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よいのくちより ともがたり  作者: ウタゲ
三章 ともにわらえば あしたをつづる
137/145

15 バラッド

「何にします?」 

「あたたかいもの。」

「はいはい。」

 

 紙幣を飲み込むモーター音と、それに続いてがこん、と商品が機械から落とされる音がした。

 街中、住宅街の中にあるエアポケットのようなこの神社には小さな生活音が辺りから響いてくる。

 日の光で熱せられ、夜の風に冷まされたことで立ち上る土と草の匂いに混じって洗剤や油、色んな生きた匂いがほのかに漂ってくる。

 

「どうぞ。」

「あぁ、ありがとう。」

 

 少しだけ開けられていたコーヒーのタブに指を沿わせ、引く。

 きり、という音と共に飲み口が開き、わざとらしいほどのコーヒーの香りが私の嗅覚を満たした。

 

「これ、知ってたのかな?」

「聞いてました、いつも飲んでるって。」

「そっか。」

 

 今まで一緒にいた子ならきっと知っている、そして、もちろんルカにも話してはいないが、何度か見せていた。

 缶のコーヒー、その中で唯一私が飲むそれを山上君が知っていることに、嬉しさを感じた。

 それがルカの私に対する興味によるものだと、そう思い込んでいた。

 

「……」

「……」

 

 じとりとし始め、ほんのり蒸し暑さを感じ始める空気も、この住宅街の中に切り取られた自然にはまだ触手を伸ばしては来ないようだ。

 手に包む缶の冷たさも相まって、歩くことでわずかながら溜まっていた体の熱が逃げてゆく。

  

「……」

「……」

 

 空白が満ちる。

 沈黙が私と山上君の間に積もり、二人の距離がどんどん空いていく錯覚に陥ってしまう。

 無声の空間、周りに響く家々の音に感謝し、ベンチの上から何の音も立っていないことが苦しくて、コーヒーに口をつける。

 苦く、酸味の強いそれが私の脳を日常に近づけた。

 喉を通り、胃に落ちた液体のせいか、腹の奥から寒さが湧いてきた。

 にわかに震え出す指を抑え、ベンチの座面に缶を置く。

 指先から始まった震えが、気づけば腕に、肩に登ってきて、靴の踵が小刻みに地面を鳴らし始める。

 

「せ……篠田さん。」

「うるさい。」

 

 足を持ち上げ、膝を自分に抱き寄せる。

 踵を座面に引っ掛け、両足の間に頭を乗せる。

 臍を覗き込む形、ベンチの上で膝を抱えるような姿勢になった私に、山上君が声をかけるがそれを切り捨てる。

 困惑と、これは女として誠に遺憾なのだが、めんどくささが声から滲んでいる。

 揺れる足を強めに抱きしめ、自分を小さく、強く丸める。

 何を起因としたものかわからない震えに、ぎゅっと目を閉じて抗う。

 今日一日。

 美術館、靴屋、駅近くの道路。

 色々とあった場所を思い出し、自分に何があって、何の感情が今の震えにつながっているかを思い出す。

 楽しさ、関係ない。

 嫉妬、関係ない。

 敗北感、全く関係ない。

 刃物、まだ遠い。

 依存、近いがやはり違う。

 カタカタと頭の中で映写機が回るように場面を変えていく中で、とある場面を思い出した時に心臓が跳ねた。

 山上君の体で私と信乃が隔てられたその時、少しホッとしてしまった私を見た信乃の顔。

 すでに浮かび始めていた涙が本格的に溢れたその瞬間が、私の中心に最も強い杭を打った。

 

「女の子を、泣かせちゃった。」

 

 山上君に言ったのか、思わず(こぼ)れたのか。

 言葉が自然に口から出てしまった。

 その無様さが悔しくて、抱き寄せた膝に顔を押し付ける。

 あの子は駄目な子だ。

 同情には値しない子だ。

 昔はともかく、今のあの子はそうだった。

 そう思う、そう評価すべき子のはずなのに。

 私でなければ。

 あの子の思い描く、私が演じた最高の私なら、誰も泣かせずに済んだんじゃないのかと、今になって思ってしまう。

 

「……」

「……」


 悲しいわけではない、と思いたい。

 涙は溢れないのだから。

 それでも、今の顔を誰にも見られたくなくて、膝を抱える腕の力を増した。

 その時、思わず鼻が鳴る。

 呼吸音に、ほんの少しだけ水音が混じった。

 とたん、山上君の雰囲気が変わった。

 

 隣にあった巌が、突然に風に揺らいだようなそんな不恰好。

 思わず目だけを動かし、横を見れば罰が悪そうに、音を立てずに炭酸飲料の缶を弄ぶ彼の姿があった。

 視線ではない雰囲気がこちらを向こうとしているのを感じ、それに先んじて彼を見る。

 困ったような、苛立ったような目の形は必死に前だけを見ているように見えた。

 

「……」

「……」

 

 ゴソゴソと、ベンチに置いていたリュックから何かを取り出したのが視界の端に映る彼の端切れと音から推測できた。

 

「は、いうぉッ。」

 

 言葉と共に差し出されたのはハンカチ。

 そこまではいいのだが、その後の動作が悪すぎる。

 私が視線を彼にやっていたことが驚きだったのか、自分が視界に捉えられていたことを私を見て気付いた彼が驚いた。

 麗しい女性相手にすべき行動ではないだろう。

 その抗議の意を込めて、顔を傾げ、改めて彼の方を見ながら細めた目を向ける。

 

「あー、あの、はい。」

 

