って見せた。
「どういたしまして。」
優しい声と、ほんの少しの柔らかな表情。
あぁ、悔しいな。
寂しいな。
だから、強がらなくては。
「それじゃあ。」
「えぇ、それじゃあ、行きましょうか。」
「へ?」
ポケットから出したスマホを操作し、元君の言った言葉に素の感嘆符を返してしまう。
「美味しい食事とお酒を飲んだら、ナッツとチーズで締めたいんでしょう?」
「え? あ、あぁ、いつもなら、だけど、えっと。」
そんなこと、話した覚えはないのだけれど。
そう問い返そうとしたところで、彼が通話ボタンを押す。
最近ではメッセージアプリばかりで聞くことも少なくなった通信音が何度か繰り返され、相手側の受信を知らせる電子音がこちらにも聞こえてきた。
『あ、はい、えっと、詞島です。』
「うん、とりあえず、食事終わりました。」
『あ、そ、そう?
えっと、楽しかった?』
「あぁ、今から行く二次会でその辺り話すからさ、この前行った所で飲もうか。」
『え?』
「あぁ、出てこないなら二人で二次会行くけど、どうする?」
『い、行く!』
ぶつんと通話が切れる音。
その音に続くように、おずおずと、ホテル入り口近くに停められた車の陰から、通話者、ルカがその姿を現す。
大学にいる時より、ほんの少しだけ上品でお洒落な服装。
送り出したのに追いかけてきた引け目もあるのか、下がり気味の目尻も可愛らしく、いたずらをして見たくなるほどに可憐だ。
夜の闇の中、淡く月明かりを返す水晶のような透明感は、闇に溶けるような射干玉の髪は、都会の闇よりも色鮮やかな黒で暗さの中、一層煌びやかに見えた。
賞賛のみがこの美しさにはあるべきで、私の心もいつもであれば嬉しさに沸くところだ。
ただ、今日だけは、今だけは、百に分けた心の色味のうち、一つ、いや、半個だけ、嫉妬の色が滲んでいた。
「ルカ。」
「ん。」
「出迎えご苦労。」
「んー!!!」
ルカの視線を独り占めする元君に向けるはずだった妬みの気持ちを、実に自然にルカにもむけている事に我が事ながら呆れてしまう。
一目惚れに端を発したこの気持ちの動きに、恋という劇薬が有史以来どれだけの悲劇と喜劇を産んだだろうとわかった風な独白で格好をつけた。
私は賢者を気取るつもりだった。沢山の他人<ほかひと>の経験を自らの人生への学びへと変換できているつもりだったが、実に残念な事ながら、私も只人でしかなかったようだ。
自らへのタグ付けを済ませ、諦めと妥協とを用いて精神の波を整える。
ついでに、私などいないかのようにイチャイチャイチャイチャと触れ合う二人への怒りも有効に使わせてもらう。
「それじゃあ、私はもう帰らせてもらおうかな。」
「いや、何言ってるんですか。付き合ってもらいますよ。」
「酷いこと言うね、元君も。」
二重に失恋をした人間に向けて、傷口に塩と辛子を塗り込むつもりだろうか。
「今だけは、この三人で飲む気にはならないよ。」
「あぁ、なら大丈夫ですよ。」
そう言って、元君がスマホを再度操作する。
と、同時にルカが隠れていた車両の後ろから電子音が聞こえてきた。
私はよく知らないが、確か動画投稿界隈で最近流行っているらしいその音は、人混みの中なら埋もれるかもしれないが、今現在、静かな夜の庭園ではよく響いた。
最初の二秒分ほどが鳴り、唐突にその音が止まる。
着信音。
張り込みなら最低でもマナー、できればサイレントにしておいた方がいいだろうに。
「ほら、やっぱり居た。」
「いや、誰だよ。」
「ルカをこんなふうに使う女なんて、俺は一人しか思いつかないんですけどね。
なぁ、ルカ?」
「あ、あはは。
……バレてた?」
「後ろを気にしすぎ。」
山上君からのコールということは、誰かがいること、そしてその誰かにも見当がついていたということだろうか。
「これで他人二人含めて五人ですね。」
「人数増えたからって薄まるものじゃないんだけど。」
「まぁまぁまぁ。
いいからいいから。
シュウも大木さんも、いい感じに宴席を明るくしてくれますから。」
俺の我儘のターンだし。
そう言って、山上君が未だ隠れ続けるその人達、シュウ君に桃ちゃんのいるだろう車の裏に足を進める。
礼儀も、威圧感もないクソガキのような彼の楽しそうな背中にため息を吐きそうになりながら、はぁ、と息を漏らす。
ただ、不思議と口角は上がっていた。
「あの、恭香さん。」
「ん?」
ルカが立っている。
闇を薄く重ね着た姿は本の中から妖精を取り出したかのような非現実的な愛らしさを感じさせてきて、星砂をサラサラと落としたような微かな光が身に纏う服と髪の周りを漂っているようにも見える。
