16 かおよせ
嫌いを克服し、まともに正対する。
小学生の頃、四年生から五年生に上がった時だったか。
確か生姜に対してそんなふうに意識が変わったことを覚えている。
原因は何だったろう、確か、そう、風邪を引いた冬の日。
スパイス山盛りのチャイを飲んで、あまりの美味しさに二杯目をお願いしたけどもらえなくて。
風邪が治った後、その飲み物に大嫌いな生姜が入っていたことを教えられたのだったか。
以来、別に大好きになったとか、週一回食べるようになったとかいうわけではないが、嫌いではなくなった。
ふと、そんなことを思い出しながら、私は目の前のランチボックスに蓋をしていた。
朝に起床、ジムへと向かって運動を行うはずのそのいつも時間を、気づけばお弁当作りに費やしていて、ふと我に帰った時には三人分のお弁当が私の目の前に鎮座していた。
京野菜を使った漬物に、煮込んでほろほろになった牛すじ。
胡麻を散らし、常温でも柔らかいように炊かれた白米に彩りを重視しながらも味にも手を抜いていない副菜たち。
母に教えられた料理の腕を存分に発揮したお弁当がそこにあった。
さて、ここで問題なのは、これをなぜ作ってしまったのかだ。
一つは私で問題ない。
大学に行く際に、気まぐれにお弁当として持っていく手のひらサイズの容器は目に慣れた物だ。
もう一つは、四条塗りと言う技法で塗られているのだと、これを作っていたおじさんの自慢していた、漆塗りの小さなボックス。
水分を通さず、軽く、禿げない。実用性を目指した内塗りと。
厚塗りの層によりまるで最初からそうだったかのように美しい時鳥の浮かぶ外塗りと。
ルカに似合うと、一緒に物産展で見つけたランチボックス。
それの中にも、色鮮やかな今の季節を埋め込んだようなお弁当が彩られている。
そう、ここまではいい。
しかし、もう一つ。
食料保存用にも使っている密封式のボックス、それにクッキングシートを敷いて簡易的なお弁当箱として見た目も良くなったそれは、明らかに普通の女性用として作られた用には思えない量の食材たちだった。
(うぅん、ん……?)
首を傾げ、自分の行動を省みる。
何故?
どうして?
誰に向けて?
ついつい作りすぎた、というわけではない。
それならこんなふうに一つの器に全てをバランスよく配置するなんてことはしない。
後々使いやすいよう、小分け用の器に分けているだろう。
今までだって、料理をした時にはそうしたはずだ。
だが、目の前には大容量のお弁当が鎮座している。
どうしたものか、改めてそう思う。
答えが出そうになる度に頭を振り、思考を散らす。
認めたくない答えを、すでに導き出しているのにそうだと頷くことを嫌々と後回しにする。
「もしもし、ルカ?」
『おはようございます、恭香さん。』
「あぁ、おはよう。君の声が聞けただけで、私の今日は素晴らしい日になる気がするよ。」
『あは、ありがとうございます。
それで、何かありました?』
「あぁ、今日のお昼なんだが、何か予定入れてるかい?
ここ数日、あまり一緒に食事をしていなかったから、とても寂しいんだ。
ぜひ、一緒にランチをしたくてね。」
受話器越しに、クスリと息の漏れる音がした。
あぁ、やはり良い。
声なき音が、私にいろんな感情を伝えてくる。
困ったような、嬉しいような。
かけらも拒絶の色を滲ませないその声が、私を包み込んできて目の前にいないはずのルカに、とろとろと目尻を下げてしまう。
『え、良いんですか?
もちろんご一緒させてもらいます。
どこにしましょうか。』
「それなんだけどね、二番食堂を使いたいんだ。
つい興が乗っちゃってね。
できれば私の手料理を楽しんで欲しいんだけど……」
答えを求め、一時途中で止まった私の声にわぁ、と、花が綻ぶような声が私の耳を、内耳道を通り、脊髄にゾクゾクとした快楽を産んだ。
電子音の作った代用音声だということは知っているのだが、それでもルカに繋がるということを知っているからか、耳に届く声が愛おしくてしかたない。
『もちろんです、以前貰った卵焼き、すごく美味しくてびっくりしたんですよ。』
「あぁ、あれかい。
あおさ入りの物であまり平均的とは言えないと思うんだけど、そうか。
嬉しいな。」
家で出ていた、懐かしい味を美味しかったと言ってくれる。
それだけで心に暖かなものが生まれ、片手で持っているスマホにそっと左手が添えられてしまう。
『それじゃあ、お昼、楽しみにしてますね。』
「あぁ、それじゃあ。
あっ!」
通話を切ろうとした瞬間、何かを忘れているような、目を逸らしているような気がして。
つい、いつもはしないような声を出してしまった。
『?、はい、何かありました?』
「あぁ、うん、」
疑問符を浮かべる声に可愛らしさを覚えながら、何を言おうとしていたのか、何を頼もうとしていたのかもわからないまま呻くような声で間を繋ぐ。
これが舞台なら、いや、ルカ以外なら恥ずかしさでそのまま首に爪で切れ目を入れていたかもしれない。
結局、何をいうべきかもわからず、私はこの話を打ち切ることにした。
「ごめん、何かあったと思ったんだけどね。」
『んー、はい?』