 改めて差し出された飾り気のないハンカチを受け取る。

 畳まれたそれをじっと見るが、しわもなく、臭いもない。

 綺麗に四角く折られ、アイロンをかけられたそれを一回分広げ、両手で目を押さえる。

 ふわりと、ほんの少しだけ、錯覚とも捉えられるほどにかすかな白檀の香りがした。

 瞼の裏、ルカと一緒に学内のカフェで話した光景が目に浮かぶ。

 脳裏に浮かぶ光景の暖かさで、少しだけ体の芯に差し込まれた氷が解けた気がした。

 

「臭くない。」

「は?」

「男のくせに。」

「あぁ。」

 

 別に意味があって言った言葉ではない。

 何か口を動かさなくては。

 そんな気持ちで放った言葉だった。

 

「使ったこと、ないやつですから。」

「あっそ。」

 

 瞼の裏のルカが、山上君を自慢した。

 むかついて、ハンカチを握る手が力を増し、新品同様だったそれに皺が寄る。

 

「何か言えばいいじゃないか。」

 

 半分いじけながら、投げやりにそう言う。

 仕方ないだろう。

 私は今から、失恋の理由を積み立てに行くんだから。

 

「じゃなきゃ、私の琴線に触れる言葉の一つも言ってみてよ。」


 視界の下半分を自身の膝に隠されながら、薄暗い境内をぼうと眺める。

 必死に視界をぼやかせて、何も目にしないように、何も考えないように努める。

 何か、どうでもいいことで、思いもしなかったもので、私の感情が決壊しそうで怖かった。

 

「女の子をあんなふうに勘違いさせて、周りの人を巻き込んだ。

 そんな地雷みたいな女にさ。」

 

 本当に隣にいるんだろうか。

 そう思うほどに、何の空気の動きもない。

 隣で泣いている女がいるのに焦りも気まずさも感じない。

 だから、ルカは。

 

「別に、そこまでは思ってません。」

 

 疲れもなく、気負いも緊張もなく、喉からそのまま放られたような声はまあるく響き、隣にいる私の耳にその波を届けてくる。

 

「恋人いる女にモーションかける、テニサーを生息地にしてるチャラ男みたいな女だとは思ってますよ。」

「は?」

 

 感情というのは上書きされるものだ。

 まさに実地で私はそれを経験させられた。

 嫌悪感と苛立ちが、一時的に傷ついた私を忘れさせる。

 俄かに作り上げられた強い私は、蔑むような目の形で山上君を視界に収めた。

 

「でも、まぁ今日のあれは、先輩がやろうと思ってやったことじゃないんでしょ。

 多分。」

 

 無から負へ、負から正へ。

 回り回って、いつもの位置へ。

 私がどう思うか、私にとってどんな言葉が効くのかを知っているのかと思うほどに的確に、私は感情の上下動を経て彼の顔を見つめることになった。

 なんで。

 少しは冷静になった脳が問おうとする。

 かり、と爪の側面が缶の接合部を擦った。

 

「ルカも、俺も、勝手に外野が騒ぎまくることなんて経験済みですし。」

 

 どこか遠くを見ながらそう話す。

 私を視界に入れまいとする仕草はなく、本当に当たり前に虚空に目をやりながら、私を気遣うように視界から外しながら、当たり前の声が響く。

 

「あいつもね、色々見せられたんです。

 だから、本当に危ない人だったり、ことだったりには近寄らないし、逃げますよ。」

 

 あぁ、いや、あれはまぁ、大木さんも居たからしゃあないか、とポツリと呟く山上君に問い立てようとしたが、一言目に何を言えばいいのか迷い、わからなくなってしまって。

 結局、私が言葉を選ぶ前に山上君は言葉を続ける。

 

「でも、ルカは今でも先輩とは仲がいいんでしょう。

 だから、俺も信じます。

 先輩が自分から《《 ああ》》したんじゃないってことだけは。」

 

 ストンと、胸を突かれた気がした。

 あまりにも簡単に、褒め言葉でも賞賛の麗句でもない。

 適当で、ぐだぐだとした普通な言葉に、私の器が揺らされた。

 結果、視界が歪み、私の中身が溢れてしまう。

 色が滲む視界の中、横顔はちっとも動かない。

 悔しいような、安心するような、子供が無計画に重ね塗りした色のような感情のまま、私は山上君に渡されたハンカチを目に当て、膝の間に顔を埋めた。

 

「新品。」

 

 顔を埋め、しばらく。

 ハンカチを貫通し、膝が濡れる感触がする。

 それだけの量が私の眼窩からこぼれ出たということか。

 チラリと目をあげ、腫れぼったい瞼を広げた目に滲みがないことを確認し、そう呟いた。

 

「何ですか。」

「何で持ってるの。」

 

 ハンカチを握り、下瞼を軽く押すように拭く。

 マスは軽めにしたおかげでハンカチに溶け出た色はそこまで濃くはない。

 折りたたんで、鼻を押す。

 少しだけ溢れそうになっていた水を吸わせる。

 うん、鼻が通った。

 

「男のハンカチは、自分で使うもんじゃないっておばあちゃんに教わったんすよ。」

「おや、随分と。」

「随分と?」

「粋なご婦人だね。」

 

 裏返してたたみ、目尻に軽くハンカチを当てた。

 涙と化粧とで随分と濡れた部分の多いそれの中、かすかに残った乾いた部分から爽やかで、鼻に痛くない。不思議な香りが最後にした。

 

「ルカの匂いだ。」

「えぇ。」

「いい匂い。」

「えぇ。」

 

 不快だ、不潔だ、不愉快だ。

 大嫌いな男のカッコつけた行動、嫌悪感しか湧かないはずなのに。

 

「いい、匂い、だ、っ……!!」

 

 敵は、いない。

 カッコつける相手もいない。

 巌のような恋敵だけ。

 緊張から解放された私は、借りたハンカチを両手に持ち、それに顔を埋め、声を殺して泣いてしまったのだった。

   

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