いつもの楽、喜を丁寧に混ぜたような表情とは違い、ほんの少し、薄昏い色が滲んでいる。
ただ、その暗さが私の心にずいと踏み込んでくる。
表情の小さな変化が、自分の知らなかった側面が、無理だとわかっている理性の盾をすり抜け、本能に訴えかけてくる。
ともすればその姿に蕩けてしまいそうな自分を必死に抑えながら、にこりと笑顔を作り、何かな、とルカの言葉の次を促す。
「私、すごく焦りました。」
私を見る二つの目。
綺麗な白、大きくて鮮やかな赤。
まっすぐとこちらを見る視線には、隔意や圧なんか少しもない。
「元って、全然モテなくて。すごくかっこいいのに、誰も見てくれなくて。
だから不満だったんですけど、恭香さんが元を呼んだって聞いて、初めてで、こわくって。」
私というものがいるのに、そう思って元君への愛が少しは陰ってくれれば良いのに。
声から感じるルカらしさに、そんなあり得ないことを考えながら苦笑する。
元君が自分を愛していることを、信じている。
そして、その上で自分が不安がっていることが悔しいのだろう。
本当に、自分にだけは採点が辛すぎる子だ。
「もし、いなくなったらって思ったら、こわくなりました。
私は元が大好きなのに、いつも元を信じてるのに。
ここで送り出したせいで私より好きな人を見つけたらって思って、こわくなりました。」
胸にそっと手を置く仕草は、痛みを抑えるものか、不安を留めるものか。
どちらにも取れるその小さな動きに、私は魅入っていた。
「だから、頑張ります。
いつか元に言ったように、もっと元を好きになれる様に。元にもっと好きになってもらえるように。」
柳眉に憂いの綿毛を載せながら、そう私に向かって宣言をする。
あぁ、全く、恋する乙女の美しさを最も近くで浴びるのが、横恋慕を狙った間女だなんて。
眩しさに目を逸らし、今にも眼球に爪を突き立てそうになる衝動を堪えながら、痛々しく笑い声だけを口から漏らした。
「次は、もうこんな不安なんか持ちませんから。」
満足そうな微笑みを湛えた顔で、好戦的にルカが嗤う。
そうか、最初から、私の入る隙間なんかなくて。
ただただ純粋に、愛してもらうために努力を続ける彼女が魅力的だった。
その向き先を変えることもできず、彼女のことを知ろうとしてさらに彼女に惹かれ、彼女を知った結果彼女の愛した人に惹かれてしまった。
言い方は悪いが、私は綺麗にダシに使われてしまった訳か。
私を見上げるルカの目には、害意も隔意もない。
次こそは、という意欲が燃えていた。
もう二度と、と不敵さが煌々と点っている。
およそ邪魔者に向けるものとは思えないそんな目に、くつくつと喉が鳴ってしまった。
「? あの、恭香さん?」
首を傾げる可愛さ余って愛しさ五万倍の天使に、肩の力が抜ける。
両手をあげて、手のひらをルカに向ける。
ここまでやって、ここまで考えて。
それでも、私は彼と彼女を嫌いにはなれなくて。
「お手上げ。」
それはあまりに軽く、そして全面的な敗北宣言だった。
「え?」
「良い失恋ができたってことさ。
実るだけが恋じゃなし。
私も知らない私を、この歳で知れたんだ。」
鼻から、空気を吸う。
木の香り、土の香り、そして微かに混ざる爽やかで、頬を緩ませる甘やかな匂い。
今私の立つ場所の空気を存分に吸い、空を見る。
街灯、ホテルの光、広い敷地を超えた先の街の明かり。
星を隠すそれらを破って、満天の星が私の目に入った気がした。
ゆっくりと顔を戻す。
目の前には、愛すべき後輩が心配そうに私を見ていた。
「さ、それじゃあ行こうかルカ。
私の失恋記念だ。
いいワインがある、君も責任の一端を担ってたんだ。今日は隣から離れないでくれ。」
そう言って、私はルカの手を取り、自分の腕に絡ませた。
つい二時間前には太く、無骨な腕に絡ませた腕を、今度は支えるために愛した女性に差し出す。
内腕に感じる暖かさと柔らかさは体重をかけてもびくともしなかっただろうあの腕とは違い、何がなんでも守らなくてはと思わせる無垢さを感じさせた。
向かう先には、友人と歩む私が好きになった男の人。
隣にいるのは、大好きな女性。
誰一人私のものではない、ただ、それでもこの二人は私を友とみなしてくれるのだろうか。
ならば、この役だけは。
これくらいならば、演じて見せられるはずだ。
いずれ、一人しかいない部屋で。
誰にも見られないままに大きく泣き叫んで心に整理をつけて見せる。
そのために、今笑ってやる。
そう決めて、一歩足を踏み出す。
私の腕を抱くルカの顔は、屈託のない笑顔で、司会に入るだけで緩み切りそうになる頬を微笑で応えることで抑えた。