「多分、ルカとの話を終わらせるのが嫌だったんだね。」
苦し紛れの言葉に、ルカはンフー、と満足そうな呼吸を返し、
『じゃあ、お昼はいっぱい話しましょうね』
そう返してきた。
「あぁ、それじゃあ。」
またね、と声をかけるつもりが、私の口は別の言葉を選んできた。
「山上君にも、よろしくね。」
一日を終え、家に戻り、顔を洗う。
夜に入りかけた夕方の時間。
家路を歩く子供や会社員のお父さんたちの間を通り、私も珍しく早く家に帰ってきた。
ドアを開けると同時に自動で点いたエアコンにより、室内の温度が快適と言えるそれに下がり始める。
じんわりと浮かんでいた背の汗が引いていく感覚を味わいながら、洗顔後のケアをして、リビングに向かう。
ソファに座り、一日を思い出す。
華やかな一日だった。
そう思った。
昼にルカと待ち合わせた場で始めた食事。
そこに彼女の大学での同期生が合流し、ルカと二人だけの予定だった昼食会は途端に華やかなものへと変わった。
ルカに、友人。
ともすれば無遠慮な男の横槍も入りかねないほどに魅力的な場だったが、流石に私を前に声をかける自信のある男もいなかったようで。
結局、気づけばただのランチの時間がゼミも部も超えた人間の集まるお茶会へと姿を変えていた。
午後の外せない講義が始まるまで続いたそれは、言ってみれば価値の低い、ただの雑談時間とも言えた。
だが、その時間こそが私の目には極彩色の絵画のようにも映った。
新しい興味が、学び直すことによる発見が、塗り重ねた努力の結果が。
当たり前に生き、その中で起こったことの話が色鮮やかに開陳されていく。
旅行、ブランド、金銭。
驚くほどあっさりとそれらから離れ、実に日常的な話がお互いに開かれ、それらを楽しそうに話し合う。
好きなことを、楽しいことを聞いてほしい。
そんなことを感じる空気の向く先はルカだった。
ニコニコと、それでいて目を輝かせて話を聞いてくれるその姿はまるで幼稚園に飾られた美術品のように、美麗でいながらも何をも拒まない陽だまりのような暖かさを感じさせてくれた。
人に対する興味。
面白さに対する貪欲さ。
どこか人を、物を下に見てしまった瞬間に薄れるだろうそれを、稀有なことにルカは成人を前に、未だ持ち続けている。
だから、ルカには話をしたくなるのだろう。
行きつけの店がのれんを下ろしたこと、学内で新たに話題に上がり始めた集団のこと。
私の知らない、私の触らない範囲の話も驚くほど簡単に手に入った。
「教えてください。」
ポツリと、口から漏れた。
何度も聞いたルカの言葉だ。
知りたいと思った時、わからないものが出た時。
ルカは、目を輝かせながらそうこちらに詰め寄ってくる。
あまりにも無邪気で、こちらに対する好意を隠そうともしないその姿と声は、部屋の中一人でぼうっとしていても脳裏に鮮明に浮かぶ。
いつものその言葉が、不思議と自分にかちりとあった気がした。
そのままじっと、目を閉じて自分の中を平坦に均す。
焦り、困惑、苛立ち、色々な感情の棘をゆっくりと圧し固めた。
時間を置き、ゆっくり目を開ければ清浄な部屋が目に入る。
少し重い体を動かして、冷蔵庫に向かった。
冷蔵庫を開け、目に入ったものを出す。
お弁当の、残りというには多すぎるそれを保存容器のままにテーブルに置く。
思い出すのは、私の作ったそれを羨ましそうに見つめる女の子たちと、実際に食べた時の笑顔。
作ってよかった。
そう思うと同時に、少しの悔しさが浮かぶ。
あまりにも微かなそれに、私自身気づかずに炭酸水と並べ、夕餉とした。
漬け込んだ酢の物の味と、野菜の爽やかな青さがとても舌に心地いい。
ただ、味が昼よりも鮮明だ。
(あれ? 味、濃くしてるな。)
そう思い至った瞬間、目に映る景色が変わった気がした。
涼しく整えられた部屋の中から、薄暗く、蒸し暑い神社へ。
自然に動いた首、横に向けられた視界の中に、彼がいた。
目に映る景色が変わったのは一瞬。
すでに、私は私の部屋の中に戻っていた。
飲み込んだ京野菜はその涼やかな味だけを残し、口の中には残っていなかった。
ふう、と息を吐き、椅子の背に私のそれを預ける。
ちょっと行儀が悪いが蓋の上に箸を置き、両目を閉じて上を向く。
困ったものだ。
ルカから離れ、その光を受けなくなった後。
一人になってぼうっとした時に、あの顔が私を覗き込んでくる。
私の恋する女性を独占する憎い男。
そのはずなのに、今座っているソファーの隣が空なのがとても寂しい。
勝つために、蹴落とすために彼を知り、彼のことを考えた。
笑ってもらうため、そばにいてもらうために彼女のことを知ろうと努め、ことあるごとに彼女の素晴らしさを確認した。
なんだ、出発点こそ違えど、方向性こそ逆なれど、やっていることはおんなじだ。
あの子も、彼も、私は心から知ろうとしてしまった。
こんなもの、逃げられるわけがないじゃないか。
「あぁ、くそ。
悔しいなぁ。」
浮かぶ苦笑をそのままに、手元を見る。
スマホの電源は付いていて、ロックも問題なく外れた。
そのまま通話アプリを選択。
ゆらゆらと揺れる指は、Yの索引を押した。